鬱、後に友
「深倉さん。深倉さん」
「渡澄、さん……?」
気づけば通路には私と渡澄さんしか残っていなかった。
別に寝ていたわけでも気絶していたわけでもなかったのだが、ぼんやりし過ぎていて状況をちゃんと認識できていなかったようだ。
心配そうな表情を浮かべる渡澄さんに、私は生気の欠けた声で尋ねる。
「日車君は、どうなったの?」
「……天使の庭に、まだいるわ。また衝撃が来た時に飛ばされないよう、シーツをかぶせて固定してあるけれど」
「そう……」
今も天使の庭にいる。衝撃で動かないよう固定。
それはつまり、彼は死んでいて自力ではもう動くことがないということなのだろう。
そんなの分かっていた。私自身が、真っ先に彼の死を確認したのだから。あれが演技ではないことは、彼の表情を見れば明白だった――それでも、演技であると信じたかったけど。
改めて日車の死を認識し、一層体から力が抜ける。渡澄さんはそんな私を見ておろおろとしていたが、ふいに私の手を引っ張ってきた。
「こ、ここにいても気分が落ち込むだけだし、取り敢えず移動しましょう。それに血も落とした方がいいと思うし、一度お風呂に入ってくるのはどうかしら」
「血……?」
自分の体を見渡してみると手や腕、足にも血が付いていた。それもそのはず、血が滴る花の中をかき分け進み、帰りはその中を引きずられて戻ってきたのだ。
ふらふらと立ち上がる。慌てて渡澄さんが手を差し出してくるが、その手を取ることなく歩き出す。
一度歩き出すと、思っていたよりあっさりと足に力が戻ってきた。しっかりとした足取りで階段を一段ずつおり、転ぶことなく一階に辿り着く。渡澄さんはまだ心配そうに後ろをついてきているが、今の私に彼女を気遣う気力はない。
まだぼんやりとした頭のまま、お風呂場に到着。脱衣所に入ると、部屋の隅にある洗濯機が回っている音が聞こえてきた。室内を見回してみると、脱衣かごが二つ使われているのも見て取れた。
「おそらく小鳥遊姉妹だと思うわ。特に新菜ちゃんが、その……現場をよく検証したせいで、服や体に血が付いてしまったみたいだから」
「そうなんだ……」
流石は探偵と云うべきなのだろう。一般人とは違って死体も見慣れているのかもしれない。あんな、あんな状態の彼を見て、正気を保ったまま調査ができるんだから。
無造作に服を脱ぎ棄て、腕の傷を隠すこともなく浴室に向かう。
浴室に入ると、小鳥遊姉妹が並んで体を洗っていた。私はその左隣に進むと、特に声をかけることもなくシャワーを浴び始めた。
「深倉さん。その、大丈夫?」
ちょうど体を洗い終えたのか、隣の小鳥遊さん――声の柔らかさ的におそらく姉の伊緒ちゃん――がシャワーを止め声をかけてきた。
私はじっと彼女の顔を見つめると、黙って彼女の首元を指さした。
「え? 首に何かついてる?」
「血……」
「あ、本当だ。有難う」
伊緒ちゃんは再びシャワーを出すと、首の真横についていた血を洗い流す。
私はそれを確認すると、再び自分の体を流すのに専念し始めた。
正面には鏡があるが、そこに映る私の顔は自分でもやばいなと感じるほど暗く沈んでいる。今すぐにでも死んでしまいそうな、自殺志願者の顔つきだ。
ここまで落ち込んだ私を見るのはいつ以来だろうか。元々暗い顔つきだけど、これ程のは十年ぶりぐらいかもしれない。
「なんで、こんなに落ち込んでるんだろう……」
シャワーを浴びつつ、ぼそりとそんな呟きが漏れる。
よく考えてみれば、日車とはまだ出会って三日の関係。初日は生意気なうざいガキだとしか思ってなかったはずだし、仲良くなってからはまだ半日と経っていない気がする。
それなのに、なぜ?
……いや、理由は分かっている。それはさっき考えたばかりだ。彼は私が初めて救った人間であり、同時に初めて殺した人でもあるからだ。
さっきは現実を認めたくなくて鈴が峰に当たってしまった。でも、それは言い訳の余地もない責任転嫁。
彼を殺したのは、私だ。私が彼を無責任にも勇気づけ、そして一人にしてしまった。本来なら一人で動く勇気もなく部屋の隅に固まっていたはずの彼に、一人で行動するだけの蛮勇を与えてしまった。そのせいで彼は一人天使の庭に赴き、死ぬことになってしまった。
鈴が峰との会話だってそうだ。前の日車ならきっと警戒して会話なんかしなかった。だから医務室から出たりせず、天使の庭に行くことにもならなかったはずだ。
……考えれば考えるほど、罪悪感が重くのしかかる。やはり私は余計なことをするべきでなかった。私みたいな人間の屑が、誰かを救うなんて最初から無理で――
「ごめんなさい深倉さん。少し痛いでしょうけど我慢して」
「え――」
唐突に聞こえた声に、俯けていた顔を上げる。それと同時に、両頬にしびれるような痛みがはしり、私はふらふらとよろめいた。
何が起きたのか分からず、反射的に背後を振り返る。するとそこには全裸の渡澄さんが立っていた。彼女と視線が交差する。強い決意のこもった、純粋でまっすぐな瞳。
私が眩し気に目を細めると、彼女は大きく手を振りかぶった。
パシン!
再び大きな音を立て、私の頬に爆ぜるような熱い痛みが走る。しかもそれは一度では終わらず、往復で何度も繰り返された。
強制的に左右に頭が振られ、今まで考えていた思考がどこかへと飛んでいく。代わりに終わらない理不尽な攻撃へのいら立ちが湧いてきて、「いい加減にしろ!」と全力で拳を突き出した。
「あう……」
私の拳がもろに彼女の鳩尾に直撃する。渡澄さんは平手打ちを止め、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
はっと正気を取り戻した私は、慌てて彼女に声をかける。
「ご、ごめん渡澄さん! ちょっと全力で殴り過ぎたというか当たり所が良すぎたというか……。で、でも、何度も渡澄さんが叩いてくるからで――」
「え、ええ、分かってるから大丈夫よ。それより、少しは落ち着いたかしら?」
「え……あ、うん。なんか、落ち着いた気がする」
今もじんじんと響く頬の痛みのおかげか、先まで脳の大半を埋め尽くしていたネガティブな思考が霧消していた。
「荒療治過ぎるかなとは思ったのだけれど、今の深倉さんにはこれぐらいしないと駄目な気がしてしまって。ごめんなさい。頬、痛くはない?」
「痛いけど……私より渡澄さんの方が今は苦しそうな顔してるし。こっちこそ、なんかごめん」
私たちは、先とは違う表情で互いの顔を見つめ合う。お互いに裸で、一人は両頬を真っ赤にはらし、もう一人は腹を抑えて蹲っている。
――一体全体、なんだこの状況は
私たちは同時に、くすくすと笑いだした。