第十一話 夜歩く②
その日も、いつものように和也は深夜の町を歩いていた。今夜は月が眩しいほどに明るかった。
雲が少し出ているが、風が無いので動きはゆっくりとしている。
今夜の和也が歩いているのは、駅前通りであり、歩道の上にはアーケードが架かっている。
深夜とはいえ町一番の繁華街なので、数人の人影が歩道に見えた。和也はいつもの黒い上下のスエット姿で、彼らの前を通り過ぎて行く。
ほとんどの者は酔客で、大きな声で笑い、冗談を言い合って笑っている。彼らは和也を見ても無関心であった。
駅が近づいて来た頃、和也は何となく人の視線を感じて立ち止まった。
誰かが自分を観察している……辺りを見回して、通りの反対側の、五階建ての建物の屋上を見上げた。
月明りに照らされて、屋上の端の方に立つ人影が見えた。人影は間違いなく和也を見降ろしていた。
和也は人影から視線を外し、通りの左右に目をやって、車のやって来ないことを確認すると、急ぎ足で通りを横断し、反対側の歩道に向かったのであった。
五階建てのビルの屋上に上がると、下から見上げた同じ場所に人影があった。和也は人影に近づいて行く。人影は和也の方を向いていた。
歩きながら声を掛けた。
「さっき、僕の方を見ていましたね」
人影はうなづいた。人影は五十代半ばに見える痩せた男であった。黒い眼鏡を中指で押し上げると。
「ああ。見ていたよ……なぜか君が目に付いてね……でも、あんなに遠くから、俺が見てるって良く分かったね」
穏やかな口調で話す男であったが、なぜか彼は屋上の転落防止柵の、向こう側に立っていた。その先は一歩踏み出せば虚空であり、落ちたら助からない危険な場所である。
「ふうん。俺が気になって、ここまで上がって来たんだね……可笑しいなあ、屋上の扉の鍵は、かけたつもりだったんだけれど、冷静なようで、俺も冷静じゃなかったのかな? 鍵をかけ忘れるなんて」
「……」
男は肩をすくめると、始めて会ったはずの和也に、なぜか心の内を一気に話し始めた。
「実はね。横領が隠せなくなってしまってね。俺は明日には逮捕されてしまうんだ」
「横領?」
「ハハ。馬鹿だろ? 最後はこうなるって分かっていたんだけれどね。やめられなかったんだ」
首を振った男は笑顔になると。
「もう俺は、お仕舞いさ。だからさ。ここから飛び降りて、何もかもから解放されるつもりなんだ」
「そう……ですか」
和也に自殺を止める気持ちは湧いてこなかった。
「ハハ。若いのに淡々としてるね。人が死ぬって宣言しているのに、全く動じないんだ……でも、嘘じゃ無いぜ、俺は本気なんだ」
男が何を言っても、動揺しない和也である、つい先日も、歩道橋から落ちて自殺した男を手伝っている。
「でさ。覚悟を決めてここに立ったんだけれどさ……いざとなったら、情けないが飛べないんだ……それで、どうしようかと絶望に暮れていたんだ」
男は眉を寄せると、笑顔から泣きそうな顔に変わった。
「兄ちゃん。俺に気が付いてくれた君に頼みがある。こっちへ来てくれ。俺を助けてくれよ」
呼ばれるままに前に出て行くと、和也は柵を挟んで男と向き合った。
「頼むよ……ちょっとだけ、背を押してくれたら良いんだ。俺を楽にさせてくれ」
男は懇願するように和也に手を合わせると、ゆっくりと背を向けた。
「綺麗な月だなあ」
空を見上げて一言つぶやいた男を、躊躇いも見せず、和也は柵の間に左手を入れて、軽く背の辺りを押したのであった。
目の前から男の姿が消えると、そこには小指に指輪が光る彼の左手だけがあった。
「ドン!」
五階建てのビルの屋上から転落した男は、アーケードの天井を突き破って歩道に激突した。
深夜とは言え繁華街なので、直ぐに人が多く集まって来た。
騒がしくなって行く歩道を背にした和也は、繁華街の路地を抜け、住宅街の方へ向かった。今夜は予定を変更して、こっちを散歩しようと決めたのである。
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深夜の住宅街を散歩して、やがて和也は自宅のある市営アパートへと帰って来た。いつものように自宅へ入ると、一番奥の母親の部屋に入った。
枕元に立つと、眠っていた母親が目を開いた。
和也がいつものように微笑みかけると、母親も微笑み返したが、少しぎこちない笑みであった。
母親の視線が、いつものように和也の指輪を確認している。
「母さん。今夜はね、こんなことがあったんだ」
和也がいつものように散歩の報告を始めると、母親の顔は次第に強張って行ったのであった。
その夜の和也は、町外れの川沿いの土手道を歩いていた。屋上で男の背を押してから、一週間ほどが過ぎていた。
川面を風が緩やかに吹いていて、心地よい風が、土手の草むらを揺らして駆け抜けて行く。今夜は空には雲が多くて、それでも、たまに雲間から月が顔を見せると、辺りを明るく浮かび上がらせるのであった。
ポツンポツンと距離を置いて立っている、外灯の続く土手道を和也は歩いて行く。さすがに深夜の河原に人影は見えない。
「!」
誰もいないと思っていた土手道の、ずっと先の外灯の下に、人影が一つ見えて来た。
人影は歩いて来る和也を、立ったままじっと見つめていた。
「こんばんは」
外灯の下の人影は男性であり、近づくと笑顔で和也に声を掛けて来た。
身長は百八十センチくらい。ノーネクタイの灰色のスーツ姿で細身である。髪は短く整えられていて、年齢は三十代に見える。
深夜の土手の道で、男性は不釣り合いな姿であるが、目は優しく温かみのある光を宿していて、和也の警戒心を解いたのであった。
「こんばんは」
和也が挨拶を返すと。
「僕は新堂武志と言います」
男は笑顔を浮かべ、いきなり名乗ったのであった。
戸惑う和也を気にする風でもなく。武志は笑顔のまま和也の左手に視線を移した。
「ほう。素敵な指輪ですね」
「えっ?」
初対面の相手に話し掛けるセリフでは無い。
戸惑った和也の心の隙を突くように、スッと自然に身体を寄せた武志は、和也の左手を、素早く自分の左手で掴んで目の高さに持ち上げた。指輪は外灯に照らされて光っている。
不意を突かれた和也は、唖然とした表情で、武志の成すがままになっている。
「この指輪は、お母さんからの、プレゼントだそうですね」
「?」
母の名が出て、更に困惑した。母の知り合いなのであろうか?
