第十二話 笛の音②
祖母が九十二歳で亡くなって、敏行は父親の田舎へ帰って来た。兄が用事で来られなくなったので、彼が父親を車に乗せて、運転手としてやって来たのである。
約三十年前、六歳の夏に体験した出来事は、今でも鮮明に敏行の記憶に残っているのであるが、大人になった今では、あれは高熱の中で見た、夢だったのだと確信していた。
高熱の中で夜道を歩き、どこかで狐の面と、二枚の札を拾って持ち帰って来たに違いない。
あれからも、何度か田舎を訪れたのであるが、その度に辺りを歩いて、あの不思議な通りを探したのであったが、そんな場所はどこにも無かったのである。
狐の面と札は、深夜に事故にも会わず、自分を両親の元へと返してくれた『幸運の宝物』として、敏行は常に鞄の中に入れて持ち歩いていた。
祖母の葬式は既に二週間前に終わっていて、今日は敏行の父親と、父親の兄である叔父が田舎の家で会って、相続に関して話し合うのである。
父親は六十八歳。叔父は七十二歳である。叔父の運転手として、五つ上の従兄もやって来ていた。
相続と言っても、貯金は無くて、築百二十年ほどの古い建物と敷地。小さな畑が三区画ほどの財産である。
畑は無償で近所の農家に貸し出し、建物は父親と叔父で資金を出し合って解体し、土地は共同名義とすることに決まった。
遺骨は叔父の方が持ち帰るそうである。
「話は決まったな。もう、この家に泊まるのも、今日で最後になるかも知れないな。飲もうか」
買って来て冷蔵庫に入れて置いた、ビールと肴を出して飲み会が始まった。
父親と叔父には生家であり、敏行も従兄も、子供の頃から何度も遊びに来た家であり、思い出話は尽きなくて、酒は大いにすすんだのであった。
男四人であり、深夜まで飲んで片付けは明日にして、その日は親子同士で、別々の部屋で眠ることになった。
敏行は父親と、奥の仏壇のある部屋に布団を敷いた。仏壇の横の鴨居には、祖父の遺影の横に、新たに祖母の遺影が増えていた。
かなり酔っ払っていて、すぐに眠りについた敏行であった。
----------
眠って一時間ほどで敏行は目を覚ました。尿意を覚えたのである。見上げると、小玉電球のオレンジの光の中に、笑っている祖父と祖母の遺影が浮かんでいる。
起き上がって、父親を起こさないように布団を出ると、トイレに向かった。まだ酒が残っていて、足元がふらついている。
転倒しないように、気を付けて小便器の前に立ち、用を足しながら、ふと目の前の小窓の外に視線を向けると、少し離れた山の麓が、闇の中でそこだけ、ぼうっと明るく光っていた。
(あれは!)
すぐに敏行は、六歳の頃の不思議な体験を思い出した。
あれは高熱の夢の中で見た、幻であると納得していたつもりであったのだが‥‥。
急いで居間に向かって、そこに置いてある自分の荷物から、いつも離さず持っている、狐の面と、お札を二枚取り出したのである。
(確かめるぞ!)
パジャマ姿のまま、靴を履いて外へ出て行ったのであった。足元が酔いでふらついた。
(ちぇ! 飲み過ぎたな)
足元に気を付けながら、途切れ途切れに並ぶ薄暗い外灯の灯の下を、山の麓の明かりを目指して歩いて行く。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
最初は小さく聞こえていた笛の音が、段々とはっきり聞こえて来た。
敏行は取り出した狐の面を顔に付けた。
「!」
‥‥そして、ついに敏行は明かりの元へとたどり着いた。
通りの左右には、提灯がずっと向こうまで並んでいて、提灯の灯の下に出店が軒を連ねている。
そして、あの時と同様に、面を付けた人々が、ザワザワと話しながら通りを行き交っていた。
(あれは夢じゃなかったんだ。子供の時に見た景色が、そのまま、ここにあるじゃないか)
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
(待てよ‥‥何か大事なことを、忘れていないだろうか?‥‥)
ふと、そんな思いが頭の隅をよぎったが、敏行は目の前の景色に誘われて、提灯の灯に照らされた通りに入って行った。
通りの左右の夜店を、見降ろしながら敏行は歩いて行く。あの時は子供だったので、良く覚えていなかったのであるが、店には昔懐かしいブリキのオモチャや、ソフビの人形が並んでいる。
(まだ、こんな古い商品を扱っている店があったんだ‥‥)
