日車という少年
さて、黒瀬の一言が決め手となり、私たちは明日の朝まで予定通り館で過ごすこととなった。少しの間、西郷が何か連絡を残していないかと扉付近を調べたが何も見つからず。各グループ就寝のため部屋に戻っていった。
私たち四人も談話室に戻ってくると、それぞれ好きな場所に陣取った。
扉こそ開いたものの、それが逆に不穏でどこか落ち着かない気もする。平常心を保とうと、黒瀬や渡澄さんは本を読んでいるが、明らかに集中できていない。ページをめくる手は遅く、視線もちょいちょい本とは別のところに移動している。
スマホを取り出し時刻を確認すると、現在時刻は午後九時半。まだ寝るにはいくらか早いし、もうしばらくはこの気まずい時間が続きそうだ。
私はスマホをポケットに戻すと、少し深めに呼吸をし、腹をくくった。そしてソファから立ち上がると、日車が丸くなっているソファに腰掛けた。
私が隣にやってきたのに気づき、日車は一瞬こちらを見る。けれどすぐに目をつむり、一層体を縮ませた。思い返すと元気ににゃあにゃあ言っていたのは最初だけで、途中からはずっとこの調子だ。
年齢を聞いていないから分からないが、容姿だけなら日車はまだ中学生。この中で一番幼く、精神的に最も追い詰められていても不思議じゃない。そしてそれがどれだけ辛いことか想像するのは、私にとっては非常に簡単だった。
かなりうざいところがありはするけれど、それでもこのまま放っておくのはダメだと心が叫ぶ。私は日車の耳元に顔を近づけると、「ちょっと話したいことがあるんだけど」と囁いた。
びくりと体を震わせて、日車はこちらを見る。明らかにその目には警戒心が宿っているが、一度覚悟を決めた以上ここで引くわけにはいかない。
あえて何も言わず黙って見つめていると、日車は「何の用にゃ」と聞き返してきた。
私はもう一度深く呼吸をしてから、「日車君のことについて」と言った。
「にゃあについて? 別に話すことなんかないにゃよ」
「でも私は聞きたいから。たぶんデリケートな話になるだろうし、できれば二人っきりで話がしたい」
「お前とにゃあの二人っきり……」
今の状況で二人だけで話がしたいなんて言われたらまず間違いなく警戒する。でもきっと彼だって皆に知られたくはないだろうし、私からしても人前だと話しづらい。だからここは、なんとしてでも二人だけでの話し合いを承諾してもらいたい。
日車はしばらくの間嫌そうに視線を背けてきたが、私が諦めないのを見て取ってか、ついに頷いてくれた。
「すいません、今から日車君と二人で遊戯室で遊んできます。十一時までに戻ってこなかったら見に来てください」
日車の腕をとり、突然そう宣言した私を見て、黒瀬と渡澄さんが呆気にとられた視線を向けてくる。
ここで色々と理由を聞かれたりすると面倒なので、私は日車を急かし素早く談話室を出た。通路に出たところで、一応左右を確認する。当たり前かもしれないが人の気配はなく、出入り口の扉もしっかり開いたままになっていた。
それから少し急ぎ足で遊戯室まで移動。日車とともに部屋に入るとすぐさま扉を閉め、彼に向き直った。
強引に連れてこられたためか、日車の表情は警戒よりも恐怖の色が強く出ている。まずは少しでも安心してもらわないといけないと思い、私は誠意を込めて頭を下げた。
「突然こんなところに連れてきてごめん。でも、この館から――いや、この山から無事に下りるためにも、日車君のことはもっと知っておくべきだと思ったから。そうじゃないと、君だけはまた途中で遭難しちゃいそうな気がして」
「べ、別にそんな心配してもらう必要ないにゃ。そもそもここは死者の待合室で、もう皆既に死んでるのにゃ。だからどうせ山から下りるなんて無理なのにゃ」
「それ、本気で言ってるの?」
「……」
最初に遭った時の日車なら自信満々に頷いたのだろうけれど、今の彼は少し目をそらすだけで何も言わない。死んでいるなら味わう必要もないはずの度重なる事件(?)を前に、心が疲弊してしまったのだろう。
私は少し無理やりだが笑顔を作ると、優しい声音を心掛けながら言った。
「どうして会ったばかりのこんな女にって思うかもしれないけど、よかったら君のこと教えてくれないかな。どうして遭難してしまったのかとか、ここを死者の待合室だと考えた理由も、きっとそれを聞けば納得できると思うから」
「……納得したとして何なのさ。それで僕を救ってくれるとでも」
こちらの真剣な思いが伝わったのか、ついに日車は猫っぽい口調でなく、普通に言葉を返してくれた。そのことに心が少し踊るが、流石に顔に出したりはしない。
ちょっと考え込んでから、「救うのは無理かな」と本音を口にした。
