鈴が峰という男①
伊月の提案に真っ先に手を上げたのは新菜ちゃん。しかし伊緒ちゃんがこれにはストップをかけてきた。
「ダメよ新菜。あなたが行ったら伊月さんに迷惑かけるでしょ。それにもう夜も更けてきたし、今日はもう寝たほうがいいと思うの。扉が閉ざされた今、明日もまた何か起きるかもしれないから」
「えー! でも私まだ伊月さんと色々お話しした――」
「新菜!」
「あう……」
厳しい視線を向けられ、新菜ちゃんはしぶしぶ姉の言葉を受け入れる。
伊緒ちゃんはこれまでのおっとりとした雰囲気が消え、ピリピリした緊張感を漂わせている。どうやら鈴が峰の噂が気になって仕方ない様子だ。明日また何か起きる、そう言った時、ちらりとだが鈴が峰の方に目を向けていた。
普段とは違い伊緒ちゃんが率先して部屋を出ていく中、新菜ちゃんは未練の残った目を伊月に向ける。けれど伊月が全く関心を示さないのを見て、ようやく医務室を後にした。
「私は鈴が峰さんの様子を見ておきます。とにかく話しかけないようにすればいいんですよね」
「ええ。それと、もし勝手に動こうとしたら殴って気絶させておいてください」
「……善処します」
渡澄さんは鈴が峰の面倒を見ることを提案してきた。人の良い彼女のことだから、皆が恐れている人物を一人放置しておくわけにはいかないと考えたのだろう。
しかしそうすると、必然的に案内役は決まってしまう――そう、私だ。
伊月が氷のように冷えた目で、渡澄さんが心底申し訳なさそうな表情で私を見てくる。
「深倉さんごめんなさい。館の案内をお願いしてもいいかしら? 本当なら私がしたいところなのですけど……」
「大丈夫だよ。もう疲れもとれたし、階段で転ぶこともないだろうから。渡澄さんにはずっと気を使ってもらってるし、これぐらいは任せて」
「そう……。じゃあお願いするわ」
まだ若干不安そうな表情なものの、ふわりとした笑みを浮かべる。
すると日車が胸を張って私の前に躍り出た。
「安心するにゃ。にゃあも深倉についてしっかりサポートするから何の心配もないにゃ。おみゃあはそこでしっかり監視をするのにゃ」
「あら、じゃあお願いするわね」
渡澄さんは一瞬驚いた表情を浮かべた後、微笑ましいものを見るように日車と私を交互に見た。
なんだか少しこそばゆい。
ちらりと伊月を見てみるが、こちらは当然のように無反応。一般人なら日車の猫語に対して何か言いそうなものだが、そこも完全にスルーされている。
鈴が峰というトラブルメーカーと普段一緒にいるから、変人相手でも動揺しないよう鍛えられているのかもしれない。
きっと彼らならこの館を案内されても、私のように驚いたりはしないのだろうなと、そう思った。
予想通り、一通り館を案内し、西郷が書いた館内図を見せても伊月は全く表情を変えなかった。それどころかこの程度の建物かと、安堵しているようにさえ見えた。
トラブルメーカー、死神探偵と呼ばれるような探偵と行動する中では、これぐらいの事態は頻繁にあることなのか。鈴が峰という探偵の日常が気になり、医務室への戻り際私は彼に聞いてみた。
「言っても信じてもらえるとは思いませんが、これぐらいのことは日常茶飯事ですね。あの人と一緒にいて何事も起きなかったことの方が少ないですし。意味不明な館に迷い込んだことも数えられないほどあります」
「そうなんですか……。えと、よく伊月さんはそんな人と一緒にいられますね。助手を辞めたいとは思わないんですか?」
「しょっちゅう思いますよ。でも、助手になることを望んだのは私の方です。正直、質の悪さで言えば僕の方が鈴が峰より遥かに上ですから」
「ええと……」
何と声をかけていいか分からず、私は口ごもる。
そこらの美男美女とは一線を画する美しさ。鈴が峰は話したり動いたりしない限りは無害なようだが、彼は違う。ただそこにいるだけで、羨望、嫉妬、性欲に塗れた視線を浴び、周りに影響を与えてしまう圧倒的魅力を放ち続けてしまう。