「お母さんに聞きました。左手の小指の指輪は、チャンスを掴み願望を成就する意味があるそうです」
「お、お母さんに会ったのですか? 貴方はいったい?」
武志はうなづく。
あまりにも次々と、不意を突かれる展開に、和也は混乱してしまっている。
「僕は大阪で『白稜堂』という、超常現象を研究する事務所の所長をしています」
武志は和也の左手を取ったまま話を続ける。
「お母さんから、貴方のことで相談を受けましてね……最初はメールで、そして、昨日の昼間に会って話もしました」
和也は思い当たる節があった。彼は自殺を手伝った二人を思い浮かべた。
母親が他人に相談したとすれば、あの出来事に違いない。まさか母親が他人に話すとは、想像もしていなかっただけに衝撃であった。母親は自分を世界で一番愛してくれているはずなのだ。
「ぼ、僕が手伝わなくても、あの二人は、きっと自殺をしていたはずです」
「はい。そうでしょうね」
武志は否定せずにうなづいた。
「……死神が憑りついた人間には、普段は見えないモノが見えるようになります……思い出して下さい。あなたは毎日、夜歩いていて、あの自殺を手伝った二人以外に、誰かに気付かれたことがありましたか?」
「はあ?」
困惑したまま頭をフルに動かして、和也は記憶を辿った……そう指摘されれば、夜道を歩いていて、あの二人以外に話し掛けられたことも、視線を向けられたことさえも無かった。
「ビルの屋上にはね。出入口の扉に鍵が、かかっていたそうです……貴方はどうやって屋上に出たのですか?」
「……」
和也は後退ろうとしたのであるが、武志の左手に、自身の左手を取られていて下がれなかった。
「貴方はね。自分では気づいていないのですが、もう、半年ほど前に交通事故で亡くなっているんです」
「……うん? え? 僕が……亡くなってる?」
武志はうなづく。
「お母さんはね。貴方に会いたくて会いたくて、毎日泣いて暮らしていたそうです。そんなある日、貴方が不意に枕元に立っていたそうです」
「僕が……枕元に立っていた」
「はい。お母さんは貴方が会いに来てくれたと分かって、とても嬉しかったとおっしゃっていました」
次に悲し気な表情を浮かべた武志は。
「毎晩、貴方に会えて、貴方の話を聞けて楽しかったそうですが、自殺された方の話を聞いて、自分は間違っているのではないかと、考えるようになったそうです」
「お母さんが貴方を愛するあまり、貴方を無理やり、この世に縛り付けているのではないかと……」
「そうなのですか? 僕はここに居るべきじゃないのですか?」
呆然とした顔で、和也はゆっくりと口にした。
自分が亡くなっていると聞いて、嘘だと否定したかったが、それは事実であると本能が告げていた。
武志はうなづくと。
「愛してる和也。会いに来てくれてありがとう。これから私は頑張って生きて行くから、貴方は穏やかに成仏して欲しい……と、伝えるように頼まれました」
「……そうか。母さん」
武志の右手が上がり、人差し指と親指で、和也の小指の指輪をつまんだ。
「お母さんの愛が詰まった指輪が、貴方を縛っていたようです」
そう告げると、そっと指輪を抜いたのであった。
「分かったよ母さん……さようなら。僕も愛してる」
和也の姿がゆっくりと薄くなって行き、やがて完全に消えてしまった。
……外灯の照らす、土手に立っているのは武志ひとりである。
抜き取ったはずの指輪も、武志の手から消えていた。
本物は母親の住む部屋の、仏壇に飾られた、笑顔の和也の写真の前に置かれている。
いつの間にか、東の空が明るくなりつつあった。武志は母親に報告をする為に、土手の坂道を、ゆっくりと下って行った。
検査入院の結果、12月に入院が決まりました。
入院中は暇なので、膨らみ過ぎている長編の構想をまとめたり、新・魔風伝奇の話を考えようと思っています。
それでは、また。