日車は呆れたのか、半目でこちらを見つめてくる。まあそうなるよなと思いつつ、「でも」と続けた。
「少なくとも今、日車君がここで感じてる不安の軽減はできると思うよ。理解者、とまでは言わなくても、自分の事情をなんとなくでも知ってる人って言うのは、こういう場所では貴重だと思うから」
「……そうかもしれないけど、なんでその相手があんたなのさ。別に僕はあんたのこと信じてない――」
「待った。あんたじゃなくて深倉美船。私の方が年上なんだし深倉さんって呼びなさい」
「別に呼び方なんてなんだって――」
「なんだっていいなら深倉さんって呼んでくれてもいいでしょ」
「それはそうかもだけど、なんかそう言われてから呼ぶの照れくさいし」
「いいから。ほら、深倉さんって呼ぶまでこの無駄な時間が続いちゃうよ」
「………………深倉さん」
「よし!」
ようやく名前を呼んでもらうことに成功し、私は満足げに何度も頷く。少し照れた様子でそっぽを向く日車がまた何とも言えず可愛らしい。
さて、これで少しは緊張感がほどけたはず。さらに彼が話しやすい雰囲気を作るため、私は人によっては引かれるであろう秘密を話すことにした。
「というかさ。実は理解者が欲しいのは私の方だったりするんだよね。ここに信頼できる相手がいないのは私も一緒だから」
「あんた――じゃなくて深倉さんには、美人な女の知り合いがいるじゃん。渡澄さんだっけ? 大学の友人なんでしょ」
「いやー、友人というか知人というか講義が一緒なだけの他人というか……そこまで親しい相手ってわけでもないんだよね。それに、身近な相手だから言いにくいこともあるし」
私はそう言うと、するすると腕を覆っていた服をまくっていき、肌を露出させる。
そうして現れた私の腕を見て、日車は「うっ」と痛そうに眉間にしわを寄せた。
昨日渡澄さんとお風呂に入ったときも、タオルでこっそり隠していた腕の傷跡。あんまり範囲を広げると露見する率が上がるので、肘の近くにだけ集中的につけている爪の刺し傷。不安になったときにやる癖として幼少期からついた、自傷癖の結果。
昨日今日もかなり不安に陥ることがあり、安心するためにぶすぶす刺していたから、今もまだ血がにじみ出ている部分もある。
あまり長く見せたいものではないので、すぐに服の中にしまい込む。それから笑顔で話を再開した。
「ね。こんなの身近な人に見せたら、やばい人扱いされて周りから浮いちゃうじゃん。だから渡澄さんには見せられないの。けど、きっとここを出たら二度と会うこともないだろう日車君になら見せられる。それに日車君、この館内だと一番子供っぽいし、君が一連の事件の犯人だとは思えないからね。申し訳ないけど、信頼できる相手として選ばせてもらったわけ」
私の自傷行為の跡が相当強烈だったのか、日車はフードを深く被り直し俯いてしまう。もしかしてこれは作戦失敗だったかと思っていると、彼は突然フードを外し、さらに髪の毛まで外してしまった。
唖然とする私の前で、坊主になった日車は自嘲気味に語りだした。
「……僕、癌なんだよね。お医者さんの話を盗み聞きした感じだと、あと一年生きられないらしくて。抗がん剤飲み始めたらあっという間に髪の毛抜け落ちてさ。でも体の痛みはよくなるどころか酷くなるし。まあ正直そんなことどうでもいいんだけど、家族とか友達とかがさ、凄い心配してるっていうか、憐れんだ目で僕を見てくるんだよ。
可哀そうに。
どうしてこんな目に。
少しでも楽しい時間を作ってあげたい。
そんな気持ちが丸わかりの、僕からしたら地獄のような優しい時間をくれるんだ。昨日だってそうだ。少し体調がいいからって、家族が森林浴を提案してきてね。自然あふれる場所にいれば、少しでも気分がよくなるんじゃないかって。それで連れてきてもらって――で、気付いたら逃げてたんだよ。家族が目を離した隙に、どんどん山の中進んで、勿論行先なんて決めてないから疲れるまでとにかく歩き続けて。動けなくなったころには辺りも暗くなってて、当然帰り道も分からない。それでうろうろしてたら一瞬意識が飛んで、それからしばらくしてこの館に着いたんだ。
後は深倉さんも知っての通り。集まってるメンバーが皆僕と同じように遭難した人たちばかりで、それに不思議と今まで感じてた癌の痛みもなくなったからさ。きっと僕らは既に死んでて、この館は死者の待合室なんだって思ったんだよ。それに、そうじゃなかったら……僕は癌なのに遭難までした可哀そうな子だって、さらに両親から憐れんだ目で優しくされることになる。そんなの、絶対に耐えられないよ……」
日車はそう言うと、鬘とフードを被り直し、疲れた様子でぺたりと床に座り込んだのだった。