第三話 夏の伝説③
岬の頂上にある展望台と呼ばれている空地は、直径が二十メートル程度の円形の広場になっている。広場には擬木で造られたベンチが三基。設置されていた。
周りは低い松の木で覆われていて、岬の先端方向だけは断崖絶壁になっており、そこだけは高さ一メートルほどのステンレス製の柵が設置されていた。
ここからは海だけでなく、M市の町も一望できる。遠くに電車が走っている様子が見えた。
僕が広場に着くと、彼女はステンレスの柵に手を掛けて海を見ていた。
数歩先は数十メートルの高さの崖である。風に吹かれて幅広の帽子が震え、長い黒髪が風になびいていた。
彼女は僕が後ろにいるのに気が付いているのかいないのか。じっと海を見詰めている。
大海原には黄昏が近付いていた。
不意に彼女が振り向いた。
改めて見ても感心してしまうほどの美人であった。
「あの・・・僕は水野信也と言います。高校一年生です」
何を言ったら良いか分からず。口から自己紹介の言葉が出ていた。
(この後、何を言ったら良いんだ)
困っている僕を見て、彼女は小さく笑って言った。
「私は・・・海子」
「うみこ・・・さん」
「大海原の海に、子供の子。・・・変な名前と思う?」
「いえ。素敵な名前です」
僕はかぶりを振って必要以上に力を込めて言った。ちょっと力を込め過ぎたかも知れない。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
彼女・・・海子は視線を海に戻して僕を救ってくれた。
「綺麗な海ですね」
僕は勇気を出して海子の横へ立って言った。
「・・・そうね」
「六年ぶりにここへ来ました。僕の一番お気に入りの場所です」
僕と海子は、そのまま黄昏が迫る海原を、しばらく無言で眺めていた。
「さっき・・・」
「えっ」
「私が変なことを言ったと思っているでしょう」
変なこととは・・・魚にも死にたい時がある・・・と言ったことであろうか。
僕は何と答えて良いか分からず、黙っていた。
「良いのよ・・・変よね。魚が死にたがっているなんて」
海子は僕に視線を向けた。
「でもね。本当のことよ。死にたいことがあるのは人間だけじゃないわ。・・・海の底にも耐えられないような悲しいことはあるわ」
「なぜ。そんなことが分かるのですか」
からかうつもりでは無く、僕は真剣に尋ねた。
「それは・・・それは・・・秘密よ。・・・遥か昔に恋を求めて陸に上がった魚もいたけれど。それは遥か昔の伝説。・・・今は陸には死に場所しか無いわ」
海子は謎めいた言葉を寂しそうに言った。
海子は黄金色に変わって行く空を見上げ。
「もう。帰らなくて良いの・・・日が暮れるわ」
・・・それは一人になりたいとの合図であろうか。
「そうですね。・・・僕。明日もここに来ます。海子さんは?」
「私も来るわ。私もここが一番好きな場所なの」
「あの。海子さんは土地の人には見えないですが、どこかに泊まっているのですか」
海子は僕の問いには答えず、海を見詰めている。
それが別れの挨拶だったのか。僕は返事を諦めて別れを告げ、砂浜へ続く階段を降りて行った。
砂浜に降りた僕は、ここへ来た時に打ち上げられていた魚が気になって、その場所を見に行ってみた。
そして愕然となって立ち尽くすことになる。
海へ帰したあの魚と、全く同じと思われる魚が、砂浜の同じ場所にいたのである。
魚は西日を受けて、すでに干からびかけていた。
(魚にも、死にたい時があるのよ・・・)
海子の言ったその言葉が、魚を見詰めて呆然と佇む僕の頭の中で、何度も繰り返されていた。