21.幸せになれよ
次の日。祖母が帰ってきたタイミングでトラヴィスを紹介すると、祖母は目を細めて。
「父親に似た人を好きになるというのは、本当だねぇ」
と笑っていた。
トラヴィスはすぐに王都へと戻ると言う。何しろ休暇が五日しかないから。移動だけで、回復薬を使ったとしても丸っと一日以上かかるから。
「次は必ず迎えに来る」
「はい、お待ちしております」
トラヴィスだって、本当は今すぐにでもレインを連れて帰りたい。だが、彼女は今、薬師として修業中の身。それを中途半端に放り出して戻ることはできない、と言う。
このような責任の強さを持ち合わせているところが、彼女の魅力的な面の一つでもあるのだが。
「トラヴィス様。あの、お母様からいただいた回復薬は私の方で預かりますので。もし、帰りに回復薬が必要になったらこちらを」
レインが小瓶を二本手渡した。
「これは、トラヴィス様のために作ったものですから」
彼にとってはレインのその気持ちが嬉しい。本当に今すぐにでも連れて帰りたい。
「ありがとう、レイン」
「そしてこちらは、この子の回復薬です」
レインが言うこの子とは、トラヴィスの愛馬のことだろう。そう言った表現も愛らしい。
トラヴィスは軽く唇にキスをするが、なぜかレインが顔を赤くする。誰も見てはいない、と言うのに。昨日はもっと深い口づけを交わしたというのに。
「トラヴィス様」
それを誤魔化すかのように、彼の名を呼ぶ。
「くれぐれも、くれぐれも」
二回言った。大事なことのようだ。
「書類は溜めないで、すぐに処理してください。いいですね、わかりましたか? 返事は?」
「はい……」
やはり彼女はレインだった。
「トラヴィス様は、やればできるんですから。ほんとに、もう、興味のないことはとことん後伸ばしにするか、やらないか、ですよね」
「ご指摘の通りです」
その通りなので、言い訳のしようがない。
「トラヴィス様」
そこでレインが背伸びをしてきたため、トラヴィスは少し身をかがめた。彼女の唇が軽く頬に触れる。これはこれで、いいかもしれない。
「レイン」
目を見開き、彼女を熱く見つめるが。
「もうおしましいです。これ以上は離れられなくなってしまいますから。あと、その書類は、きちんとお兄様に渡してくださいね。お兄様にビリビリに破かれないように、きちんとした態度をとってくださいね」
「わかった」
トラヴィスは軽く彼女を抱きしめてから、馬に乗った。
レインの回復薬のおかげか、本来ならば三日かかる距離を一日半で移動した。気付けば休暇も最終日。一度自宅へ戻り、着替えてからカレニナ家へと向かう。暇な、というとライトに怒られるため、時間が自由に使えるライトは、今日は間違いなく自宅にいるはずだ。
カレニナ家の着くと、ライトが出迎えてくれた。
「なんだ。レインは一緒じゃないのか。振られたのか、お前」
「振られてはいない」
「まあ。とにかく中に入れ」
嫌そうな表情を浮かべるライトに促されて、トラヴィスは中へと入った。このライトの嫌そうな表情はどのようにとらえればいいのだろうか。
談話室に通され、座れと言われる。ライトは酒を取り出そうとしていたが、日の高いうちからおやめください、と執事にとめられていた。酒を準備しようとした、ということはいろいろと察するところがあるのだろう。
「ライト。レインと結婚させて欲しい」
腕を組んで、足を組んで、ライトがジロリと視線を向ける。
「レインは、何と言っていた?」
「はい、と。言ってくれた」
「そうか」
ライトは表情を崩さずにトラヴィスを見ている。
「まさかお前。レインのこと、脅していないよな。結婚しないと死ぬって」
「そんなことは言っていない。むしろ、私にかぎった話でもないことを伝えた」
「なっ、伝えたのか」
「ああ」
ライトは、はぁと大きく息を吐く。
「お前の真面目さも、そこまでくると呆れるな。まあ、それがお前のいいところでもあるが。レイン、怒らなかったか?」
「めちゃくちゃ怒られた」
