12.嬉しかったんだろう
こっそりと部屋の中を覗くと、レインは小さな寝息を立てていた。彼女に気付かれないようにそっと扉を閉める。
「もう、眠ったようですね」
ライトは祖母に向かって言う。そして、テーブルに備え付けられている椅子へと腰をおろす。
「久しぶりに、ライトくんに会えて嬉しかったんだろう」
祖母はお茶を二つ淹れた。一つをライトの方へと置く。
「レインに聞かれたくない話なんだろう?」
向かい側に座る祖母のそれに頷く。
「あの。ベイジル様の論文や資料は、この家に残っていますか?」
両手でお茶を抱えながら、ライトは尋ねた。
「うーん、無いね」
だが、即答だった。
「見るからにこんな質素な家だ。あんな大層なものがあったら、すぐに気づくさ」
「大層なもの?」
「本当にあの人は、ここに来てから書き物しかしてなかったよ。その辺に紙を散らかして、よくニコラに叱られていた」
顔に皺を刻んで微笑んだのは、やはり懐かしさからくるものなのだろう。きっとそこには仲睦まじい光景が繰り広げられていたはず。
「両手では持ちきれないくらいの紙の山だったね」
そこでなぜかライトはトラヴィスの机の上を思い出した。それほどの書類、いや論文というか資料。ベイジルはそこまでして何を書き留めていたのか。
「仮に、この家にあるとしたらニコラの部屋だろうね。今はレインが使っているけど。だけど、見た通り、何もなかっただろう?」
ご指摘の通り。
「やはり、義母さんに聞かないとわからないですかね」
そこでライトはため息とまではいかないような息を吐いた。
「そうだね。ああ見えても、あの二人は本当に仲が良さそうだったよ。まあ、だからレインが生まれたわけだがね」
祖母の話とアーロンの話は相反するものにも聞こえる。一体、ベイジルとはどのような男だったのだろうか。
謎は深まるばかり。
ライトはこの薬師の家に二泊した。レインが薬草を採りに行くのを一緒についていったり、一緒に食事の準備をしたり、と。とにかく妹と一緒に何かをして過ごしていた。
そして、彼女は今、回復薬を準備しているようだ。今日の午後、ライトは王都に戻る。ここから王都までは馬で三日かかる。それは馬だって一日中走れるわけではないからだ。休憩を含めての三日。ただ、回復薬を使えばそれを短縮できるのではないか、ということで、レインは今、馬のための回復薬を準備しているらしい。その発想は無かった。
彼女は、魔法だけでなく本当に薬師としての能力も発揮してくれそうだ。こんなに頼もしいものはない。
「お兄様。気を付けてお戻りください」
レインは兄を見上げて言った。
「ああ。次は迎えに来られるように、少しいろいろと調べてみるよ。今はまだ、連れて行くことはできないけれど」
それは彼女の魔力がゼロのままだから。あそこに連れて帰るには、まだ早い。
「はい。ですが、お兄様のその気持ちだけで充分です。ここは、時間が緩やかに流れていて、集落の人たちも穏やかですから。私には、このような場所が合うのかもしれません」
その言葉にライトは返事をしなかった。ただ黙って、彼女の頭を優しく撫でた。
「あと、お兄様。一つ、お願いがあるのですが」
「なんだ?」
少し言いにくそうに口をもごもごさせてから、レインは言葉を続ける。
「これをトラヴィス様に。私が作った回復薬です。トラヴィス様のお口に合うように、普通の回復薬と味をかえてみました」
というのも、トラヴィスは回復薬全般を「甘すぎる」と言って飲んでいた。彼は甘いものが苦手なのだ。だから、その甘味を少し抑えたものをと思い、作ってみた。魔力回復薬は試すことはできないが、体力回復薬ならレインでも飲んでその効果を試すことができる。だから、体力回復薬を作ってみた。
「わかった。必ずトラヴィスに渡す」
「お兄様。トラヴィス様は、その、お元気ですか? トラヴィス様は、すぐに仕事を溜めてしまわれるので、それが少し心配なのですが」
「ああ、元気だ。仕事は、そうだな、お前の言う通りだ」
そこでライトは苦笑する。
