第十三話 見える人①
夕日がビルの陰に沈もうとしている時間帯である。
石川康彦は大阪の地下鉄谷町線、千林大宮駅の地下鉄降り口の横に立っていて、前方からやって来る人物に目を止めた。
歩道をこちらへ向かって歩いて来るのは、彼の勤務する建築会社の、設計積算部で事務をしている黒井修二だった。
彼は黒い縁の眼鏡をかけ、灰色のスーツ姿の、どこでも見かけるサラリーマン風の姿である。
駅前の歩道は帰宅で地下鉄へ向かう人と、夕方の買い物客で込んでいる。混雑する人の中を歩いて来た黒井は、自分を凝視している石川に気が付いたようであった。
自分が見られていると感じた黒井はすぐにうつむいたが、石川は構わずに近づいて行って声をかけた。
「よう黒井! ちょっと良いか」
声をかけられて諦めたのか、黒井は顔を上げて石川を見た。
「同じ職場だが、話をするのは初めてだよな。歳も変わらないし、ため口で良いよな」
強引な石川の話し方に、黒井は余り良い顔では無かったが、しかたなく無言でうなづいた。社内の人事情報によると、二人は大学は違うが三十五歳で同級生になる。
二人は地下鉄の降り口階段前に立っていたので、通行の邪魔にならないように少し移動した。
「実はな‥‥」
そう口にしてから石川は少し口ごもった。だが、意を決して何とか話し始めた。
「前から尋ねたかったんだが‥‥そのう‥‥社内でもお前は有名じゃないか‥‥ほら‥‥」
再び言い出しにくそうにしたが、つばを飲み込むと後を続けた。
「見えるんだろ? お前」
ついに石川は口に出した。
黒井はため息を吐いた。
(やっぱり。それが言い出したかったんだ‥‥)
ここ最近、石川は黒井に話しかけたそうな顔で接近していたのだ。それを知って黒井は避けていたのであるが、今日は地下鉄の降り口で待ち伏せされて、声をかけられたのである。
「そんな嫌な顔をするなよ。俺はさ、オカルトな話が好きでさ、いろいろ聞かせて欲しいんだよ」
好奇心丸出しのギラギラした目で、笑みを浮かべて石川は迫った。
「なあ。一杯おごるからさ。どこかその辺の居酒屋で話を聞かせてくれよ」
(話を聞かせてくれってか‥‥一杯おごるって誘われて、おごってもらったことは一度もないけれどな)
これまでにも同じ理由で彼に近づいて来た者がいたが、後でおごるとか、悪いようにはしないからなどと口にしながら、一度も約束を守った者はいなかった。
それでも断ったとしても、この先ずっと纏わり付かれるのは、もっと嫌であった。
「分かったよ」
黒井は承諾した。面倒なことは早く終わらせてしまおうと決めたのだ。
「おお! 本当か! すまんな」
喜色満面で手を叩く石川である。
「早速だが、国道を渡って千林商店街の方へ行こうぜ、居酒屋ならいくらでもあるからさ」
駅前の信号がちょうど青になった。国道を渡れば千林商店街である。千林商店街は、京阪千林駅まで続く長い商店街で、大阪の有名な三大商店街の一つである。
黒井は石川の背を追って国道を横断した。
誰が最初に噂を流したかは知らないが、会社で黒井は「人には見えない物が見える」と噂が立った。彼は「本当か」と問われる度に否定したが、噂は消えずに広まった。
会社の近くで交通事故があった時、うかつにも見てもいない被害者の特徴を言い当ててしまい。幽霊が見えたのだと噂が広まったのである。
経理部にいた時には、女子事務員で神経質な子がいて、怖くて仕事ができないと苦情が出て、今の設計積算部へ移動して来たのだった。
商店街を少し歩いて石川が立ち止まった。
「この辺で良いかな?」
黒井は首を振った。
「まだ会社に近いから、もう少し歩いて、本通りを一本入った場所にある居酒屋を探そう‥‥もし会社の誰かがいて、話を聞かれると嫌だからさ。これ以上、噂になりたくないんだ」
「分かった」
石川は肩をそびやかした。
「俺なら見えるって自慢するけれどなあ」
そう言って歩き始めた。
(そんな良いもんじゃないよ)
そうつぶやいて、付いて行く黒井であった。
「ここなら良いだろう」
石川が指差したのは、間口が狭くて奥に長いL型のカウンターだけが付いた居酒屋だった。
