館を揺らす大きな衝撃
先に見回った際に確認していたことだが、厨房にはそれなりに食料が備蓄されていた。特に腐っている様子もなく新鮮そうだったことから、この館につい最近まで人が住んでいたことも窺えた。
それが館の持ち主なのか、管理人なのかは分からないが、何れにしろ今ここに館の関係者がいないことと矛盾している。
やはり何か恣意的なものを感じるが――まあ今は関係ない。
後でお金はしっかり払うということで、ここにある食材を利用させていただくことにする。
大学に入ってからは一人暮らしなため、多少自炊の心得はある。とはいえそんな凝った料理なんて作らず、スーパーで買ったものを焼いて味付けする程度。
だからもし渡澄さんが料理上手なら、そのサポートに徹しようかと思ったのだけれど――
「これ、どうやって食べるのかしら? 温めれば柔らかくなるもの?」
などと言って、生卵の殻をコツコツと叩いている。
いやこれは、料理下手とかそういうレベルでなく、常識に問題があるだろう。今更ながら、西郷の発言に共感する気持ちが湧いてくる。
スマホを持っていないこともそうだが、家庭事情がかなり特殊なのかもしれない。いわゆる箱入り娘的な感じで、大学に入るまで勉強以外のことをさせてもらえなかったとか。
少し聞いてみたい気持ちもあるが、あまり踏み込んではいけないことかもしれないと思い、結局尋ねる勇気は湧かなかった。
私は軽く厨房を見回した後、冷凍庫に保存されていた鶏肉をメインに、わかめの味噌汁、生野菜のサラダ、段ボールに入れられていた食パンをトーストしたものを並べていく。
勝手に使う量としてはちょっと豪華にし過ぎかと思うも、どうせ使うなら一緒かと思い直し、気にしないことにした。それに想像以上に渡澄さんが料理を喜んでくれたため、気分的にはむしろ満ち足りたものとなった。
夕飯を食べ終えた後は、少し食休みをしてからお風呂場に。男どもが勝手に入ってこないよう、念のため出入り口に『入浴中に着き男子禁制』と書いた紙を貼っておく。
幸いにも途中で乱入者が来ることもなく、シャワーを浴びて一日の汚れを洗い流せた。流石にお風呂にお湯を張るのは躊躇われ、湯船につかることはしなかったけれど、かなり疲れを落とすことができた。
お風呂場を出てからは、これまた渡澄さんの提案で図書室に行くことに。疲れて眠くなるまでの時間、ゆったりと本でも読んで時間を潰そうとのことだった。
個人的には小説より漫画の方が好きなのだが、残念ながら漫画は一冊も置いていなかった。なので、できるだけ頭を使わなくて済みそうな、少しライトなタイトルの薄い本をチョイス。
渡澄さんはしばらく読む本の選択に時間がかかりそうだったので(どうやら彼女は相当の本好きらしい)、一声かけてから先に談話室に戻ることにした。
一人で廊下を歩いているとき、ふと西郷の言葉を思い出し、油断し過ぎかなと心の中で警鐘が鳴る。けれど周囲を見回しても特に異常はないようなので、やはり気にし過ぎだと首を振った。
談話室に戻った私は、ソファに座ると早速本を読み始める。しかし疲れているからか、それとも小説がつまらないからか、まったく内容が頭に入ってこない。
早々に本を読むことを諦めた私は、今もソファで横になって寝ている黒瀬の隣に移動した。
目は完全に閉じているものの、寝息は特に聞こえない、本当に寝ているのか、それとも寝たふりをしているだけなのか気になり、すべすべした彼の白い頬に指を伸ばす。そして何度か、つんつんと、頬を突っついてみた。
「……」
特に反応はない。次はどこを突っついてみようかしばらく悩んだのち、私は指を彼の瞼の上に持っていき――
「お姉さん、何やってるの」
「あ、起きた」
触れる直前に彼の目がぱっちりと開いた。
すぐ目の前に私の指があったことから、彼の表情が苦々しげに歪む。そして体を起こし、「二発目で目を狙うとかおかしいでしょ」と文句を言ってきた。
どうやら最初から起きていたらしい。
私は何とも言えぬ気まずい笑みを浮かべて、「あはは」と笑い声をあげた。
「いやー、本当にこの状況下でもぐっすり眠れてるのか気になっちゃって。知らない館で、知らない人たちに囲まれてる中、本当に寝てたら凄いなーと」
「だからって指で目を突こうとは普通考えないと思うけど。今までも寝てる間に悪戯されそうになったことはたくさんあるけど、これは初めてだよ」
「あ、やっぱりモテるんだ……」
予想通り寝込みを襲われる程度にはモテるようだ。そりゃあこれだけの美少年、世の女子たちが放っておくわけもない。まあ私の好みからは少し外れているし、少し生意気なのもマイナス点だ。
「それで、寝たふりしてたのはやっぱり警戒心からなの?」
「そりゃあね。こんな怪しい場所でぐっすり眠れるほど僕の神経も強くないよ。はあー、まさかちょっとふらふら散歩してたら迷子になるなんて。こんなことになるなら、変な気を起こさず木陰で寝てればよかった」
「いやでも、せっかくハイキングに来たなら寝てるのは勿体ないでしょ。ていうか、そんなに遠くまで一人で行動しちゃったの?」
「半分寝ぼけてたから……。なんか鳥の鳴き声とか木漏れ日とか、もっといい場所あるんじゃないかって気がして勝手に足が動いてたんだよ。マイナーだけど美しい山って言う姉さんの意見は間違ってなかったけど、正直もう二度と登りたくはないね」
「まあこんな体験しちゃったら、いくら素敵な山でもまた行こうって気にはならないよね」
私もその点は全くの同意見。
友達に誘われて付いてきたが、今後は誘われても二度と山にはいかないだろう。私みたいなもやし女にはやはり都会が一番。自然なんて遠くから鑑賞して楽しむ程度で十分なのだ。
うんうんと一人頷いていると、私は急に彼の言ったある言葉が気になり、首を傾げた。
「あのさ、この山ってマイナーなの? ネットで話題の有名な山とかじゃなくて?」
黒瀬は半目になって私を見つめる。
「どこでそんなこと聞いたの? まあ僕も調べたわけじゃないから、ネットでどんな風に言われてるのかは知らないけど、有名では絶対にないよ。かなり田舎にある小さな山だし、姉さん曰くそもそも観光客自体めったに来ないらしいから。そう言えば、お姉さんもよくこんな山まで来たね」
「あー、えと、うん?」
何かが嚙み合っていない気がする。
この山がどの程度有名なのかは全然知らない(そもそも名前だって覚えてないし)。渡澄さんがネットで有名だったから来たと言ってた気がするけど、それも私の聞き間違いかもしれない。
ただ、それでも。ハイキングのツアーが組まれる程度には有名なのは間違いなく、山の麓もそれなりに栄えていた気がする。
どうにも黒瀬の言っている山と一緒だとは思えない。まさかと思いつつ、私は恐る恐る口を開いた。
「あのさ黒瀬君。君が登ってきた山って、何県の山?」
「は? それはもちろん静岡県だけど」
「……私、栃木の山を登ってたはずなんだけど」
「……へ?」
互いに互いの顔をまじまじと見つめる。
その表情はどう見ても嘘をついているようには見えず、そもそもこんな嘘をつく理由も見当たらない。
まさか、本当に、西郷が言うように私たちは――
思考が信じがたい結論を導き出そうとした直後、立っていられなくなるほど大きな衝撃が館を襲った。