死因とか死亡推定時刻とか
「何はともあれ、多少は元気になってもらえたようで嬉しいわ。さっきの顔つきだと、このまま日車君を追って自殺してしまいそうに見えたから」
「あはは、正直その可能性もなくはなかったかも……」
首まで湯船の中に入れた私は、天井を見上げながら呟く。
もし渡澄さんの物理的な呼び止めがなければ、どこまでも深い暗闇の中に沈んでいっていただろう。そこから自力で這い上がれたとは思えないし、最悪浴室で溺死――なんてこともゼロではなかったかもしれない。
今、命の危機を感じずに湯船につかれているのは、間違いなく渡澄さんのおかげ。勿論完全に気持ちが吹っ切れたわけではないけれど、少なくともネガティブ思考の連鎖は断ち切れた。
ただでさえ色々と助けてもらっていたのに、さらに大きな借りができてしまった。
私は改めて彼女を正面から見つめると、深く頭を下げた。
「本当に、有難う。不謹慎かもしれないけど、渡澄さんがいてくれて本当に良かった」
「それはこちらこそよ。私も深倉さんがいてくれるから、今もパニックにならずにいられるの。これからも仲良くしてくれると嬉しいわ」
「それは勿論。喜んで」
私と渡澄さんは互いに笑顔を向け合う。
これは間違いなく友情。今まで私とはまるで縁のなかったもの。こんな最低最悪の状況ではあるけれど、ようやく手に入れることができた。……これで日車が生きてさえいれば、この館に遭難したこと自体がプラスの出来事になっていただろうに。
――絶対に、敵は取るから。
それが日車のためにならないことは分かっている。これはあくまで私の自己満足。でも、私が責任に耐え切れず自殺してしまうことよりは、日車も喜んでくれるはずだ。
――だからまずは情報収集。私が機能停止していた間に起きたことを、しっかり理解しておく必要がある。
くるりと体を翻し、同じように湯船につかっている小鳥遊姉妹の方を向く。さっそく天使の庭での話を聞こうと思ったが、彼女らの視線は私の腕に向けられていた。
「あの、その傷は……」
「え? て、やば。隠すの忘れてた」
浴室に入る際は何もかもがどうでもいい気分だったため、腕に残る爪痕をタオルで隠さず入ってきてしまった。どうやら二階でうずくまっていた際も、無意識に爪で刺し続けていたらしい。今も血が滲んでおり、湯船を少し赤く染めてしまっている。
これはまずいと思い、慌てて水の中から腕を出し、もう片方の手で傷を覆った。
「ええと、その、お恥ずかしながら自傷癖的なものがありまして、ストレスがかかると腕を爪で強く突き刺す癖があったり……」
小鳥遊姉妹の顔が微かに引きつり、心なしか距離が遠くなる。
私自身自傷癖のあるやつとかやばいと思うし、そういう態度になるのはよく分かる。だけど今は話を聞きたいし、ここで避けられるようになるのはまずい。何かこの雰囲気を打ち消す方法は――
「かっこいい……!」
「へ?」
どう言い訳したものかと考えていると、後ろから予想もしなかった言葉が聞こえてきた。私たちは一様に驚いて後ろを振り向く。するとうっとりとした顔の渡澄さんが再度「かっこいいです」と艶のある声で言った。
「自らの体を傷つけてまで、状況に流されず自我を保とうとする強い心。まさしく私が理想とする孤高の女性……」
「え、ええ……」
分かってはいたが、やはり渡澄さんはどこかおかしい。いくらなんでも自傷癖をそんな風に好意的に解釈はしないだろう。小鳥遊姉妹も私に向けていた以上に引き気味な表情に変わっている。
もしかして私への嫌悪感を少しでも緩和させる狙いでこんなことを言ったのか。そう思って改めて彼女の顔を見るが、どこからどう見ても演技には見えない。
友人になったとはいえ、深入りしない方がいいこともあるはず。そう自分に言い聞かせ、彼女のことは気にしないことに決めた。
「あの、天使の庭を調べて分かったことを教えてもらえないですか?」
「え! あ、ああ、もちろん構いませんよ」
(おそらく)伊緒ちゃんが小さく頷く。また余計な話に脱線してしまわないよう、私は矢継ぎ早に質問していく。
