第八話 二鳴り祭⑤
奥の部屋の襖をそっと開けると、ちょうど稲妻が光った。
座敷の中央で一心不乱に法螺貝を吹いている守山の姿が、一瞬闇の中に浮かび上がった。
そっと部屋に入りサンカイさんの社の方を見た。激しく屋根を叩く雨の音の中に、守山とは別の音がはっきりと聞こえた。
表の部屋から近付いた分、より大きく聞こえた。
守山はトランス状態になり、完全に自分の世界に入り込んでいる。恐らく揺すったとしても気付かないに違いない。
「部長」
佐久間が小声で言った。
「なんだ」
「この祭りの名称は≪二鳴り祭≫でしたよね」
「!!」
佐久間の言いたいことに松田も気が付いた。最初から変わった名前の祭りだと思っていたのだが、二つの音が鳴っているこの状態は、まさに≪二鳴り≫である。
これがこの祭りの名の由来なのであろう。
・・・しかし、このことを守山が知っていたように思えない。もしかすると正一郎ら村の住人も知らないかもしれない。彼らは今、一心にサンカイ鎮めのお経を唱えているはずで、二つの音を確認する精神状態では無いはずである。
その時、又も稲妻が光った。そして閃光の中で二人は見た。窓の向こうのサンカイさんの社の広場に、巨大な人影が浮かんだのを。
二人は闇の中で顔を見合わせた。
(何だ!今の影は!)
松田が冗談半分で口にしていた≪山怪≫・・・≪山男≫では無いのか!
「ガラガラガーッ!」
ふたたび稲妻が、今度は連続して閃いた。
二人は、はっきりと見た。毛むくじゃらの異様に腕の長い巨大な人型の生き物が、広場で両腕を天に向けて、法螺貝に合わせて鳴いている姿を。
信じられない光景に、声も出ず固まった二人であったが、松田は気が付いた・・・佐久間の身体が小刻みに震え始めたのを・・・その震えは徐々に大きくなって行った。
「嘘だ!あんな物がいる訳無い!・・・部長!これは悪意のある冗談でしょ!俺たちを引っ掛けようとしてるんだ!」
佐久間の声は怒気に溢れていた。怒りでパニックを起こしかけている。隣で法螺貝を吹く守山にも気を使うことを忘れ、声が大きくなっていた。
「佐久間!落ち付け!冷静になれ!」
松田がなだめるが佐久間は聴いていない。もともと常識と理論で物事を考える彼には、頭から騙されているという思いしか無かった。
「あれは造り物だ!・・・ひょっとして俺が驚いているのをどこからか見て笑ってるかもしれない。畜生!馬鹿にしやがって」
≪ろおふぉ~ろおおぉ~≫
その間も黒い影は鳴いている。
声の響きには、平穏や懐かしさが込められているような気がした。
佐久間がパニックになろうとしているのを押さえながら、返って松田は冷静になって行く・・・不意に松田に直感が閃いた。
黒い影の鳴き声の響きは、遠く離れた仲間と再会した喜びの声ではないのか?
年に一度の≪二鳴り祭≫は、孤独な山男を慰め、鎮める為の儀式ではなかろうか?
稲妻が光った。巨大な影は、相変わらずそこで鳴いていた。
「うおおーーっ!」
松田は驚いた。不意に佐久間が雄たけびを上げたからである。
「ふざけんな馬鹿野郎!こんなことがあるか!」
極度の緊張と怒りで、佐久間はパニック状態になっていた。目の前に現れた非常識な現実を理解できなかった。
理解できない物は否定するしかない!
