色づきの時
今日もまた日が昇る。
明るくて白くて黄色くて幸せを押し付けるように容赦ない。重い足をワンフレーズに収めるようにのたのたと動かして歩く。父も母も溶けて消えた。
もちろんそれは設楽の比喩であり、世間的に正しく言うのであれば亡くなったのだ。若くして独りとなった女性に周囲は同情と憐憫の波を寄せて、設楽はそれを心の防波堤で常に阻んでいた。
辛いとか、悲しいとか、そんな言葉では到底足りなかった。
世界がごっそり瘦せこけたと感じた。
世間的にはもうすぐ春だが、花の色づきは自分の目には映らないだろうと考える。
独りになった広い家の中で、設楽は味のない料理を機械的に口に運んでいた。家族のアルバムは燃やしてしまった。なぜ燃やしてしまったのだろうと今になって考えるが、恐らく設楽はその時、平常心ではなかった。では今は平常かと問われれば、答える言葉を設楽は持たない。
楽しみを設けるようにと名付けられた己の名前が今ではひどく煩わしく疎ましかった。そしてそのように、両親からの祝福さえ跳ねのけようとする自分自身が何より嫌いだった。この、どうしようもない絶望感を、誰が理解するというのだろう。色がない。色がないのだ、この喪失には。闇の漆黒でさえまだ足りない。気分が悪くて、設楽はよく吐くようになった。その為に彼女は、痩せこけた。世界ではなかった。痩せこけたのは。彼女自身だった。世界は自分の鏡だった。
ふわ、と髪を撫でる手がある。
近所に住む勇太だ。また、勝手に入ってきて。設楽は邪険に勇太の手を振り払った。誰にも構って欲しくない。悲しみの海の、膿の定員は一人きりだ。
「……設楽」
「呼ばないで」
名前を呼ばないで呼ばないで。両親の姿が浮かぶから。目に塩水が浮かぶから。名前は呪文だ。これまでの歳月を知らしめる。愛された歳月。もう戻らない歳月。だが勇太は帰る素振りすら見せない。居間の端に脱ぎ捨ててあったコートやマフラーなどの防寒具を設楽に着せて、よいしょ、と言うと抱き上げた。抵抗する隙を与えない。設楽は金魚のように口をぱくぱく開け閉めした。
「散歩しよう」
勇太が笑うと目尻に皺が寄る。童顔で、女性からは可愛いと称される勇太の顔は、それでも十分にもう男性だった。設楽を抱き上げる腕力も。
玄関の引き戸を開けて閉める。
昼が襲ってくる。
設楽は怯えて思わず勇太にしがみついた。
勇太はそれを承知しているように、設楽を抱く腕に力を籠めて、ゆっくり歩き出した。
コンクリートの道路の脇に小花が咲いている。ついこの間まで雪が降っていたのに。陽射しは暖かく温順だった。人気のない時間帯だ。勤め人は会社へ、学生は学校へ行っている。設楽たちが出歩けるのは、モラトリアムを過ごす大学生だからだ。微風が吹く。空が青い。近所のパン屋が見える。客が数人。設楽の母も、よくここでパンを買っていた。そのパンを朝食の他、おやつとしてコーヒーブレイクに食べたりもした。設楽は堪え切れず顔を伏せて勇太の胸に押し付けた。
「随分、軽くなっちゃったね」
勇太がぽつりと呟く。
叱る口調でもないのに、設楽は身をいよいよ縮めた。
だって母さんがいないから。
だって父さんがいないから。
解っている。そんなのは言い訳だ。両親を早くに亡くしても、前向きに生きている人は大勢いる。例えば勇太のように。
勇太は孤児だった。近くの施設で育ち、義務教育を終えてから設楽の家の近所のアパートで暮らし始めた。設楽の母が気にかけて、頻繁に差し入れをしていた。そうした縁もあって、ごく自然に設楽も勇太と親しくなった。
どれくらい歩いただろう。正確には歩いているのは設楽ではなく、勇太だ。いつの間にか二人は、喧騒の道路に来ていた。
「設楽、ほら」
施設で育った名残か、勇太はいつも口数が少ない。ぼう、とした頭で、勇太の促す声に顔を上げると、赤い花が燦々と光を浴びて咲いていた。いや、赤と言うよりは優しい濃い桃色で、紫が少し混じっているかもしれない。綺麗、と素直に感じた。
その、綺麗、が呼び水になったように、設楽の目からとうとう涙が溢れた。こんなのは卑怯だ。まるで太陽と北風。勇太は百の言葉や寒風で設楽を諭すより、可憐な花を見せるだけで、設楽の癒え難い傷口に優しい軟膏を塗ったのだ。その軟膏は柔らかく滑らかで痛みを感じさせない。設楽の唇から父と母を呼ぶ声が漏れ出る。嘘でしょうという声も。それは何度も何度も繰り返され、勇太はその間、じっと身じろぎ一つしなかった。ただ、設楽を守るように抱いていた。
「僕のお嫁さんになって」
耳元で囁かれる甘言。
設楽に驚きはなかった。こくん、と子供のように頷く。照れ隠しか、またよいしょ、と言って、勇太が設楽を一際高く抱え直した。設楽は勇太の首に腕を回す。シャンプーの匂いがする。自分は臭くないだろうかなどと、途端に気になってしまうのだから、女とは単純なものだ。
「勇太」
「ん?」
「死なないで」
「幸せにするし、死なないよ」
踵を返して設楽の家に戻る道を辿りながら、勇太は何でもないことのように言った。
その耳たぶは赤く染まっていた。
思いがけず良い写真が撮れたので、文章を考えてみました。
浸っていただけたなら幸いです。