第一話 うしろの僕②
手紙は走り書きらしい読みにくい文字で書かれていた。
先生、突然お手紙差し上げます。先生のことは週刊誌で知りました。僕を助けて欲しいのです。もう、毎日が恐ろしくて、その内、気が狂ってしまうのではないかと思います。
とにかく時間がありませんので手短に書かせて頂きます。
先生は「ヒタヒタさん」を御存じでしょうか。
先生のご職業なら聞いたことがあると思います。
夜などに一人で歩いていると、後ろには誰もいないはずなのに、足音が付いて来る現象です。
振り向くと誰もいない・・・前を向いて歩きはじめると足音が付いて来る・・・。
僕は今年、高校生になったのですが、小学生の頃から、頻繁に「ヒタヒタさん」に後を付けられるようになっていました。
初めは小学校四年生の時です。
・・・もしかすると、もっと前から何度かあったのかも知れませんが、はっきりと知ったのはその日でした。
その日、僕は算数の宿題を忘れて来ていて、放課後に一人残されて教室で前日の宿題を解いていました。
担任の先生は教壇の前で、本を読んで僕が終わるのを待っていてくれていました。
その頃、学校では「探偵」という遊びが流行っていました。探偵役が泥棒役を追いかけて捕まえる遊びで、鬼ごっことあまり変わらない遊びでした。
僕は早く探偵がしたくて、一生懸命問題を解いていましたが、いつの間にか西日が教室に差し始め、どうやら宿題が終わる頃には、もう遊ぶ時間が無いように思えて来ました。
担任の先生が、終わったら前に出して帰りなさいと言って、教室を出て行きました。
僕の教室は二階にあって校庭に面しているのですが、先生が出て行ってしばらくすると校庭の方から、パタパタと運動靴で誰かが走り回っている音が聞こえて来ました。
(あ。誰かが遊んでる。・・・早く終わらせて仲間に入れてもらおう)
そう思ったのですが、気ばかり焦って問題が解けません。僕は我慢できなくなって窓から校庭をのぞきました。
・・・そこには誰もいませんでした。
つい、今しがたまで走り回る足音が聞こえていたのですが。
(帰ってたのかな)
僕はがっかりして問題を解き始めたのですが、そうすると又、パタパタと走り回る足音が聞こえて来ました。
しかし、僕が外を見渡すと、足音は消えて誰もいないのです。
最初は誰かが、いたずらをしていると思ったのですが、何度試しても目を向けた瞬間に足音が消え、校庭には誰もいないのです。
何か僕の想像の付かないことが起きている気がしました。
見渡す校庭はしんと静まり返り、夕闇が降りて来ようとしていました。
その静けさが恐ろしくなりました。
ぞっとした悪寒が僕の背を走り、僕はランドセルを背負うのも忘れて教室を飛び出していました。
僕は板張りの長い廊下を、青くなった顔を引きつらせて全力で走りました。
悲鳴も出ません。心臓が口から飛び出して来そうにバクバクと波打ち、心の中で悲鳴を上げながら走りました。
走って行く廊下の右手には教室が続いています。
左側には窓越しに中庭があって、その向こうには別棟の校舎があり、僕の走っている廊下と平行に廊下が続いています。
その中庭越しの廊下を僕と同じ方向に誰かが走っているようです。パタパタと運動靴の足音が聞こえます。
普通なら、それほど離れた場所の音が絶対聞こえるとは思えません。
でも、その時は、はっきりと聞こえ、そして気が付いたのです。自分と平行に別棟の廊下を走る誰かがいることに。
僕は恐怖に駆られながらも、目だけ動かして別棟の廊下を見ました。
誰もいませんでした。
足音だけが廊下を走っていました。
胸の中から何かが、わっと上がって来ました。初めは何か分かりませんでした。耳元でうるさい音が鳴っていました。
気が付くと、それは僕の悲鳴でした。僕は知らぬ間に悲鳴を上げて走っていたのです。
その後のことは良く覚えていません。
気が付くと家に帰り、布団をかぶって震えていました。
・・・そして、その日からです。
一人でいる時は、必ずと言って良いほど、足音に後ろを付けられ始めたのです。
それは家の中でもです。
親の帰りが遅い日の夜には、僕の部屋の外の廊下を足音が行ったり来たりしていました。
家族にも学校にも相談しました。病院にも行って見てもらい、何だか分からない薬も処方してもらいました。
嘘を言っていると猜疑の目で見られたり、気のせいと言われたり、誰も僕を助けてくれる人はいませんでした。
その内、僕は知らぬ間に、自分を守る為に足音を無視するようになっていました。足音だけで何をするでも無い何者かを、無視することによって僕は狂わずにいられました。
しかし、今となっては狂ってしまっていた方が良かったと思えるような、とんでもない状況に追い込まれてしまっているのです。