第十話 応援
松浪信也は二十九歳の男性看護師である、プレートに載せた朝食を手に、彼の担当である、小学校三年生の山本優希の病室へ向かった。
優希の病室は個室で、入り口扉の廊下側の壁には、『山本優希』と書かれた名札が出ていた。
扉を開けると優希はすでに起きていて、カーテンを開け、外を向いて立っていた。後ろ姿を見ても、痩せている身体が痛々しい。
「優希君。おはよう。朝ご飯だよ」
松浪の声に振り向いた優希は、頬のこけた顔で笑顔を浮かべた。身長は小学校三年生の平均的な高さではあるが、体重は平均の半分ほどしかないであろう。
「おはようございます松浪さん」
彼は低学年とは思えないほど礼儀正しい。
「優希君はいつも外を見てるねえ。何が見えるの?」
優希の背越しに窓の外を覗くと、広場の向こうに、高台に建つ住宅街が見えている。
笑みを浮かべた優希は。
「あの坂の上の新しい家にね。最近越して来た中学生くらいの兄ちゃんがいてね……」
彼の指差す方向を見ると、小高い住宅街へ登って行く坂道の上に、新築らしい住宅があった。
そう言えば数ケ月前から建築を始めていたようで、最近まで建物の周囲には、飛散防止のシートが張られていた。
「ああ、あの新築の家だね。人が入ったんだ」
うなづいた優希は嬉しそうに微笑み。
「うん。あの家の中学生くらいの兄ちゃんがね。毎朝、自転車で坂を降りて行ってね。夕方には一生懸命、自転車をこいで坂を登って行くんだよ」
「うわー! あの坂を自転車で登るのは大変だろうなあ」
「うん。大変だと思うよ……でもね、坂を降りる時は楽しそうにしてるんだ。僕も早く治って、あの坂を自転車で降りて見たいなあ」
無邪気な笑顔の優希の言葉に、松浪の表情が一瞬陰った。
「そ、そうだね。早く治す為にも、ちゃんと朝食をとらなくちゃね」
ベッドのそばのテーブルに食事を置くと、松浪は逃げ出すように足早に病室を出て行ったのであった。
廊下に出て扉を閉めた松浪は、改めて山本優希と書かれた部屋の名札に目をやった。
優希の病名は『筋萎縮性側索硬化症』だ。
人口五万人に一人くらいの発症率の難病で、最もかかりやすい年齢は六十~七十代といわれているが、まれに優希くらいの年齢でも発症例がある。
症状は手足・喉・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉が、だんだん痩せて力が無くなって行く病気であって、原因は十分に解明されていない。
「あんな良い子なのになあ」
つぶやくように口にすると、松浪は肩を落として廊下を去って行くのであった。
「行って来ます!」
玄関で奥にいる両親に声を掛けると、住宅から外へ出た佐々木直哉は、軒下にとめてある通学用の自転車を引っ張り出した。
門を出て新築の自宅前の道路に出た。
道路の幅は四メートルほどで、家の前から左に降りて行く坂になっていて、突き当りは国道で丁字路になっている。
左に曲がれば学校へ続く通学路。右に曲がれば市民病院方向である。
自転車に乗った直哉は、ブレーキを握りながら坂道を下って行く。行きは楽だが、帰りの登りはかなりキツイ。立ちこぎで何とか登れる急坂である。
坂を下りながら、直哉は、ふと、どこからか視線を感じて、右側の広場の向こうにある市民病院の方へ顔を向けた。
五階建ての病院の、三階の窓の一つに、子供らしき影が見えた。目鼻立ちまでは確認できない、遠い距離である。
子供が外を見ているだけで、特に気にかかるものでは無かったので、彼はすぐに忘れて、そのまま坂を下って行ったのであった。
その日の受業が終わって、学校から自転車で帰って来た直哉は、坂道の下で止まって気合を入れ直した。毎日のことながら、この坂を自転車で登るのはキツイのである。
途中で自転車を降りて、押して登っても良いのであるが、何となく降りずに、家まで登り切ろうと自分で決めていた。
「良し!」
口を結んで坂を登り始めた。サドルから尻を浮かし、ペダルをグイグイと踏み込みながら登って行く。
ふと、何となく市民病院の方に視線を向けると、朝と同じ三階の窓に子供らしき顔が見えた。
(朝の子と、同じ子かな?)
直哉は偶然であろうと思い、その時は、特に気にすることなく坂を登って行ったのであった。
それから何日かが過ぎ、最初は、たまたま偶然であろうと思っていた直哉は、病院の窓から彼を見詰める子供が、偶然ではなく彼を意識して観察していると知った。
毎日毎日、彼が自転車で坂を上り下りする様子を、子供は必ず見ているのであった。
(きっと、病気で病室から出られなくて、坂を上り下りする僕を、興味を持って見てるんだろうなあ)
そんな想像をした直哉である。
(見られているからには、益々頑張らねば)
坂道の登りの途中で、自転車から降りてしまっては、格好悪いと力の入る彼であった。
そんなある日、急に子供の姿が窓際から無くなってしまった。
(あの子は、どうしてしまったんだろう? 退院したのかな?)