美しくなりたいというのは男女問わず願うことではあると思うけれど、それにだって限度がある。日常生活に支障をきたしてしまうほどの美しさを求める人は少数だろう。ましてそれが願って手に入れたものではなく、生まれた時から備わっていたものだとしたら。少なくとも、私は耐えられそうにない。
同情の言葉も賛美の言葉もきっと彼は聞き飽きている。当然そのどちらも彼が欲していないことは分かる。
元より話すのが得意でない私は黙り込み、結果、沈黙が訪れた。
「じゃあ、おみゃあはとても運がいいのにゃね」
不意に、日車の一言が沈黙を切り裂いた。
伊月が横目で彼を見つめる中、日車はなぜか偉そうに言葉を続ける。
「本来ならおみゃあは、誰かとともに行動することなくずっと一人でいたんだろうにゃ。もしくは王様みたいに祭り上げられて、周りには対等に話せる相手が一人もいにゃいとか。それが実際には、人を助ける探偵の助手として普通の日常を過ごせているにゃ。それってとても運のいいことなのにゃ。まあ運の良さならにゃあも負けてないけどにゃ。この館に来て深倉と会うことができたのだからにゃ」
「……そうですね。僕は田中さんに会うことができて本当に運が良かった」
「うわ……」
日車の言葉が胸に響いたのか、伊月は北極の氷さえ解かせてしまうのではないかというほど暖かな笑みを浮かべた。
当然私の心も瞬時に溶かされてしまうわけで――って、痛い。
「深倉。さっきからデレデレし過ぎにゃ」
フードの下からジト目でこちらを睨んでくる日車。
私は慌てて自分の頬を押さえ、緩んだ表情筋を元に戻すよう努める。というかさっきの日車の話だと、彼の中で私の存在がめちゃくちゃ大きいものなっていそうだ。成り行きで励ましたりしちゃったけど、そんな大層な人間じゃないのになあと、心苦しくなってくる。
でも、まあ。この館の中でぐらいなら、彼の心のよりどころになれる程度に見栄を張ってもいいかなとは思っている。もうあんな風に強がってる日車の姿は、見たくないから。
それはそうと、一つ気になることが。表情筋を何とか戻した私は、既に普段の顔つきに戻っている伊月に尋ねた。
「あの、田中さんって、鈴が峰さんのことですか? 初めて紹介するときも言い間違えかけてましたけど」
「そうですよ。鈴が峰千夜は彼が勝手に名乗っているだけの芸名みたいなものです。本名は田中太郎。平凡でかっこ悪いから今の名前に変えたみたいですね」
「それは全国の田中太郎さんに失礼では……」
「全くの同意見です。それにあの浮浪者じみた姿で鈴が峰千夜とは。名前負けにもほどがあります。いつも田中太郎で十分だと言ってるんですけどね」
「それはそれで全国の田中太郎さんに失礼な気が……」
それにしても、口こそ悪いものの鈴が峰の話をするときは凄く生き生きしているように見える。あんな明らかにダメそうな大人なのに、そこまで彼の拠り所になっているのだろうか。
「鈴が峰さんって、普段はどんな人なんですか? 玄関ホールでのやり取り的に、ちょっと子供っぽい人だなと思ったんですけど」
伊月は一切の躊躇いなく首を縦に振る。
「子供ですよ。それも幼稚園児並みの。まず我慢ができません。興味を持つと止まらなくなり、周りが一切見えなくなる。加えて学習能力は猿以下です。どれだけ事前に警告しておこうが、同じ失敗を何度でも繰り返す。それに既にお分かりだと思いますが、身だしなみに全く気を配れずデリカシーもゼロです。依頼人に会いに行く時ぐらいまともな格好をしてほしいのに、平気平気と繰り返すばかりで全く正そうとしない。あなたが平気でも私が恥ずかしいというのに――」
鈴が峰に対する愚痴が溜まりに溜まっているのか、伊月の文句は滝のようにとめどなく続く。完全に私も日車も置いて行かれていたが、伊月は不意に口調を緩め、「でも」と言った。
「心は人一倍優しい人です。あの人は自分の人生に制限をかけようとしない代わりに、自身の犯した罪・責任は決して投げ出さずに償い続けている。私からすれば、過剰なほどに」
愁いを強く帯びたその瞳に、伊月から鈴が峰への思いの深さが窺い知れた。