「俺を馬鹿にしやがって!」
叫ぶと松田が止める間も無く、法螺貝を吹いている守山に飛びかかった。
佐久間は、あっさりと守山の法螺貝を取り上げていた。精神集中状態を無理やり断ち切られた守山は、硬直し白目を剥いてそのまま前に倒れ込んだ。
「何をしている佐久間!」
止めようと寄って来た松田を、錯乱している佐久間は反射的に手に持った法螺貝で殴っていた。
ほとんど無意識で手加減の無い力が込められた法螺貝は、松田の頭に当たって砕け散り、松田は頭を押さえてその場に倒れ組んだ。
佐久間の目の色が変わっていた。
稲妻が何度も閃き、部屋の真ん中で仁王立ちしている佐久間と、床に倒れ込んだ二人を照らした。
外から聞こえていた黒い影の鳴く声の調子が変わっていた。
突如、法螺貝の音が途切れたことへの戸惑い・・・疑問・・・焦躁・・・不安・・・孤独・・・苛立ち。
≪がああぎゃあーー!ぐぉおおーー!≫
不意に途絶えた音色の、突き放されたような喪失感は、やがて行き場の無い怒りへと転化して行く。
血が流れ出る頭を手で押さえて、松田が佐久間を見上げると、彼は凄惨な形相で窓の向こうで稲妻に浮かび上がる影を睨んでいた。
「馬鹿にしやがって!・・・俺が正体を暴いてやる」
そう叫ぶと玄関の方へ走りだした。
(行くな佐久間!)
松田が叫んだが声にならなかった。
佐久間は玄関の脇に積んである薪をつかむと、大雨の中に飛び出して行った。
松田は途切れそうになる意識を辛うじて保ちながら、立ち上がり窓際に寄った。
頭を押さえた手の下から血が溢れて床に落ちた。
雷鳴と稲妻の閃光の中に、荒れ狂った雄たけびを上げる巨大な影が見えた。
突如消えてしまった仲間の声を追い求める、空しさと怒りの叫びであった。
その巨大な影に、手に木切れを持って打ち掛かって行く佐久間の姿が見えた。
何度も焚かれる稲妻のフラッシュは、佐久間の姿をフィルムのコマ割りの映像のように、松田の脳裏に刻んだ。
黒い巨大な影の長い腕が、佐久間に向かって一閃された時、松田の意識も暗転したように途切れ、その場に昏倒したのであった。
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雷を伴った激しい雨は、朝方には嘘のようにあがっていた。
・・・翌朝の詳細は松田には分からない。後で警察から教えてもらった。
奥蛇谷の住人が、サンカイ鎮めのお経を終えてから異変に気が付いた。
守山家で倒れていた二人を発見したのである。
守山はすぐに意識を取り戻したのだが、松田が目覚めたのは病院に搬送される救急車の中であった。
佐久間はサンカイさんの広場で、死体となって発見された。身体には何か所もの巨大な爪でえぐられた跡が残っていた。
失血によるショック死であったが、顔の表情には恐怖が張り付いていたそうである。
状況から熊の仕業であろうと推測され、数ヶ月にわたってハンターが山に入って捜索したが、熊は元より痕跡さえ発見に至らなかった。
住人は誰一人、サンカイさんのことを口にする者はいなかったが、言ったとしても誰も信じる者はいなかったであろう。
松田も病院で警察からの事情聴取を受けたが、頭にひどい傷を受けていて、記憶も飛び飛びで、社の前に巨大な黒い影がいたことしか思い出せなかった。
警察は、それは熊であったのだろうと現実的に処理したのである。
サンカイさんの社の中は、貢物は全てひっくり返され、スペアで置いてあった法螺貝も砕かれていた。
加工の方法も伝わっていない、特殊な音色の出る法螺貝無しでは、もう二度と昔通りの≪二鳴り祭≫をすることはできないであろう。
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深い森の中を巨大な人影が移動していた。
行く時は、年に一度の希望に満ちた行程であったが、今は絶望に沈んでいる。
昔、もっと若かった頃は多くの仲間たちと森を移動して暮らしていた。
その仲間たちも、一人二人と減って行き、もうずいぶん前から仲間に会ったことは無かった。恐らく自分の仲間はかなり昔に死に絶えたのではなかろうか。
だだ、一年に一度だけ、あの場所に行けば懐かしい仲間の声を聞くことが出来た。
・・・その唯一の喜びも今は無くなってしまった。
これから先、どれほどの期間を孤独で過ごさねばならないのであろうか。
深い悲しみを胸に、巨大な影は黒い森の奥に消えて行った。




