第十二話 笛の音③
三島敏行は転勤で京阪電鉄三条駅の近くへ越して来ていた。
父親の田舎で恐怖の体験をしてから一年が経つ。あれはやはり酔っていて見た、悪い夢だったのでは無いかと、思い始めている彼である。
常識的に考えて見ても、亡くなっている祖父に会える訳がない。やはり、あれは酔って見た夢であったに違いない。そんな風に、無理に自分を納得させていた。
そんな彼であったが、背に負った通勤鞄には、相変わらず狐の面と札が入っている。仕事に行く時も、休みで出かける時も、必ず鞄の中に入れて持ち歩いているのであった。
その日は残業で遅くなった。帰宅は深夜になると妻に告げていた敏行であったが、思いの外、仕事が早く終わって、最終電車にも間に合ったのであった。
地下鉄から地上に出て来た敏行は、少し飲んで帰ろうと決めた。ここから自宅までは徒歩で十五分であり、気分転換のつもりである。
まだ越して来たばかりであり、自宅近くの良い飲み屋を探す楽しみもあった。
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ひとしきり飲んで敏行は店を出た。美味い肴のある店だった。
良い気分で深夜の路地を歩いて行く。時間も遅くて、通りを歩く人影も少ない。彼の立てる足音だけが、アスファルトで舗装された路地に響いている。
京都の道は碁盤の目のようになっていて、だいたいの方角さえ分かっていれば、越して来て間もない敏行であるが、道に迷うことも無いのである。
初めて歩く深夜の路地を、フラフラと千鳥足で歩いて行く。
(‥‥怒られるかも知れないなあ)
妻には寝ているように告げて置いたのであるが、酒の匂いをさせて帰宅すれば叱られるかも知れない。
(なあに、俺だってたまには飲みたい日もあるんだ)
自分に言い訳をしながら、転ばないように注意して歩いて行く。
その日は確かに飲み過ぎだったのかも知れない。寝ぼけ眼で下を向いて歩いていると、何やら周辺が明るくなって来ていた。
知らぬ間に、人が多い繁華街に来てしまったのか、ザワザワと人の声が周囲で聞こえる。
(うん? !)
まさか‥‥。
そして‥‥。
笛の音が、はっきりと聞こえたのだ。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
ざわざわと、多くの人の話す声も聞こえる。
ハッとなって顔を上げると、通りの左右にはオレンジの灯を灯した提灯が並んでいて、
その灯の下には夜店が続いている。
彼の周囲は面を付けた人々が歩いていた。
(不味い!)
敏行は顔を伏せ、慌てて鞄の中から狐の面を取り出すと、顔に当てて紐を締めたのであった。
(こ、これは現実か‥‥俺は酔っ払って、それで、再びこの景色を見ているのか?)
自分は現実と夢の区別もつかなくなったのかと、呆然としたまま周囲を見渡したのであるが、周りの風景は、とても夢の中とは思えなかった。
(敏行)
呼ばれて前を向くと、すぐ目の前に、天狗の面の人影があった。
「じいちゃん」
誰かと察した敏行が、祖父に声を掛けた。
(なぜだ! また来てしまったのか敏行‥‥お前にはまだ早い‥‥が‥‥繰り返していると、帰れなくなるぞ)
天狗の面を横にずらすと、面の下の祖父は、恐ろしい目で彼を睨んでいた。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
笛の音が大きく聞こえる。
(二度と、ここへ来るな! 次は‥‥無いぞ!)
「じ、じいちゃん。し、知らない間に来てたんだ‥‥ごめんよ。すぐに戻るよ」
祖父に警告されてうなづくと、彼は来た方向に向きを変えた。
周囲の人々に覚られないように、うつむき気味の姿勢で、来た道を戻り始めた。
少しだけ顔を上げて前方を確認すると、知らぬ間に前回より奥に来てしまったようで、暗い通りはずっと先である。
(見つかっちゃいけない。見つかっちゃいけない)
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
心臓が早鐘を鳴らすように激しく打っている。その音が周囲の人に、聞こえるのではないかと思えるほどだった。
‥‥その時。
「おい。人がいるぞ」
「うん‥‥確かに人の匂いがする」
周囲の誰かが話している。
敏行はポケットの中の札を手に握った。最後の一枚である。
「どこだ!」
「ん。こいつじゃ無いのか?」
すぐ隣で声が聞こえた。
同時に敏行は全力で駆けだした。
「追え!」
「そっちへ行くぞ!」
「捕まえろ!」
札を全力で空に向けて放り投げた。
「あっちだ!」
「行ったぞ!」
「逃がすな!」
彼を追う声は、後方へ遠ざかって行った。
再び敏行は逃げ延びたのであった。
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その後、敏行は自分で調べ、知り合いにも相談して、大阪の京橋にある『白稜堂』に連絡を入れたのであった。
白稜堂は、超常現象を扱っている事務所である。
京阪電鉄京橋駅から、歩いてすぐの雑居ビルに入り、敏行は六階のボタンを押した。
この雑居ビルは六階建てで、一階が全て貸し店舗で、通りの角に面した一階から六階までは、数フロアが、これも店舗になっていて、残りは全て賃貸住宅になっている。
扉が開いて六階に降りた敏行は、下がって来たマスクを引き上げた。
三条駅で電車に乗った頃は、それほどでも無かったのであるが、熱が出て来ているようである。
(参ったな。今さら帰れないしな‥‥)
彼も仕事が忙しく、相手も忙しいようで、何とか日取りを合わせて今日の訪問になったのである。体調が悪いからと、今さら帰る訳には行かない。
「確か事務所は、一番奥だったな」
通路を歩き出した。
左右には扉が並んでいて、エレベーターを降りて、四軒目までは貸事務所になっていて、そこを通過すれば、奥は賃貸の部屋が並んでいる。
つまりこの通路は、賃貸住宅に住んでいる住人も利用するのである。
敏行は四軒目の、『白稜堂』と達筆の文字で書かれた、看板の掛けられている扉を開けた。
ドアを開けると、目の前にカウンターがあった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで頭を下げたのは、美しさを凄いと形容しても良い、若い美人の女性であった。
彼女は不定期アルバイトという、不名誉な、あだ名を付けられている大学生の葛城真美であった。
霊に、あやかしに、怪物に、UFOにと、オカルト関連の話が趣味の風変わりな女性である。
「十六時に、アポを取っていた三島です」
敏行が名乗ると女性はうなづき、後方を振り返った。
「所長。お見えになりました」
呼ばれて奥の椅子に座っていた男性が立ち上がった。
「お待ちしていました」
三十代に見えるスーツ姿の男は、室内の左手にある応接セットを手で勧めた。
そして椅子へ座る前に名刺を手渡された。
「白稜堂 代表 新堂武志」と書かれている。
「どうぞ」
促されて椅子へ腰を下ろすと、直ぐにお茶が出て来た。
「電話で少しお話は聞きましたが、改めて詳しく聞かせて頂けますか?」
「はい‥‥」
敏行は上目遣いで武志を観察した。落ち着いていて優しい目をしている。
「こういう、お仕事をされているので、突拍子な話でも大丈夫とは思うのですが‥‥」
話すのを躊躇う敏行を見て、それと察した武志は。
「ああ、遠慮は無用です‥‥そうですよね、初対面の他人に、霊とか、あやかしの体験は話しにくいと思いますが、僕の仕事はそれが専門ですので‥‥大丈夫です。安心してお話しください」
優しく笑って話を促した。
うなづいた敏行は気が楽になったのか、電車で整理して来た、六歳からつい先日の体験までを、堰を切ったかのように、一気に話し出したのであった。