見物人がいなくなり、それはそれで、気になる直哉であった。
いつものように松浪が優希の病室へ入ると、優希は窓際に倒れていた。最近は立っているのも辛くなり、それでも彼は歩行器を使って窓際で外を眺めていたのである。
「優希君!」
驚いて駆け寄る松浪。
「足と手に力が入らなくて……」
優希は弱々しく笑った。どこかを打った様子はない。
「危ない……大人しく寝てなくちゃ治らないよ。大丈夫と思うけれど、先生を呼んで来るからね」
そう諭しながら松浪はベッドに優希を寝かせた。
「でも……外が見たい……」
優希が首を振る。
「転倒して怪我でもしたら大変だから、しばらく外を見るのは止めなきゃ」
「……でも」
優希は眉を寄せた。
いくら注意しても、外を見るのを止めそうに無いと感じた松浪は。
「じゃあ、ベッドを窓の横に移そう。それなら寝たまま外が見えるからね」
「うん。ありがとう松浪さん」
笑顔が優希に戻った。
こうしてベッドは窓際に移されたのであった。
それから、どれくらいの月日が流れたのであろうか。
松浪は優希の入っていた病室の前に立った。
扉の横にあった名札から、山本優希の名が消えていた。二日前に彼は若くして亡くなったのである。
明日からは別の患者が入室するので、松浪は部屋のチェックにやって来たのだ。
重い気分で扉を開けた松浪は、一瞬息を止めた。
窓際に立って、外を見ている優希の姿を見たからであった。
「……!」
絶句した松浪であったが、それは彼が想像で見た幻影であった。
実際には誰もいない、無人の病室がそこにある。
(……俺、どうかしてるな。優希君は亡くなってるんだから……)
「……ピーポー……ピーポー……」
……どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っている。救急の患者が運ばれて来るのであろうか。
首を振って気を取り直し、病室を点検した彼は、元気なく部屋を出て行ったのであった。
佐々木直哉は、いつものように軒下から自転車を引っ張り出すと、高台にある自宅前の道路へ出た。
そして何となく家の正面に見える、広場の向こうの市民病院に視線を向けた。
いつも彼の登下校を、観察していた子供の影は無い。
(きっと退院したんだろうな)
観客がいなくなって、物足りなく思いながら自転車にまたがると、ブレーキを握り締めながら坂道を下り始めた。
風が彼の髪を後方へ引っ張っている。
(……お兄ちゃん)
子供の声が直哉の耳元で聞こえた。
「……!」
空耳だと思ったが、続いてハッキリと声が聞こえた。
(……頑張れ)
直哉の背に冷たい衝撃が駆け抜けた。続いて何者かの意識が、彼の身体の中へ侵入して来たのである。
彼の意志を無視して、彼のハンドルとブレーキを握っていた指から、ブレーキが外れたのであった。
(頑張れ兄ちゃん)
ブレーキを離した彼は、猛烈な勢いでペダルをこぎ始めた。
何か大きな音が、彼の耳元で鳴っている。
……それは彼が発している悲鳴であった。
坂道からノーブレーキで国道へ飛び出した佐々木直哉は、右手の市民病院側からやって来た乗用車に刎ねられ、十メートルほど宙を飛んで、左手からやって来たトラックに当たって道路へ落ちた。
即死であった。
新築の住宅へ、希望を持って入居して来た佐々木家は、交通事故で長男を失って、三か月後に失意の内に家を手放して引っ越して行ったのであった。
その後、半年ほど空き家であった直哉の住んでいた住宅は、やっと新しい住人が見つかって、若い家族が入居したようである。
「行って来ます!」
石田陽介は中学校三年生である。彼は自転車を押して自宅前の道路へ出た。左方向へ通学路の坂道が下っている。
八か月ほど前に、この坂を下った先の丁字路で事故があり、陽介が転校した中学校の生徒が亡くなっていた。
事故があってから坂道には、注意喚起の看板が立てられていて、スピード注意とか、ブレーキ点検とか書かれていて、国道の前には一旦停止の良く目立つ標識も立っている。
陽介は自転車にまたがり、ゆっくりと坂を下り始めた。
涼しい風が下から吹いて来て、気持ちの良い朝である。
(……お兄ちゃん)
どこからか子供の声が聞こえた。
「えっ? 誰?」
周囲に人の姿は無い。
(……頑張れ)
今度は耳元で、ハッキリと声が聞こえたのであった……。
三年十か月ぶりの、新・魔風伝奇の新作です。
話を思いついたら、更新して行こうと考えていましたので、完結設定はしていませんでした。
わずか一話の話ですが、先日、二泊三日の入院検査中に、思い付いたので書いて見ました。
次は、いつになるか分かりませんが、再び会うことを、お約束致します。




