第二話 忘却の河原②
舟から放り出された私は。
落下の感覚・・・次に予想した水の冷たさは無かった。
私は柔らかい弾力を持った水面に、腰から落ちていた。
私が外へ放り出されると同時に舟が動き始めた。
川面に尻もちを付いたまま、呆然と見つめる私を置いて、舟は何ごとも無かったかのように静かに霧の中に消えて行った。
しばらく放心していた私は水面に立ち上がり、舟の進んで行った方向に向かおうとした。
しかし、弾力性があるが、私を絶対に拒絶する壁がそこにあり、どうしても前に進めなかった。
私はその壁の前で、長く無駄な努力を続けたが、やがてあきらめて、水の上を元来た方向へ向かって、とぼとぼと歩き始めた。
対岸への哀愁に、たまらず何度も振り向きながら、私は元の桟橋へ帰って来た。
桟橋には、二十人ほどの列が出来ていた。
彼らは水面を歩いて来る私を、不思議そうな顔もせず見ていた。
彼らには私への関心が無いのであろう。彼らは対岸に渡る順番を、ただ無心に待っているだけなのである。
川面を歩いて帰って来た私は、そこで初めて列に並んでいない人がいることに気が付いた。
川岸から離れて、十人・・・いや、もっといる。
桟橋から距離を置いて、ばらばらに立っている人がいた。
彼らは対岸に行きたくないのであろうか。
私は次こそはと期待を込めて、桟橋の列の最後尾へ並んだ。
・・・それから、どれほどの時が流れたのであろう。
夜の無いこの灰色の世界にとって、永遠も一瞬も計る物が無い限り、時間は全く無意味な物に過ぎない。
私は何度も舟に乗り、その度に途中で河へ落とされた。
どうしても対岸に渡れなかった。
そうしている内に、私は気が付いた。
何かが私を向こうへやらないように引き留めているのだ。
・・・何かが。・・・誰かが。
・・・・・・・・・・。
青い空に白い煙が昇って行く。
風が無いのであろう。煙が真っ直ぐに線を引くように天に昇って行く。
「真知子さん」
背中から声を掛けられ、真知子は煙から視線を移して振り向いた。
そこには義父の、文雄の父がいた。
喪服を着た義父は疲れの為か、目の下に大きなくまが出来ていた。
「気を落とさないで・・・文雄は運が悪かった。あんな事故で死ぬなんて」
(・・・義父は何を言っているのであろう)
真知子は思った。
(文雄さんが死んだですって・・・何を言ってるのかしら。あの人が私を置いて死ぬわけ無いわ。来年には私たちの赤ちゃんも生まれるのよ)
(そんなことは絶対に無いわ)
「・・・」
義父はさらに声を掛けようとして、後ずさった。
真知子の眼には強烈な近寄りがたい光が灯っていたのである。
それは他人の意見など耳に入らない、狂気であった。
(あの人は死んでいない。帰って来る。どこにも行かない。行かせない)
真知子は心の中で、何度も呪文のようにつぶやいていた。
・・・・・・・・・・。
・・・私は今、桟橋から離れて、向こう岸へ渡れない人々の中に混じり、哀愁の浮かんだ目で霧の彼方を見つめている。
いつになったら向こう岸へ行けるのであろうか。
私をこちら側に引き留める力が、私の魂を向こう側に行かせまいとしている。
灰色の大河は、何ごとも無い姿で、ゆったりと流れている。
人は死んだ後、現世へのあらゆる感情を捨てて彼岸へと向かうと言う。
ここは忘却の河原。
又の名を、賽の河原という。