8.また来てもいいですか
レインが祖母の元へ来てから、約十日が経とうとしていた。こちらの生活にもすっかり慣れ、とまではいかないが、祖母に教えてもらいながらなんとか自分のことは自分でできるようになったいた。掃除も洗濯も料理も。できるようになるのが何よりも楽しいし、祖母は事あるごとに褒めてくれる。それが何よりも嬉しかった。
褒めてもらえるということが、こんなにも嬉しいことであることを、初めて知った。
思い返せば、学園のときも、そして魔導士団に入団した後も、何かできてもそれが当たり前という風潮で誰も褒めてくれなかった。
魔力無限大なんだから、当たり前だろ、と。前魔導士団長の娘なんだから、当然だろ、と。
それを思い出し、レインはふぅと息を吐いた。
「あら、レインちゃん。疲れたかい?」
祖母は穏やかな笑みを浮かべている。
「いいえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていて……。こちらのお掃除ももう少しで終わります」
「そうかい、そうしたら今日は集落まで行ってみるかい?」
集落。つまり、他の人たちが住んでいるところ。
祖母はけして集落の人たちと仲違いをしたからこんな山奥の辺鄙な場所に住んでいるわけではない。薬草を採るのに便利だから、という理由。だから、たまには集落にまで足を伸ばすこともあるらしい。
「はい」
レインは嬉しくなって、力いっぱい頷いた。ここには自分のことを知っている人はいない。だから、それが余計に嬉しい。
さて、祖母が集落にまで足を伸ばすのは、食料や日常生活品の調達の他に、彼らに頼まれた薬を届けるためでもある。
「頼まれた薬を持ってきたよ」
と声をかけながら一軒一軒その家を訪れる。するとその家の者は隣にいるレインに気付き声をかける。
「私の孫だよ」
祖母が言うと、レインは「レインです」と少しだけ頭を下げる。姓を名乗らないのは、ここにその名は不要であると思っていたから。いや、不要。前魔導士団長の娘、魔導士団長の婚約者、魔力無限大の娘、そういった肩書そのものが不要である場所。
「おばあちゃんに、こんなかわいいお孫さんがいたの?」
三軒目に訪れた家は、若い夫婦と幼い子供がいる四人家族の家だった。父親は仕事へ行っていて不在だと言う。今は母親と子供たちだけ。
「どうぞどうぞ、入って入って」
この家の母親が明るくレインたちを迎え入れてくれた。幼い子供たちは、五歳と七歳の女の子だった。もじもじとしながら「こんにちは」と挨拶をしてくれた。レインも腰を曲げて、目の高さを彼女たちに合わせて「こんにちは」と言うと、二人はニコッと屈託のない笑顔を向けてくれた。そして、二人はレインの右手と左手の袖をそれぞれぐいっと引っ張る。
「遊んで欲しいんだよ」
祖母は言う。
「遊ぶ?」レインは首を傾けた。「どうやって?」
祖母は気付いてしまった。ああ、この孫は遊び方も知らないのか、と。どのような暮らしがそうさせたのか、追求してはならないのかもしれない。
「これじゃ、どっちが遊んでもらっているのか、わからないね」
幼い子供たちに囲まれながら、その子たちと同じような笑顔を浮かべているレイン。
「おばあちゃんの跡継ぎ?」
母親は目を細めて、言う。
「そんな立派なもんじゃないよ。今はここに勉強にきているだけだ」
「そういえば、ニコラは元気かしら」
この母親は、昔からのニコラとの知り合い。
「元気も何も無いね。昔からの放浪癖で、今でもこうやって娘を置いて放浪してるさ。子供たちに聞いたら、ときどき手紙は届くらしいよ。この大陸のどっかにはいるってさ。私には手紙の一つも寄越しやしないのにね」
「この大陸のどこかって。もう、ニコラらしいわね」
母親はぷっと笑った。
「私も、たまには娘たちを置いて、どこかに放浪したくなるときもある。一日中、この娘たちと一緒にいると、気が滅入ってしまうときもあるの」
だから、祖母はこの母親に薬を渡していた。気持ちが穏やかになるような薬を。
「ねえ、レインちゃん」
母親がレインの名を呼んだ。
「よかったら、また遊びに来てくれない?」
「え、いいんですか?」
レインの顔がぱーっと輝いた。
「お姉ちゃん、また来てくれるの?」
「おねーちゃん、またきてね」
二人の姉妹、姉がアニーで妹がシャリー、が、交互にそんなことを言う。その言葉に、ついついレインが顔をほころばせる。
