1.魔力が枯渇しました
「あ」
力が失われたのを感じた。両手に念じても何も出てこない。魔力がたまる感じもしない。
魔力枯渇。
それが、レインの頭に浮かんだ言葉だった。
「おい、レイン。何をぼやっとしている」
横から声が飛んできた。上司であるトラヴィス。
「あの、トラヴィス様」
「どうかしたのか」
「あの。魔力が無くなりました」
トラヴィスは右手で炎の魔法を魔物たちにぶつけ、左手の防御魔法でレインを覆った。そして、右手で魔法をぶっ放しながら、横歩きでレインに近づいてくる。
「それは、本当か」
「はい。魔法が、もう、使えません」
レインが深く息を吐きながら、そう言った。
ちっ。
トラヴィスは盛大に舌打ちをした。なんてことだ、という彼の声が聞こえたような気がした。
彼女は身を縮めるしかなかった。
モールズワース大陸の東にあるマセイアン国。その周辺を広大な緑に囲まれているが、魔物たちにも囲まれている国であった。
人間と魔物の共存と言われているが、魔物は人間たちに牙を剥く。人間たちは、剣と魔法を駆使して魔物から自分たちの生活を守っていた。そのため、マセイアン国には騎士団と魔導士団が存在する。
その魔導士団の団長の執務室に黒い髪の少女が一人立っていた。その机を挟んで座っているのは魔導士団団長トラヴィス・イーガン。こげ茶色のウェーブのかかった長い髪が、年齢よりも落ち着いた雰囲気を醸し出してくれる。
二十六歳という若さで団長の椅子に座り、かれこれ二年。今回のような事態は初めてだった。いや、むしろ、魔導士団設立以来の出来事であると思っている。
「レイン・カレニナ。魔力が枯渇したというのは本当だろうか?」
机の上に両肘をついて、その両手を組んでいる。その手が邪魔をして顔の表情の全部が見えないところが怖い。
「はい。どうやらそのようです」
「それで、魔力回復薬は飲んだのか?」
「はい。ですが、それでも魔力は戻りませんでした」
「昨日はきちんとぐっすり眠れたのか?」
「はい。それなりに」
そこでトラヴィスは口をつぐんだ。
「手を出してくれ」
「はい」
レインはその小さな手を、トラヴィスの前に差し出した。トラヴィスは優しく彼女の手をとる。
「魔力鑑定」
彼が呟く。
本来であれば彼女の魔力が彼の方に流れていく魔力を感じるはず。
だがレインは何も感じない。彼にとられた手から、彼の体温を感じる程度。
しばらくして、トラヴィスは目を見開いた。その手は離さない。
「本当に、魔力が無い。一パーセントさえも残っていない。レイン、君の魔力はゼロだ」
宣言された。わかっていたことなのに、改めて口にされると、心の中をガツンと殴られたような衝撃。
「つまり、私はもう、魔法が使えないってことですよね」
トラヴィスは頷く。
「つまり、もう。魔導士ではないってことですよね」
それには頷かない。
「魔力の枯渇も一時的なものかもしれない。だから、正確には、今は魔法が使えない、だ」
トラヴィスが言ったのは、彼の優しさからくるものだろうか。
「私、魔導士団、クビですよね?」
レインにとってそれの答えを聞くのが一番怖かった。魔法が使えなくなって最初に頭をよぎったのは、魔導士団を退団させられること。
「それは、今のところ考えてはいない」
ぎゅっとトラヴィスが握っていた手に力を入れた。
「トラヴィス様?」
「私の側で、私の仕事のサポートをしてくれればいい」
それは彼の本心だろうか。
「ですが。魔法の使えない私は、お荷物です」
「何も、魔物討伐だけが魔導士の仕事ではないよ」
トラヴィスはまだ優しく手を握っている。
「私の側にいてくれさえいれば、君の魔力枯渇の原因についても調べやすい。何しろ、回復薬でさえも回復しないというのは前代未聞だからね」
つまり、研究対象というやつか。
「とりあえず。これを一本、飲んでみようか」
トラヴィスはどこからか魔力回復薬を取り出した。少し楽しそうにも見える。
「はい」
とレインは、渋々とそれを受け取った。
「レイン」
トラヴィスは彼女の名を呼ぶと、こっちへこい、というように右手をひらひらと振っている。レインは机をぐるりとまわって、トラヴィスの隣に立った。
「ここに座りなさい」
トラヴィスが言うこことは彼の膝の上。
「あの? そこに、ですか?」
視線をそこに向ける。
「そう、ここ」
トラヴィスは楽しそうに、その膝をポンポンと叩いた。
「魔力回復薬を飲んでも、本当に魔力が回復しないのかを、近くで確認したい」
「ですが」
「私がいい、と言っているのだから気にする必要はないよ。それに私と君の仲じゃないか」
「では、失礼いたします」
彼の顔に背を向けて、そこに座ると。
