今の気持ち
お風呂場に到着。有難いことに渡澄さんもついてくるのは止めてくれたらしく、私はほっと息を吐いた。
やっぱり一人でいるのが一番楽だ。
誰の視線も気にしなくていい時間のなんて素敵なことか。
疲れていなければ鼻歌でも歌いそうな気分になりつつ、ドライヤーのある洗面台まで向かう。けれど、洗面台に貼られた鏡を見た瞬間、私は「ぎゃあ!」と、乙女らしからぬ悲鳴を上げた。
鏡には、私の後ろで服を半分脱ぎだした厚木の姿が映っていた。
私は慌てて背後を振り返ると、「ストップ!」とここ数年で一番と言ってもいいほどの大声を発した。
「何だ、雨に濡れて気持ちが悪いから早く脱ぎたいんだが」
厚木は自分がいかに非常識なことをしているのか理解していない様子でこちらを見つめる。
この無神経な男に私の言葉が通じるのか。非常に不安になりつつも、取り敢えず対話を試みた。
「あの、先に私がお風呂場に入ったんですけど」
「そうだな」
「だったら、普通は遠慮しませんか?」
「この館の風呂は広いが一つしかないんだ。仕方あるまい」
「だからって女性が入った直後に入ることないと思うんですけど」
「何だ君は。まさか全身ずぶ濡れの私ではなく、私の言葉を無視して馬鹿みたいに雨を浴びた君の方が先に風呂に入るべきだというのか? いくら何でも厚かまし過ぎないかね?」
「……レディファーストって言葉、聞いたことありません?」
「勿論知っているとも。しかしレディというのは十分な教養と常識を併せ持った品のある女性をさす言葉だ。残念ながら君には当てはまらない」
「……こいつ、ぶっ殺してやろうか」
「うん、何か言ったかな?」
「いえ、何も言ってません」
私はプルプルと震えだす拳を必死に押さえつけ、彼の顔を視界から外そうと下を向く。そして下を向いたままくるりと反転すると、ドライヤーを手に持った。
「私はここで髪を乾かすだけなので、失礼かと思いますが、少しの間でいいので外で待っていてください」
話していても埒が明かないので、もう勝手にやってしまうことにする。よくよく考えたら私の裸を覗かれるわけでもないので、こちらが見ないようにさえしてしまえば何ら実害はない。
最初から無視していれば良かったと、今負った精神的苦痛を考え後悔する。
今この瞬間から、私は五感を失ってただただ髪を乾かすだけの人形となるのだ。
「おい君、その前に一つ聞かせてくれ」
そう決意した直後に、今度は厚木の方から声をかけてきた。一瞬無視してやろうかと考えたが、すぐにそっちの方が面倒なことになりそうだと思い直す。結局、「何ですか」と俯いたまま聞き返した。
「君は今、この館に来てどんな感情を抱いている」
「なんでそんなことあなたに言わなくちゃ――」
唐突な質問内容に、呆れつつちらりと鏡に映る厚木を見る。するとこちらが想像していたような驕り高ぶった表情ではなく、こんな顔ができるのかというほど真剣な表情を浮かべていた。
その眼差しに動揺し、私は言いかけた言葉を喉の奥にしまい込む。
すると厚木はさらに言葉を重ねてきた。
「遭難した挙句辿り着いた館。そこには館の主はおらず、代わりに自身と同じように遭難したもの達が集まっている。この状況に対し、今、君はいったいどんな気持ちだ。
訳の分からない状況で気味が悪いか?
見知らぬ奴らに囲まれ恐ろしいか?
思い通りにいかない状況に苛々するか?
それとも未知の体験に心躍るか?
君は今、どんな感情でこの場所にいる?」
「…………」
表情と声色からして、ふざけているつもりは全くないらしい。だとしたら尚更なぜここでそんな質問をするのか気になる。でも、きっと聞いても答えてはくれないだろう。そんな親切な相手なら、そもそもこんな話題を急に振ってきたりはしないだろうし。
だから、とにかく聞かれたことに素直に答える以外術はない。そしてそれは、私にとってはさして難しい質問ではなかった。
私は体を振り向かせ、鏡でなく正面から厚木の顔を見た。
「今の私の感情なんて簡単です。疲労困憊。とにかく疲れた以外の感情なんて何もありませんよ」
「ふむ……」
予想していなかった答えだったのか、厚木は興味深そうに顎を撫でる。
取り敢えずこの感じだと満足してもらえたようだが、果たして疲れるっていうのは感情を表す言葉として正しいのか疑問に思えてきた。でもまあ、聞いてきた本人が満足しているなら問題は無いはずだ。
私は今度こそ洗面台に向き直り、ドライヤーのスイッチをオンにした。
髪を乾かして脱衣所を出る。
鉛のように思い足を引きずりながらゆっくり談話室に向かっていると、同じく足を引きずりながら階段を下りてくる西郷の姿をとらえた。
彼の背には人が一人おぶさっており、西郷はかなり苦しそうな表情を浮かべている。本来なら手伝いに行った方がいいよなと思うも、まさか今の私が助けになるわけもなく(むしろ足手まといが一人増えるだけ)。
申し訳ないと思いつつ、「それ、どうしたんですか?」と声をかけた。
西郷はやや息を乱しつつも、無視せず答えてくれる。
「こいつが黒瀬蓮司だ。悪魔の庭で寝転がってた男だな。蹴っても殴っても一向に起きる気配がいないから、仕方なく担いできてるところだ」
疲れたのか、階段を下り切ると同時に雑に黒瀬を床に下す。
西郷が体を休めている間、私は眠っているらしい黒瀬の顔を眺めてみた。
全く日に焼けていない白い肌。まつげがかなり長くザ・白皙の美少年って感じだ。放課後、教室の片隅でぼんやり窓の外を眺めている姿がありありと思い描かれる。
起きてる時の印象次第ではあるけれど、この寝顔だけならファンクラブがあってもおかしくなさそうなレベル。
どういう偶然か、美男美女率がこの館は随分高い。もしかしたら偶然じゃないのかもしれないが、そうだとすれば私は完全な脇役ということになる。
そして顔面レベル的には、申し訳ないが西郷も脇役の部類だろう。どちらかと言えばイケメンの部類だろうけど、なんとなく悪人っぽい感じの薄気味悪さが顔に出ている。これでは女子受けはしないだろう。というか友達もいなさそうだ。
と、体力が回復したのか、西郷は再び黒瀬を背負う。そしてずるずる足を引きずりながら談話室へと歩き出した。
「ところで、お前は一人で何をしていた。他の奴らは全員談話室に集まっているのか?」
「えと、私は少し髪を乾かしに行ってて。他の人は多分皆談話室にいると思うけど――って、あ」
厚木に談話室に集まるよう言うのを忘れていた。でもまあきっと戻ってくるかと、(面倒なので)西郷に言うのはやめておいた。