「なんか、よくわからないけど。嬉しいです」
「お姉ちゃん、泣いてる?」
アニーに指摘され、目尻を小指でぬぐった。ちょっとだけ濡れている。
「あら、本当。どうしてでしょう?」
「おめめに、ごみー」
シャリーが目にゴミが入ったのではないか、と言って、レインの瞳を覗き込む。
「えっと。シャリーさんは私のことを心配してくれたのでしょうか?」
うん、と力強く頷く。アニーもうん、と言う。
なぜか目尻にたまっていた涙が溢れそうになるが、それをぐいっと食い止めようとしたため鼻の奥が痛い。
「レインちゃん。そろそろおいとましようかね」
祖母が言い、よっこらせ、と立ち上がる。
「お姉ちゃん、もう、帰るの?」
「おねーちゃん、もっとあそんで」
「こらこら、アニー、シャリー。お姉ちゃんはお仕事があるから」
こんなとき、レインはどのような言葉を口にしたらいいかがわからなかった。こんなこと今までなかったし、誰も教えてくれなかったから。
「また、来てもいいですか?」
と、姉妹の母親に聞くことしかできなかった。
「ええ、もちろん。今度はおばあちゃん抜きでいらっしゃい」
母親がそう言うものだから。
「あらあら。年寄りは邪魔ってことかい?」
と祖母も笑って答える。
でもレインはそれにどうやって返事をしたらいいかが、ますますわからない。
ただ、小さく「また、来ます」とだけ言った。
あの親子の家を後にする。レインは何度も頭を下げてしまった。あの母親に、そしてあの姉妹に。
「レインちゃん、ちょっと急ごうかね。まだまだ薬を届けなければいけない家があるんだよ」
「もしかして、私のせいで遅くなってしまったのでしょうか」
「そんなこと無いよ。あの家はね、お母さんがちょっと疲れているから、ああやって話を聞いて、子供たちの様子を見ることも必要なんだよ。今日はレインちゃんが一緒に遊んでくれたから、お母さんも喜んでいたよ」
「また、あの子たちと一緒に遊びたいです」
「そうだね」
このレインという孫は、年齢よりも大人びて見えるけれど、心は幼いということに気付いた。多分、人と接した経験が圧倒的に少ないのだ。どのような生活がそうさせたのか、祖母は知らない。だがここにいる間だけは、その心の成長を見守るのも悪くはないのかもしれない。
「レインちゃんはお友達とどのようなことをして遊んでいたんだい?」
「友達?」
はて、友達とは何だろうか。
「友達って、お兄様のことではありませんよね」
「そうだね。ライトくんはレインちゃんの家族だからね。学校に行っていたんだろう? 学校で一緒にお話したり遊んだりする親しい子はいなかったのかい?」
答えはもちろん「いません」なのだが。
なぜかレインは、また鼻の奥が痛くなった。学園時代も、年上の学生と接する機会が多かった。そのためか、彼女に寄ってくるような人間はいなかった。魔法の勉強をするのは嫌いではなかったが、授業と授業の合間のちょっとした時間は嫌いだった。だから、その嫌いな時間を有意義に使おうと思い、魔導書を読み始める。すると、余計に人が寄り付かなくなる。そして、レインはその時間が余計に嫌いになる、という悪循環。
たまに、学園内で兄やトラヴィスと顔を合わせることもあった。兄とは昼ご飯を一緒に食べることもあった。課題に困っていると、研究所にも連れて行ってくれ、そこで課題を教えてもらうこともあった。思い返せば、困った時に側にいてくれたのはいつでも兄だった。
トラヴィスは、いつもレインが一人でいるところを見計らって声をかけてきた。別に何も特別なことを話すわけでは無い。授業でどんな魔法を習ったとか、そういった報告をすると、彼は必ず笑顔で「そうか、よかったな」と声をかけてくれた。
彼はいつも、温かな笑顔でレインを見守ってくれていた。
魔導士団の入団が決まった時も、トラヴィスは誰よりも喜んでくれた。入団の祝いにと、耐毒性の魔法付与がされた髪飾りを贈ってくれた。それは今でも身に着けている。少し端の方が欠けてしまったけれど、それでも身に着けているのはなぜだろう。
魔物討伐の遠征のときも、トラヴィスは誰よりも体の小さなレインを気遣ってくれた。
トラヴィスは……。
トラヴィスのことばかり思い出してしまうのは、なぜだろう。
彼は元気にしているだろうか。
目の奥が熱くなった。鼻の奥も痛くなった。
トラヴィスに会いたいと思った。