第二話 忘却の河原①
それは灰色の巨大な河であった。
向こう岸は霧で霞んで見えない。
しかし、もし霧が晴れていても、対岸は遥かに遠く水平線の彼方に沈んで見えなかったに違いない。
空はどんよりと曇り、河は灰色の空を映して、ゆるやかに流れている。
見渡す限り広がる灰色の川面は、空と同じほどの無限の広さを感じさせた。
河の僅かな波が打ち寄せる河原は、雑木や下生えは見当たらず、川上も川下も小石にびっしりと覆いつくされ。その同じ風景が霧の彼方へと続いていた。
私は河原に立って、ぼんやりと河の流れを見ていた。
ゆったりと動く水面は全くの無音である。風も吹いていない河原は小さな波が河岸を打つ小さな音しか聞こえなかった。
私の斜め前方には、木製の桟橋が河に向かって伸びていた。
巾は一メートル。長さは十五メートルほどであろうか。
桟橋の先の両端には、一艘づつ小舟が舫っていた。
小舟は二人並びで座れる席が設置されていて、一度に二十人くらいが乗れそうな大きさである。
桟橋の根元の河原には、三十人ほどの老若男女が立っていた。一列に並び、舟が出るのを待っているようだ。
河原の川上と川下を良く見ると、遠くに同じような桟橋の影が見え、どの桟橋の根元にも順番を待っている人々の姿があった。
そう言えば、私も対岸に渡らねばならない。
私は重い足を引きずって、私の前の桟橋に出来ている列の最後尾に並んだ。
列に並んで桟橋の先の小舟を良く見ると、それぞれの舟の最後部の櫓の横
に、黒い三角錐の帽子をかぶっている人影が腰をおろしていた。
舟の船頭のようである。
・・・それからどれほどの時が経ったのであろうか。人々は押し黙ったまま、じっと川面を見つめている。
知らぬ間に私の後ろにも列が出来ていた。
やがて列が動いた。
船頭の一人が立ち上がり、それを合図に前の二十人ほどが舟に乗り込むと、舟が静かに河へ漕ぎだした。
静かである。
時が止まったかのような灰色の世界に、ゆるゆる進む舟が、霧の中に溶けるように消えて行った。
次は私も乗れそうである。
対岸への憧れと懐かしさが、私の心に湧きあがって来た。
それは郷愁の念であった。
残っていた舟の船頭が立ち上がった。
それを合図に列が動き始め、私は船頭のすぐ脇へ腰を降ろした。
舟は音も無く河に滑り出した。
水面には淡い霧が漂っている。波一つない川面を切って舟は進んで行く。
河原と桟橋が霧の中に溶け込んだ頃、私の乗った舟の進む逆方向から、同じ型の舟が霧の中から現れた。
やがて舟はすれ違った。霧の中から現れた舟には、船頭以外誰も乗っていなかった。この舟は、あの桟橋に向かって行くのであろう。
それからしばらく進むと、急に舟の速度が落ち始めた。
船頭が櫓をこぐ調子は変わらないのに、舟の進みが落ちている。目に見えない力が、舟の前進を妨げているようである。
やがて舟は完全に停止した。
静かである。時も動いていないかのような静寂。
空もどこまでも続く水平線も、灰色のみの世界である。
縦横高さに無限に広がる灰色の世界に、小さな舟がぽつんとあった。
舟に乗る全員の視線が私に集中していた。
それまで無表情だった人々の目が、怒りとも憐れみともとれる感情を浮かべ、私を凝視している。
舟が止まった原因が私にあったからである。私にもそれが分かった。理由は分からないが、直感で私のせいであると理解していた。
船頭が私を見降ろしていた。
いや。その深くかぶった円錐状の帽子に隠れ、目は見えなかったが、視線は痛いほど私を見ていることが分かった。
「あんたは、向こうに行けない」
船頭は感情の無い乾いた声で言うと、私の腕をつかんだ。
次に、私の身体が宙に浮かんでいた。
有無を言わせぬ強力な力が船頭の腕に込められ、そのまま私は舟の外へ放り出されていた。