「できれば、君がそれを飲むところも見ておきたい」
とか言われてしまったので、座る向きをかえた。レインの顔の右側に、何か企んでいるような笑みを浮かべたトラヴィスの顔がある。
「飲ませてあげようか」
レインの背中に左腕を添えたトラヴィス。
「いえ、自分で飲めますから」
「そう?」
なぜか、残念そうだ。
レインは魔力回復薬の瓶を手に取ると、それの蓋をキュポッと開けた。左手にそれを持ってゆっくりと口元に運ぶ。誰かに見られながらこれを飲むというのは、非常に恥ずかしい。
ゆっくりと口の中へ流し込む。嚥下しようとするとゴクリと喉が鳴る。その音が異様に大きく聞こえる。あまりにも緊張して、口元の右側から少しこぼれてしまった。
「こぼれているよ」
トラヴィスはレインの耳元で囁くと、それを自分の舌で拭い取った。
「と、と、と、トラヴィス様。何をっ、なさってるん、ですか」
あまりにもの出来事に、レインは動揺してしまう。
「レインがこぼしたから、ふき取ってあげただけだ」
トラヴィスは舌なめずりをする。「やっぱり、普通の魔力回復薬のようだね。たった数滴でさえも、私の魔力は少し回復したようだ」
だがレイン自身、自分の魔力が回復した感じはしない。
トラヴィスは空いている右手で彼女の右手を優しくとった。
「魔力鑑定……」
そこで再び目を見開いた。
「なんと」
茶色の瞳が大きくなる。
「本当に、回復していない。なぜだ」
トラヴィスはそこで目の前の少女を見つめる。
「なぜだ、とおっしゃられましても。私にもわかりません」
レインは視線を下に向けた。そんなに真剣になぜだ、と聞かれても答えられないし、何よりも魔力を失ってしまったことは、魔導士として恥じるべきことであると思っている。
自己嫌悪。
「なんだ。まだ少し残っているではないか」
トラヴィスが見つけたのは、レインの手の中にある回復薬の瓶。よく見ると、まだほんの少し残っている。それはトラヴィスの突飛な行動によって、レインがそれを飲むことを途中でやめてしまったから。
トラヴィスはレインの左手を掴んで、その瓶を自分の口元に運んだ。ほんの二口分、それは残っていた。それを口に含むと、レインの顎を右手で鷲掴みにする。
「ん」
レインはいきなり唇を塞がれた。目の前にはトラヴィスの整った顔。何をされているのか、わからない。閉じていた唇に侵入してこようとするものがあるが、それを許してしまう。そして何かをゴクリと飲み込んでしまい、レインは思わず顔を背ける。
「トラヴィス様。今、何を?」
レインは手の甲で唇を拭きながら言った。
「魔力回復薬。レインがこぼさないで飲めるように、と思ってね」
トラヴィスは嬉しそうに笑っている。
「あの。普通に飲めますから。何も、このようなことをしていただかなくても」
「何も問題はないだろう? 私たちは婚約しているのだから」
「ですがっ」
そう、二人は婚約者同士。それは、魔導士団の誰もが知っている事実。
だが何か問題があるとしたら、恥ずかしいということ。今までのキスは手の甲や頬だった。それにもかかわらず、いきなり唇と唇。しかも何か得体の知れない侵入。そして、先ほどからお尻に何か硬いものが当たっているような気もする。
「トラヴィス様? あの、何か当たっているようですが」
「ああ。生理現象だから、気にしないでおくれ。それよりもだ」
トラヴィスが楽しそうに続ける。
「レイン。君の魔力が少しだけ回復しているようだ。だが、それも二だけ。魔力回復が二。回復薬一本飲んで、回復量が二。二だって?」
そんなに二を連呼しないでいただきたい。つまり、今のレインの魔力は二であるということ。魔導士見習いの子供たちよりも低い魔力。
「ダメだ。君は面白過ぎる」
レインを膝の上に乗せたまま、トラヴィスは子供のように笑っていた。
つまり、トラヴィスにとって、自分は子供の玩具のような存在ということだろうか。
「あの、トラヴィス様。そろそろ降りてもよろしいでしょうか」
「どこから?」
「トラヴィス様のお膝から、です」
「私の膝の上は不満かね?」
と言うトラヴィスが不満そうな顔をしていた。
「いえ。そろそろトラヴィス様にはお仕事をしていただかないと、と思いまして」
「私はレインが膝の上に乗っていても仕事はできるが」
「そういう問題ではございません」
レインはトラヴィスの膝の上から降りた。
「怒ったのかい?」
そこで寂しそうに彼は首を傾ける。
「怒っていません。トラヴィス様にお茶を淹れようかな、と思っただけです」
「だったら、そこに君の好きなお菓子があるから、それも一緒に準備してくれ」
そこ、を人差し指で指し示す。
「承知いたしました」
レインはゆっくりと頭を下げた。