19.しっかりしてください
トラヴィスは貪るようにレインと唇を合わせる。だが、何かをごくりと飲ませられた。喉が焼け付くように熱い。
「レイン、君は今、何を」
その隙に、レインはトラヴィスの腹を蹴って下から逃げた。
「トラヴィス様、目を覚ましてください」
脱ぎ捨てられた彼の上着を丸めて、その顔めがけて投げつける。ぽふっとそれがトラヴィスの顔面に命中し、彼は目をしばたいた。
レインは先ほどのワンピースを頭からかぶる。
「トラヴィス様」
仁王立ちしたレインは、いつものように声をかけていた。
「しっかりしてください、トラヴィス様」
ベッドの上で正座をしているトラヴィスはやっと状況を飲み込めたようで。
「レイン、私は今まで何を」
ちょっとだけ蹴られた腹が痛い。
レインは肩で大きく息を吐いた。それはトラヴィスが元に戻ったことに対する安堵のため息。
「トラヴィス様、お茶にしましょう」
くるりとワンピースの裾を翻して、レインは部屋を出ていく。
トラヴィスは投げつけられた上着に手を通すしかなかった。
着替えてから隣の部屋へと向かうと、鼻孔をくすぐる香りが漂っていた。
「トラヴィス様、どうぞこちらに」
よくわからないけれど、トラヴィスは促されたまま椅子に座るしかない。
「どうぞ」
レインはお茶とお菓子をすすめて、トラヴィスの向かい側に座る。テーブルの上に肘をついて、頬杖をつき、ニッコリとトラヴィスを見つめる彼女。
「ああ、ありがとう」
トラヴィスは知っている。この状態の彼女は、物凄く怒っている、ということを。書類仕事を放り出してその辺に逃げていると、こんな顔をしてよく彼女は追ってきたものだ。
トラヴィスはレインが淹れたお茶を一口飲んだ。
「にがっ」
「薬草茶ですから。目も覚めて、疲れもとれて、一石二鳥ですよ」
やはり、頬杖をついたままのレインが答える。
だから、この状態の彼女をトラヴィスはよく知っている。彼女が物凄く怒っている、と。
「よろしかったら、お菓子もどうぞ。甘いものですが」
彼女の目が怖い。顔は笑っているように見えるけれど、目が、目が、怒っている。
「すまない」
と目を伏せて、一言だけ詫びる。怖くて彼女の顔を直視できない。
じっとトラヴィスを見ていたレインだが、ふっとその表情を和らげた。
「いつものトラヴィス様で安心しました」
そこでレインも一口、お茶を飲んだ。
「私も、レインが元気そうで安心した」
トラヴィスが顔をあげると、彼女と目が合った。黙ってお茶を飲んで、お菓子をつまむ。甘い、そして苦い。
「トラヴィス様、そろそろお話をうかがってもよろしいでしょうか」
その沈黙をやぶる一言。
何を、と聞き返したら、間違いなく彼女は怒るだろう。伝えなければならないことはたくさんある。
だが、なかなか言葉が出てこない。あれほど会いたかった彼女なのに、本人を目の前にすると、言葉が詰まる。
「では、私の方から質問させていただきますね」
レインはテーブルの上に置いた両手をきゅっと握りしめる。
「トラヴィス様は、こちらのことをどなたから聞きましたか? 兄、ではないですよね」
目の前にいる少女は、魔力を失ったことに対して怯えているような少女ではなかった。
「ニコラさん」
小さな声でトラヴィスは、彼女の母の名を伝えた。
「お母様、ですか。お戻りになられたのですね」
そこで、ふう、とレインは息を吐く。
「トラヴィス様。お母様から、変な回復薬とか、もらっていないですよね」
ジロリと視線をトラヴィスに向ける。
「変な回復薬? 普通の回復薬だと思うのだが」
「もらったのですか?」
「ああ。そして、飲んだ」
「飲んだんですか」
ガタンと音を立ててレインが立ちあがったため、トラヴィスはちょっと驚いた。
「すいません、取り乱しました。その、母からもらった回復薬って、まだありますか?」
「ああ、残っている」
トラヴィスは革袋から回復薬の小瓶を取り出した。それをレインに手渡す。彼女はその回復薬の蓋をキュポッと開けると、匂いを嗅ぎ、そして一口だけ舐める。
