第三話 夏の伝説①
私は小さな旅行鞄を片手に、JR大阪駅のプラットフォームに立っていた。
今年は雨が多くて傘が手放せない夏だった。
大阪は比較的、雨が少ない地域なのだが、今年は記録的な豪雨もあった。プラットフォームから見える大阪の街は、今も霧雨に煙っている。
私は時計を見て和歌山行きの特急が発車するには、まだ余裕があることを確かめた。
夏の最盛期には、休みを利用して遊びに行く家族連れで賑わうホームも、盆を過ぎた今では人影もまばらである。
私は目を閉じると、十五年前の高校一年生だった時の、あの夏を思い浮かべた。
今もはっきりと思い浮かべられる、あの夏の思い出を。
雲一つ無い蒼穹が大海原と交わり、白い丸みを帯びた水平線が輝いている。
電車の走る切り立った崖の下では、打ち寄せる波が白い飛沫を上げていた。
僕の名前は水野信也。先月十六歳になったばかりだ。夏休みのほとんどをアルバイトで過ごした僕は、残りの休みを母方の祖母の家で過ごそうと、この和歌山行きの電車に乗ったのである。
祖父は十年前に亡くなっていて、今は祖母だけが一人でひっそりと田舎に住んでいた。
最後に祖母を訪ねたのは小学校四年生の時だったので、きっと大歓迎してくれるであろう。
電車の中は夏休みの最盛期を過ぎているおかげで、地元の人らしき人がまばらに座っているくらいで、空いていた。
≪次はM市。M市≫
車内アナウンスが流れた。目的のM市が近付いていた。
放送があって、しばらくすると電車がトンネルに入った。僕は何度来ても、このトンネルに電車が入るとワクワクする。
トンネルを出た時の景色が最高であるからだ。
・・・電車がトンネルを抜けた。
右手にM市の市民が≪展望台≫と呼んでいる岬が見えた。太平洋の大海原が端から端まで見渡せる絶景ポイントであり、僕の一番好きな場所であった。
展望台の根元の岸壁に波が砕けているのが見えた。少し傾いた陽を受けてキラキラと輝いている。
そんな景色を見ながら、電車はM市へ入って行った。
駅では祖母が満面に笑みを浮かべて、僕を待ってくれていた。
駅から祖母の家までは徒歩で二十分である。
家は海辺にあり、岩山を背にして母屋があり、前面の道路を挟んで海側には舟屋と呼ばれる、一階が舟の格納庫になっていて二階が住居になった建物があった。
舟が家から直接海に漕ぎだせる舟屋は、軒を並べて海に向かって何軒も建っていて、M市の観光ポイントにもなっている。
僕は遊びに来た時は、必ずこの舟屋の二階で寝ることにしていた。
祖父が亡くなってから舟は売ってしまったので、今は一階は改造して物置になっていた。
僕はさっそく舟屋の二階に上がると、畳の上にごろりと横になった。
波の音が聞こえている。
電車に揺られて疲れていたのか、僕は知らない内に眠ってしまっていた。
祖母の呼ぶ声で目を覚ました。
「信也。風呂が沸いたから、お入り」
僕は返事をして起き上がった。
窓の外は暗くなっていた。
ここの風呂も僕のお気に入りである。
大きな鉄製の釜に水を張った、いわゆる五右衛門風呂である。
湯を張る時はボイラーから直接湯を入れても良いし、薪で沸かすこともできるようになっている。
湯に入る前に薪を何本か燃やしておけば、入っている間、湯が冷めることはない。
僕は洗い場で身体を流すと、湯舟に木製の敷板を浮かべ、慎重に踏んで湯に浸かった。敷板を上手に踏まないと底が斜めになってしまう。
肩まで浸かって。ふーっと息を吐いた。
薪のはじる音が聞こえる。僕は湯気の付いた窓のサッシを少し開いて外を見た。
隣の家の軒の向こうに星が見えている。
ざーん。ざーんと波の音が先ほどより大きく聞こえた。舟が沖から帰って来たのだろうか。舟が通ると波が起きて舟屋の基礎に当たって大きな音がする。
サッシの隙間からは潮の香りが含まれた風が入って来ていた。
「明日は≪展望台≫に行ってみよう」
僕はつぶやいてサッシを閉めた。