「取り敢えず知りたいのは、死因と死亡推定時刻です。それから何か犯人に繋がるような変わったものが落ちてたりとか、これまでの天使の庭との違いとかもあれば聞きたいです。あ、凶器に関してもわかりましたか? 私の記憶では周囲にそれっぽいものはなかったと思いますけど。それに争った跡があったかどうかも――」
「ちゃ、ちゃんと一つずつ答えるので落ち着いてください。ただ私は天使の庭自体の捜索をしていたので、死体の状況に関しては新菜の方からお話しします。大丈夫よね?」
「勿論! じゃあ早速私が調べた結果を話していくよー」
そう言って、小鳥遊姉妹は交互にこちらの問いに答えてくれた。そして分かったことは次の通り。
・日車の死因は腹部を一回、背部を二回刃物で刺されたことによる失血死またはショック死と思われる。
・死後硬直もなく、出血も続いていたことから死亡したのは発見から三十分以内の可能性が高い(トイレ前で聞いた鈴が峰の証言が事実なら二十分以内にまで絞り込める)。
・事件の前と後とで、天使の庭に目に見える変化は特になかった。
・凶器は死体周辺に落ちてはおらず、発見には至らなかった。
・花が踏み荒らされている様子はなく、刺し傷以外にこれと言った外傷はなかった。ゆえに、ほとんど抵抗することもなく殺されたと思われる。
かなり重要な情報が多いように思えるが、これではまだ犯人特定には至れない。死亡推定時刻が限られているため、鍵となるのは死亡推定時刻のアリバイとなるだろう。
そんな私の考えが顔に現れていたのか、「アリバイ調査はこれからする必要がありますね」と伊緒ちゃんが言ってくる。私は黙って頷いてから、「でも」と口を開いた。
「この館はまだ謎が多いから。そもそも私たちの中に犯人がいない可能性もあるよね。西郷さんがどこに行ったかもまだ不明のままだし。だからアリバイだけじゃ犯人は特定できない」
「そうですね。犯人を特定するには、より決定的な物証が必要な気がします」
探偵としての責務を感じているのか、伊緒ちゃんの声には力が漲っている。私よりも年下だけれど、きっと修羅場をくぐってきた数が違うのだろう。頼もしさから心の重荷が少し軽くなったのを感じた。
「ところで、それって探偵七つ道具ですか?」
唐突に、渡澄さんが浴槽の脇に置かれている小さなポシェットを指さした。確か今朝(と言ってもまだ一時間も経ってないけど)、新菜ちゃんと二人で入ったときも置いてあった。あの時は伊月トークに花が咲いて(?)質問する余裕がなかったけど、彼女の言う通り探偵七つ道具が入っているのだろうか? もしそうならかなりのプロ意識だと言えそうだ。
渡澄さんの予想は概ね当たっていたようで、新菜ちゃんが笑顔でポシェットの中身を取り出し始めた。
「ふふふん。万が一お風呂場に閉じ込められても何とかなるように、お風呂場脱出用七つ道具が入っているのです! 探偵七つ道具と被ってるのもあるけど、全部一緒ではないんだなーこれが」
酸素マスクや謎の紐、小型拡声器などが出てくる。探偵七つ道具と同じものとしては、無線機が登場した。
私は感嘆の息を漏らしながら、まじまじとそれらアイテムを眺めた。
「しかし本当に凄いよね。その年で探偵なうえに、道具もいろいろと揃えてるなんて。その無線機とか結構高いんじゃないの?」
期待していた問だったのか、新菜ちゃんは勢い込んで「そうなの!」と叫ぶ。
「この無線機は探偵としての初仕事が成功した時に買ったやつで、簡単には傍受されない特注品! 最大四人まで一斉同時通話ができるようになってる優れもの! 私のお宝の一つでもあるんだ!」
「四人って、他にも探偵の仲間がいるの?」
渡澄さんの問いに、新菜ちゃんは照れた様子で首を振った。
「いやー、いつか新しい仲間ができた時用にって、その時はテンション上がって四つ注文しちゃったんだあ。でもいまだに二人だけで新メンバーは募集中! あ、良かったら二人とも私たちと一緒に探偵に――」
「こら新菜。脱線させ過ぎよ。すいません。放っておくと関係ないこといつまでも喋るから」
「いえいえ、尋ねたのは私ですから」
無理やり新菜ちゃんの口を抑え、伊緒ちゃんが頭を下げる。
そこで会話が途切れたのをきっかけに、私たちはそのまま風呂を上がることにした。