「トラヴィス様、これ」
「なんだ?」
「催淫薬も混ぜられていますよ?」
良かった。口の中に何も含んでいなくて。思わず、トラヴィスは吹き出すところだった。
「いや、それは。ニコラさんが渡してくれたもので」
必死で言い訳をしているトラヴィス。いつもの彼だ。
「ええ、トラヴィス様がウソをついていないことは、わかっています。ですが、母の薬は怪しいので、あまり信用なさらないでください。多分、こんなことだろうと思って、先ほどトラヴィス様に飲ませた薬が解除薬です」
実の母の薬を怪しい、と言い切ってしまうところが、さすが娘だと思った。
しかも、解除薬まで準備していて、それを飲ませるという機転の利いた行動力。
「その、すまない。乱暴なことをして」
「いえ。お気になさらないでください。全ては、母のせいですから」
レインは一口お茶を飲む。トラヴィスも自分を落ち着かせるために、お茶を飲む。
「それで、トラヴィス様は何のためにこちらまでいらっしゃったのですか」
そんなこと、聞かなくてもわかっている。トラヴィスのことだから。
でも、レインは聞かずにはいられなかった。
「レイン。君を迎えにきた。私と結婚して欲しい」
その言葉に、レインは固まった。息をするのを忘れるくらいに、動けなくなった。
トラヴィスが昔から自分に好意を寄せてくれていたことはわかっているつもりだ。もちろん、婚約者でもあるし。
だけど、そうやって直球で言われてしまうと、どうしていいかがわからない。
「トラヴィス様。何度も申し上げておりますが。私は魔力を失いました。こんな私がトラヴィス様の相手にふさわしいとは思えません」
冷静に、そう、いたって冷静に。感情を押し殺して、その言葉を口にした。
だが、トラヴィスから戻ってきた言葉は。
「それについては問題ない。君の魔力枯渇の原因もわかっているし、それの対処法もわかっている。間違いなく、君の魔力は戻る。だから、私と結婚して欲しい」
テーブルの上で組んでいた両手の上に、トラヴィスが手を重ねる。トラヴィスの手は大きくて、そして温かい。
「トラヴィス様……」
「私は、君のことを愛している。君と家族になりたい。そう、ずっと思っていた。誰にも奪われないように、四年前から君を縛り付けて、大人になるのを待っていた。そういうずるい男だ。そんなずるい男は嫌いか?」
レインは勢いよく顔を左右に振る。それの表す意味は、いいえ。
「レイン。私と結婚して欲しい」
トラヴィスと目が合う。じっとそれから逸らすことはできない。
「……はい」
レインはやっとの思いで、その二文字を絞り出した。
トラヴィスは立ち上がると、彼女の顔に自分の顔を近づけ、軽くキスをする。
「なんか、恥ずかしいです」
軽い口づけにも関わらず、なぜか恥ずかしい。先ほどまでは深くかわしていたというのに。例えそれが薬のせいだったとしても。
それを誤魔化すように、レインは苦い薬草茶を飲む。その苦みが、ふと現実に引き戻す。
「そういえば、トラヴィス様。私の魔力枯渇の原因がわかったとおっしゃっていましたよね。何が原因なのでしょうか。それに、私がトラヴィス様を受け入れないと死んでしまうとか、そんなこともおっしゃっていたような気もするのですが」
純粋な瞳で見つめられてしまうと、トラヴィスも答えることに少々戸惑ってしまう。
「えー、あー。そのー」
と視線が定まらない中、そんな言葉を発していると、またレインがじとーっと見つめてくる。
「もしかして。嘘をつかれたのですか」
「嘘はついていない。君の魔力は必ず戻る」
「だったら、なぜ教えてくださらないのですか」
「いやー、あのー、それは、だね」
相手がライトなら話せるのに、レインだと口にすることができないのはなぜだろう。
「トラヴィス様、はっきりとおっしゃってください」
レインが向かい側から上半身を乗り出してきた。
はっきりと言っていいものかどうなのか。こういうときに限って資料は無い。あの家から持ち出し禁止にしてあるからだ。
トラヴィスは逃げ場を失った。




