第四話 顔の無い地蔵②
良一は長い間、何かを地蔵に祈っていたようである。
由美が問いかけても黙然として何の反応も無かった。
やがて良一は顔を上げると移動を再開した。
一言も話す気配は無い。
由美は異様な良一の行動に言い知れぬ不安に包まれたが、両足が動かない現状では何をすることもできない。
何か癇に障ることを言うと、森の中に置いて行かれるのではないかと恐ろしくなり、由美は背に負われたまま身を委ねるしかなかった。
それからどれほどの距離を進んだのであろうか。木々の間を抜けて進む良一の足は一向に衰えない。体力の限界を超え、何かに憑かれたかのように一心不乱に森の中を進んで行く。
明らかに何かの異常事態が起きていた。
やがて急に森が途絶え、二人は少し広くなった空き地にでた。
目の前ニ十メートルほど先に木製の小屋があった。屋根は藁葺きであるがひどく傷んでいて、ところどころ藁が抜け落ちている。
板張りの外壁も腐って変色していて、柱の根元も風化して今にも倒壊しそうな様子であった。
そんな小屋を見つけた良一は、そこに小屋があることを知っていたかのように、無言のまま、一切躊躇することも無く小屋に近付いて行った。
小屋には小さな押し上げ式の窓と、出入り口らしい引き戸が付いていた。窓には木製の格子が付いているが、中の数本は腐って落ちてしまっていた。
板張りの引き戸は周りの枠も含めて、腐って青緑色に変色している。
良一の右手が引き戸に伸び、ギシギシと建具と敷居に悲鳴を上げさせながら戸が開いた。
小屋の中は黴臭い臭いと、何か異様な気配が充満していた。
天井には真っ黒に変色した梁が掛かっていて、その上に同様に黒く変色した竹と藁の屋根の裏側が見えた。
板張りの壁には外から見えた窓が一つ空いていた。
八畳ほどの広さの小屋の中は、三分の一が三和土になっていて、残りは土間から一段上がった板張りの床になっていた。
その板張りの床の、光がほとんど届いていない奥の方で何かが動いた。
息を飲んで小屋の中を観察していた由美は、動いた物を見て小さな悲鳴を上げた。
良く見ると、それは人だった。
一人では無い。・・・三人の姿が見えた。
中の一人が、もそもそと動き出し、床の上をいざって二人の方へ近づいて来た。
小さな老婆であった。髪は全て白くなっていて、顔中が皺に覆われ、赤黒い肌には染みがいくつも浮き出ていた。
身に付けているのは着物のようであるが、使い古された雑巾のようにボロボロであった。
「良く来たね・・・さあ、お上がり」
しわがれた声で老婆が言った。
異様な事態に由美は声を失い、良一の背に必死にしがみついた。
奥にいた残りの二人も前へ出て来た。いずれも老婆である。風体も最初の老婆とほとんど変わらなかった。
「お仲間ができてうれしいよう」
「うれしいよう」
「うれしいよう」
三人が同じような調子で言い、ほとんど抜け落ちた黒い歯を見せて破顔した。
「あ・・・なた。良一さん・・・この人たちは何」
由美は震える声でそれだけ言った。
良一は無言である。
板の間へ向かって進み、手前で踵を返すと床へ座り、有無を言わさぬ調子で由美を老婆たちの前に降ろした。
「嫌!いや!」
泣き叫んでしがみ付いて来る由美を良一は強引に引き離して立ち上がった。
それでも泣き叫んで何とか良一にしがみ付こうとしていた由美であったが、見降ろす良一の目を見た時、一瞬で抵抗する気力が失せてしまった。
良一の目には一切の感情が無かったからである。
助けてもらえるかも知れないから叫ぶのであり。
助けてもらえるかも知れないから泣くのである。
そう言う哀願を全て拒絶する目を良一はしていた。
老婆の一人が寄って来て、気が抜けて放心している由美の背からリュックを降ろし、良一に渡した。
「さあ。これを持ってお帰り。ここに来た者には必要な物は何も無いんじゃ」
良一はリュックを受け取ると逡巡するそぶりもなく、入り口の方を向くと、そのまま振り返ること無く小屋を出て行ってしまった。
小屋に残ったのは三人の老婆と、足が動かなくなっている由美だけである。
由美は閉まった引き戸から、恐る恐る老婆たちに視線を向けた。
いつの間にか老婆たちは、最初にいた小屋の奥の隅に寄り添うように、ひと塊になってこちらを見ていた。
「あなたたちは、なぜこんな場所にいるの」
「なぜじゃと」
「なぜじゃと」
「なぜじゃと」
三人が同時に言った。
「足が動かなくなったのかえ・・・じっとしておればエエ。じっとしておればエエ」
夜が近付いているのか、先ほどまで感じなかった冷たさが床から伝わって来る。
「ここにいたら、死んでしまうわ」
「けけけ」
「けけけ」
「けけけ」
老婆たちは不気味に笑った。
由美は老婆に質問するのを諦めた。
狂っているのではないだろうか。
(なぜこんなことになってしまったの。あの顔の無い地蔵を見てからの良一さんは変わってしまった・・・)
由美は考えたが、答えが出るはずも無かった。
由美があれこれ考えている内にも時間は過ぎて行く。
窓から入って来る明かりの具合から、日は暮れて雨が完全に上がったようで、月が出ているのが分かった。一つだけ空いた窓から月明かりが入り、小屋の中を明るくしていた。
雨は止んだが小屋の天井からは、今も雨漏りの水滴がそこかしこに落ちて来て床を濡らしていた。床下からの冷たさが容赦なく由美から体温を奪って行く。
「寒い」
由美はつぶやいて辺りを見渡したが、防寒の役に立つような物は何も無かった。老婆たちは良一が去ってから奥で、ひと塊になったまま身動き一つしない。
由美は丸くなって歯を鳴らしながら寒さに耐えていたが、ついにそれも限界に来た。
老婆たちに目をやる。
不気味な老婆たちであったが、人であることに変わりは無い。由美は決心して老婆らに、にじり寄った。身体を合わせて暖を取ろうと考えたのである。
苦労して、腹ばいになり、手の力だけで老婆らに近付いた。
老婆らに手の届く位置に来て、由美は不思議なことに気が付いた。
老婆らの姿が小さくなっているように見えたからである。
「あの。すみません」
声を掛けたが、老婆らの反応は無い。
由美は恐る恐る手を伸ばして、襤褸切れのような老婆の着物を引っ張った。
手ごたえが無く、あっさりと着物は由美の手元へ引きずられて来た。
≪ごろり≫と何かが着物の中から転がり出て、腹ばいになっている由美の目の前で≪それ≫が止まった。
それは頭がい骨であった。
「ぎやーー」
由美の絶叫が深い森にこだまし、それに驚いた鳥が梢を揺らして飛び立った。