懐かしく思いながら歩いて行く敏行であったが、再び、何か絶対に忘れてはならない、大事な記憶を、忘れている気がして来たのだった。
(何だったかな‥‥)
遠い記憶を思い出そうとして、足を止めた敏行の前に、天狗の面を付けた人影が立っていた。
(そうだ‥‥あの時、じいちゃんに、ここへ来てはいけないと叱られたんだ)
そんな大切なことを、なぜ忘れていたのであろう。あの時、面を付けた人々に追われ、恐怖の中を走って逃げ帰ったのである。
目の前に立った天狗の面は、明らかに怒っている雰囲気であった。
天狗が面を、自分で少しずらすと、思った通り、そこには祖父の顔があった。
あの、仏壇の横の遺影の笑った顔では無く、幼い頃にこの場所で見た、眉を寄せ、怒りを浮かべた顔であった。
(敏行! ここへは来るなと言っただろう‥‥ここは‥‥生きてる者の来る場所ではない)
祖父は敏行に顔を寄せ、囁くように、そう告げた。
(‥‥生きている者の来る場所ではない‥‥)
祖父の発した言葉の意味が、ゆっくりと敏行に伝わって行く。そして意味が理解できた時、彼の背に戦慄が走った。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
この通りを発見した時に、直ぐに気が付くべきだった。夢と信じていた六歳の体験は、現実であったのだ。あの時は祖父は、すでに二年前に亡くなっていた。
そして今、自分は再び亡くなった祖父に会っているのである。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
(早く! 逃げろ敏行! あの世に連れて行かれるぞ!)
つばを飲み込んだ敏行はうなづき、踵を返した。
そっと周囲を確認すると、足を止めた何人かの面をつけた者が、異変に気が付いたようで、疑わしい視線を敏行に向けていた。
敏行は、目を会わせないように視線を下に向け、ゆっくりと元来た方向へ歩き出した。その背を、異変を感じた面を付けた数人が付いて歩き始めた。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
変わらぬ調子で笛の音が鳴っている。
「おい! まさか‥‥人じゃないか?」
「うん。人だ」
「人に違いない!」
話し声が、背の直ぐ近くで聞こえる。
敏行は少し足を速めた。
「人の匂いがする!」
敏行の後方の人数が増えて行く。
「いるぞ」
「いるいる」
更に足を速めた。
「ピーヒャラ、ピーヒャララ‥‥」
笛の音が大きく聞こえる。
「こいつだ!」
「それ! 捕まえろ!」
敏行は全力で走り出した。
「アァーーーッ! アァーーーッ!」
彼の耳元で大きな音が鳴っている。最初は何か分からなかったが、それは自分の発する恐怖の叫び声であった。
叫びながら走りながら、六歳の時、祖父に渡された札を思い出した。敏行は札を一枚取り出すと、躊躇いなく空に向かって放ったのであった。
「あっちへ行ったぞ!」
「逃がすな!」
‥‥追っ手の声と、笛の音は、遠ざかって行った。
深夜に血相を変えて家へ帰って来た敏行は、何ごとかと起きて来た父親と叔父親子に、先ほどの出来事を一気に話したのであった。
最初は真剣に聞いていた三人であるが、先ず従兄が笑い出した。
「敏行、笑わすな! お前、完全に寝ぼけてるぞ」
「馬鹿らしい! 飲み過ぎだ敏行!」
眉を寄せて父親は怒り出した。
「ほ、本当だって‥‥そ、そうだ! トイレの窓から、麓の明かりが見えるはずだ」
慌ただしくトイレへ向かった敏行であったが、小窓から見える山の麓は、真っ暗な闇の中であった。
再び従兄が笑い出した。
「だ・か・ら! 寝ぼけてるんだって敏行! 子供の頃の夢を、酔っぱらっていて思い出したんだろうぜ‥‥全く人騒がせな‥‥俺は寝るぜ」
そう告げると寝床の方へ行ってしまった。
「敏行。飲み過ぎには注意しろ」
父親と叔父も、肩をすくめて寝室へ向かって行ったのである。
「ほ、本当に、見たんだって‥‥」
力が抜けて床にしゃがみ込み、肩を落として、つぶやくように洩らした敏行であったが、自分が逆の立場であったなら、同じように信じられないであろう。
(待てよ! でも‥‥実際に本当だったんだろうか? 確かに、俺は酔っ払っていた‥‥)
頭を抱え、自分でも、自分が信じられなくなった敏行である。
懐の狐の面を取り出して、じっと見つめてみる。
ポケットの中に入れていた札は、一枚減って、残り一枚になっていた。