座席は全部で十五席ほどである。短い方のカウンターに二十代に見えるカップルの先客がいた。
黒井はうなづくと石川に続いて居酒屋へ入った。厨房には紺色の割烹着を着た五十代に見えるマスターと、同じく割烹着を着た奥さんらしき手伝いの女性がいた。
「いらっしゃい!」
軽く会釈を返した黒井は、できるだけ目立たないように、一番奥の席に向かった。
背もたれの無い座席に着くと、突き出しの小鉢が目の前に出て来た。
「何にしましょう?」
「とりあえずビールを‥‥あとイカの一夜干しと枝豆を」
黒井が注文を済ますと、隣に座った石川が‥‥。
「何だよ。俺のおごりだから、もっと良いものを頼めよ」
「いや、これで大丈夫だ」
首を振った。
(どうせ、俺が支払うことになるんだから‥‥)
それは口に出さずに飲み込んだ。
「いらっしゃい!」
店主の声が聞こえる。次の客が入って来たのだ。もうすぐすれば店は客で一杯になるであろう。黒井と石川が何を話そうと、二人の話など誰も聞いていないはずである。
「マスター。テレビつけてくれよ。今日はW杯の予選をやってるからさ」
後から入って来た客が厨房のマスターに声をかけた、今日はサッカーのW杯のテレビ中継があるのだ。
余計に都合が良いと黒井は思った。
隣に座って機嫌の良い石川は、小声でさっそく話しかけて来た。
「でよ。見えるのは、やっぱり霊だよな‥‥幽霊だよな」
「うん。まあな。相手にお前は霊かと尋ねたわけじゃないけれど。霊だと思うよ」
話を早く済ませたい黒井は、勿体つけることもなく素直に話し始めた。
「いつから見えるんだ‥‥やっぱり、生まれた時からか?」
「いや」
黒井は首を振った。
「最初に見たのは八年前かな‥‥」
「ほう。どうやって見えるようになったんだよ」
「あれは‥‥」
遠い出来事を思い出すように、少し上を向いた黒井は話し始めた。
「俺の実家は鶴見区にあってさ。日曜日に母親に頼まれて、倉庫の片づけをしていたんだ」
倉庫には餅つきに使う立派な臼があった。数年前までは毎年正月に、親戚が集まって餅つきをしていたのである。
臼は父親がネットで注文して買ったものであった。
「捨てる訳にも行かないし、こういうのを無用の長物って言うんだろうなあ」
文句を言いながら黒井は臼を転がし、しまっておく予定の棚の前に持って行った。
「修二! ひとりじゃ無理だよ。お父さん呼んでくるからね」
母親はそういったが、一人で持ち上げられると黒井は感じた。
「大丈夫だよ‥‥これくらい俺一人で」
臼の下に両手を回し、胸を当てて腰を降ろしグッと持ち上げた。小さく前に移動し、棚の上に降ろすために腕だけで支えて前に出した。
「バキッ!」
大きな音がして腰から力が抜け、臼を両足の間に落とすと、黒井はそのままの格好で静止した。
「どうしたの!」
母親が飛んで来た。
「分からん! 痛くはないけれど、ちょと動けない」
確かに痛くは無いのだが、静止してしまった黒井は、ゆっくりと動き出して慎重に土間に座り、背を棚に預けた。
「救急車呼ぼうか?」
「いや」
少し休めば立てるような気がした黒井であったが、結局、立つことができなくて救急車を呼ぶことになったのであった。
病院での診察の結果、腰に近い背骨の一か所が『圧迫骨折』していたのであった。背骨の骨折は、あまり痛くないことがあって、骨折していても立つことができることもあるそうだ。
しかし家に帰っても普通に生活できる訳はなく、当然ながら、そのまま入院となった。
‥‥圧迫骨折の処置は手術をする訳ではなく、自然に骨が固まるのを待つ『自然治癒治療』である。
「まいったな」
動けないので、天井を見て過ごす最初の数日はつらかった。六人入れる大部屋に入ったのであるが、全員が男性でイビキが酷い人がいて困った。
‥‥やがて少しずつ動けるようになり、車いすで移動してトイレにも行けるようになった。運動しないと身体の機能が落ちるので、一週間ほどして理学療法士がやって来てトレーニングも始まった。
二週間目には歩行器を使って歩けるようになり、休憩室に行って飲み物も買えるようになったのであった。




