第十一話 夜歩く①
雑居ビルの一階にある、集合郵便受けに入っていたチラシの束を手に取ると、新堂武志はエレベーターに乗って、事務所のある六階のボタンを押した。
郵便受けに入っていたのは手差しのチラシだけで、事務所宛の郵便物は入っていなかったようである。
武志は三十代の後半であり、いつものノーネクタイのスーツ姿である。長身で細く見える体形であるが、実際は鍛えていて筋肉質であった。短く清潔に整えた髪には白髪が混じっている。
六階の一番奥の、『白稜堂』と達筆で書かれたドアを開けて、武志は事務所内へと入った。
『白稜堂』は武志が主宰する超常現象研究所である。警察でも神社仏閣でも取り合ってもらえない、不思議な現象を取り扱っている。
事務所には、今日は出て来るようにと伝えていた、不定期アルバイトの葛城真美の姿は見当たらなかった。
いつものことであると、小さく肩をすくめた武志は、事務所の奥の窓を背にした机の上にチラシを置くと、パソコンの電源を入れた。
画面が立ち上がる待ち時間に、窓に降ろされた目の高さのブラインドを指先で開いて、外の景色を眺めた。
窓下の正面には、京阪京橋駅前の広場が見える。右へ行けば京橋駅。左へ行けばJR環状線の京橋駅がある。
平日の昼過ぎであり、人の姿はまばらであった。
パソコンが立ち上がり、武志は椅子に腰を下ろすとメールをチェックし始めた。
「……!」
武志の眉が寄った。
そのメールは『白稜堂』へ仕事の依頼のメールであった。
武志はじっくりとメールを読んで行く。依頼の中には、明らかに可笑しな物もあって、相手を怒らせないように、丁寧に断らなければならないモノもあるのだ。
「これは……深刻だな」
メールを読み終えた武志は、背を椅子の背もたれに預け、ため息と共に、そうつぶやいたのであった。
皆川和也は深夜の歩道を歩いていた。彼は高校三年生であり、黒の上下のスエットを着ていた。
空は黒雲に覆われていて、道路に沿って立ち並ぶ外灯が、オフィス街のビルを浮かび上がらせている。
彼は深夜の町を歩くのが好きだった。誰もいない静かな町は、昼間とは別世界である。
時折、スピードを上げた車が車道を走って行く。歩道の横の壁に背を預け、酔客が眠っていることもある。
いつから深夜の散歩を始めたのか、和也自身も忘れてしまっていた。毎夜、歩く場所を変え、欠かさず続けている彼であった。
こんな深夜に高校生が一人で歩いていると、警察でなくても咎める人がいるのでは? と想像するが、和也は今まで一度も、人に声を掛けられたことは無かった。
たまに出会う夜の道を歩く住人は、酔客がほとんどで、深夜の仕事中らしき様子の者も、他人には関心が無いようで、彼がいないかのように無視してすれ違うのであった。
やがて彼は市営アパートの敷地へ入って来た。B-3棟の二階に、彼と母親が住んでいる自宅がある。
真っ暗な室内へ入り、母親の眠っているベッドが置かれた奥の部屋に向かい、枕元へ立つと母親が目を開いた。
和也が微笑みかけると、母親も微笑んだ。母親は和也の左手の小指に嵌められた、銀色に光る指輪に視線を向けた。
左手小指の指輪は、チャンスを掴み、願望を成就する願いを込めた指輪である。母親が最愛の息子に送ったプレゼントであった。
「今夜はね。こんな面白い事があったんだ」
その夜、散歩であった出来事を、母親に話すのが彼の日課になっていた。
その日も和也は深夜の歩道を歩いていた。今夜は歩道橋を渡って大通りを横断し、駅裏の細い道を探索するつもりである。
歩道橋の階段を上がり、大通り上を横断して歩いて行くと、歩道橋通路の中央辺りに人の姿があった。
近づいて行くと、人影は四十代くらいの小太りの男性であった。
男性は近づいて来る和也をじっと見つめていた。
たまに深夜に出会う人は、たいていは相手を無視してすれ違うのであるが、あからさまな男性の視線に、和也は戸惑った。
嫌な顔をするわけにも行かないので、彼は小さく会釈をして、男性の横を通り過ぎた。
「兄ちゃん」
男性は和也の背に声をかけて来た。
「……はい」
足を止めて振り返り、返事を返した。
「俺が何をしてるか聞かないのかい? 深夜にこんな場所にいるなんて、可笑しいと思わない?」
「……」
何と答えて良いか思いつかず、和也は無言であった。彼は道で会う人に、特に関心は無かった。
「俺はさあ、ここから飛び降りて、走って来る車にぶつかって、死んでやろうと思ってるんだ」
男は物騒な言葉をもらした。
和也が返答に困っていると。
「笑ってくれてもいいんだが、手すりの上には登れるんだが、どうしてもそこから動けないんだ……やっぱり怖いのかも知れないな」
自嘲するように笑うと、男は背を向け、歩道橋の手すりに両手を掛けた。
首だけ振り返って和也を見ると。
「生きてるのが嫌になっちまったんだ……今から手すりに登るからよ。ちょっと押してくれりゃあ良いんだ。兄ちゃんなら手伝ってくれるだろ?」
「僕が……手伝う?」
和也は戸惑った。たまたま通りかかった者に、自殺の手伝いを頼むなど聞いたことも無い。
「大丈夫だ……兄ちゃんならできるさ」
笑みを浮かべた男は、左足を手すりの下段の横桟に乗せ、グイっと身体を持ち上げると、右足を手すりの上に載せた。
その時、ちょうどトラックらしき車のライトが近づいて来た。このまま直進して来ると、手すりに登っている男の真下を通る。
「そら、ちょうど良いタイミングだ……押してくれ」
通常であれば、自殺をしようとしている者を前にすれば、助けようと動くのが当たり前である。
……しかし。
和也はいささかの躊躇いも見せず、男の尻を左手で押したのであった。
男の姿が目の前から消え、男の尻を押した左手だけがそこにあった……左手の小指には、母親からプレゼントされた指輪が光っている。
「ドン!」
トラックと男がぶつかった重い衝撃音が聞こえ、次に急ブレーキの音が夜空に響いた。
……深夜ではあるが、すぐに辺りは騒がしくなるだろう。
歩道橋を降りた和也は、感情の無い顔で事故現場を背にして歩いて行く。
人が集まり始め、反対側から歩道を走って来た野次馬が、和也の横を通り過ぎて行った。
騒がしくなって行く後方を気にするでもなく。何ごとも無かったかのような顔の和也は、今夜、散歩を予定している、駅裏の路地へ向かって歩いて行くのであった。
後、一時間もすれば夜が明けるであろう。
B-3と壁に書かれた市営アパートに、和也は帰って来た。二階の彼の自宅へ入ると、明かりの無い真っ暗な廊下を通って、母親の寝る奥の部屋へ入った。
彼が枕元に立つと母親が目を開けた。
和也が、微笑みかけると母親も笑みを浮かべた。次いで、愛息に送ったプレゼントの、左手の小指の指輪に視線を向けた。
「母さん。今夜はね、こんな事があったんだ」
いつものように、その日の散歩であった出来事を話し始めた和也である。
……初めは微笑んで聴いていた母親であったが、その表情は、徐々に曇って行ったのであった。