ライトは苦笑するしかなかった。
レイン自身も、自分の気持ちに自信はないが、恐らく昔から、トラヴィスのことを気にはしていた。もしかしたら、兄の友達の一人という気に仕方だったのかもしれないし、ほだされていたのかもしれない。
だけど、その気持ちが徐々に変化していったことに、彼女自身も気付いていないのだろう。
トラヴィス同様、妹も不器用な人間だと思う。大人に囲まれ過ぎて成長したから、かもしれない。
「レインにもサインをもらってきた」
それは教会に届けるための結婚申請書。間違いなく彼女のサインがある。
「その、見届け人はお前に頼みたい」
「ああ、わかった」
書類にサインをしながらライトは言う。
「お前さ。レインのこと泣かせたら、殺すからな」
物騒な言葉が出た。
「泣かせるつもりは無い」
「どうだか、ほらよ」
サインした用紙をトラヴィスに手渡す。
「ああ、ありがとう」
それを手にして席を立とうとするトラヴィスにライトは声をかけた。
「トラヴィス」
「なんだ」
「お前も幸せになれよ」
自分自身を幸せにできないような男が、なぜ他人を幸せにできるのだろうか。
否。
だから、ライトはトラヴィス自身にも幸せになってもらいたい。
「トラヴィスくん」
談話室を出て、五歩程歩いたところでニコラに呼び止められた。
「レインは? 元気だった?」
「はい。今、ライトからレインとの結婚の許可をいただきました」
結婚申請書を見せる。
「そう。今は、ライトが当主だからね。私が口を出す話ではないわね」
と言いながらも顔を緩めているのは、娘の結婚を喜んでいる証拠、と思ってもいいのだろうか。
「で、トラヴィスくん。私の回復薬はどうだった?」
この笑みは確信犯だ。
「レインに、ばれました」
「え、レインに? やるわね、あの子。それで、なんか言ってた?」
「その、ニコラさんの回復薬には催淫剤が含まれている、と」
「だって。トラヴィスくん、真面目なんだもの」
「いや、ですが。その、団長との約束ですので。それを破ってしまうと、その、レインとの婚約が無効になるわけで……」
また、必死で言い訳をするトラヴィス。
「私たちの婚約には団長の契約魔法がかけられているので、それを破ると無効になってしまうわけで」
「えー。あの人、そんなことまでしていたの? よっぽど、あなたにレインを取られるのが悔しかったのね」
ニコラは声をあげて笑っていた。
「トラヴィスくん。レインのこと、頼むわね。それから」
そっとニコラはトラヴィスの耳元で囁く。
「レインの魔力が回復したら、教えてね」
つまりは、そういうこと。
トラヴィスは申請書を教会へと提出した。この婚姻の書類は提出して受領されれば、婚姻が認められるわけで、だがそのサインを偽造する者もいるわけで。
だから教会ではきちんと本人が書いたサインであるかを確認する術を持っている。トラヴィスのそれも確認されたが、何も問題なく受領された。
紙切れ一枚ではあるが、これでレインと結婚したことになる――。
その後、自宅に戻ったトラヴィスは、使用人たちに結婚した旨を伝える。彼もまた、イーガン家の当主となっていた。両親はとっくの昔に他界している。それもこれも魔物のせい。
トラヴィスは自室のベッドへと倒れ込むと、そのまま次の朝まで眠りこけた。
眠りこけてしまったトラヴィスは気付いていない。この屋敷の使用人たちが彼のことを心から心配して、不安になっている、ということを。
彼の婚約者がカレニア家の娘であることを、皆、知っている。だが、本当に結婚できるのか、というところは不安だった。何しろ相手は、魔導士としても名門のカレニア家。対してイーガン家は、魔導士の家系というわけではない。仮に彼の両親が生きていたとしたら、トラヴィスが魔導士団長になったことを心の底から驚いていただろう。というそんな家。
だから、彼が「レインと結婚した」と報告したことに対して、とうとう妄想に取りつかれてしまったのか、と心配していた、ということだ。