「だが、今はドニエルがそれを手伝っているらしい」
「まあ、ドニエル様が。それはよかったですね」
レインのそれは、心の底からそう思ったのかどうかはわからないような、微妙な笑顔だった。
「あの」
とレインはまだ何か言いたそうだったが、その続きの言葉がなかなか出てこない。
言いたくないこと、言えないことは無理して口にする必要は無い、その時がきたらでいい、とライトが伝えたら、目尻を下げて笑った。それは、多分、泣きたいのを我慢しているからだ。
「お兄様、お気をつけて」
すっとレインが前に出て、ライトの背中に手を回した。ライトは彼女の背に自分の手を回したくなることを、ぐっと堪えた。それは、彼女は大事な妹だから、と自分に言い聞かせる。妹が離れるのを待つ。
彼女は満足したのか、その身体を離して、再び兄を見上げた。泣きたいのを必死にこらえているのだろう。
「そろそろ戻る」
ライトはレインの肩に手を置いて、その身体をさらに引き離す。危ないから下がっていろ、という意味を込めて。
レインは兄の姿が見えなくなるまで、それを見送った。
ライトは十日程休暇、ではなく、研究という名の旅行ではなく、研究のための遠征で申請をしていた。これが研究所所属の特権である。
「ほらよ、土産だ」
以前よりはマシになっているトラヴィスの執務席の机の上に、レインから預かった回復薬の瓶を二本、置いた。
「なんだ、これは」
怪しいものでも見るかのようにその小瓶を見る。
「回復薬だ」
「回復薬、だと?」
うさんくさい回復薬であると思っているのだろう。小瓶を一つ手に取ると、顔の高さまで持ち上げて、上から下から横からと眺め始めた。
「どこの回復薬だ? 普通の回復薬と違うような気がする」
「ほう、それくらいはわかるのか。さすがだな」
トラヴィスの眉がぴくりと動いた。
「私をバカにしているのか?」
「いや? だが、さすがにそれを作った奴はわからないだろうな」
「薬師だろ」
当たり前の答えが返ってきた。
「まあ、薬師だが」
ライトはついつい吹き出してしまった。
「なんだ?」
怪訝そうにトラヴィスがライトを見上げる。
「レインだ」
「何が」
「その回復薬を作ったのが、レインだ」
「レインが?」
トラヴィスは手にしていた小瓶をもう一度、目の高さにまで持ち上げた。そしてそれをもう一度、上下横からと見つめる。怪しいものを見るかのように、ではなく、愛おしいものを見るかのように。
「魔力を失っても、お前の役には立ちたいんだろうな。健気じゃないか」
トラヴィスは何も言わずに、その回復薬の蓋を開ける。そして一気に飲み干す。
「甘くないな」
とトラヴィスが呟いたのを聞き届けてから、ライトはトラヴィスに背を向けた。
「ライト」
部屋を出て行こうとする彼の背に、声をかけるトラヴィス。
「レインは、その。元気なのだろうか」
「ああ、元気だな。お前のことは心配していたよ。すぐに仕事を溜めるってな」
振り向きもせずにライトは答えた。きっとトラヴィスは情けない顔をしていることだろう。そんな彼の姿は、今、見たくない。そのまま、肩越しに手を振ると、ライトは部屋を出ていく。
部屋に残されたトラヴィスは空になった小瓶をギュッと握りしめた。
レインは覚えてくれていたのだろう。回復薬が甘い、と言っていた自分を。そうやって自分のことを考えてくれているレインが、愛おしい。そして、彼女に会いたい。彼女に触れたい。抱きしめたい。
トラヴィスは両手で顔を覆った。
レインが実は大魔導士ベイジルの娘であったということ。それからこのまま魔力枯渇が続けば、近い将来、彼女を失ってしまう、ということ。
それだけは避けたい。
できることならば、彼女と共に年を重ねて、彼女と家庭を築きたいと、願っている。そう思っている自分がいる。
トラヴィスはわざと音を立てて立ち上がった。それは自分を奮い立たせるために。
部屋を出て、隣の部屋にいるドニエルに「魔導図書館へ行ってくる」とだけ告げた。ドニエルは「いってらっしゃい」と事務的に答えた。




