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第8話 ハンザ

 ハンザは、動物の看板――肉屋や皮なめし屋――の並ぶ、こじんまりとした通りだった。河の水が水車を回すのに適しているのか、粉ひきやパン屋の看板も多く吊られている。ほとんどは店舗の二階が住宅となっており、窓辺に咲くゼラニウムやカモミール、路地裏でロープに渡されて風に翻るリネン類が、目にも鮮やかだった。

「これが……町!」

 エメラルダは鼻孔いっぱいに空気を吸い込み、耳をすまし、翠の瞳をあちこちに走らせた。

「お兄さま、あれは何ですか!? あそこの子たちが、鞭のようにしならせているあれ!」

「あれは下町の子供がよく遊ぶおもちゃ、シドリル。靴や鞄には使えない部位の革を加工したもので、勢いよく振ると良い音がするよ」

「あの方はあぶらだけかっていかれましたわ! それもあんなにたくさん!」

「機械工か錬金窯の徒弟でしょうね。脂は食べる以外にも、機械油や燃料として使ったりするんですよ」

「音楽がとおくからきこえてきますわ。ふえとたいこと、あとヴァイオリン!」

「音楽? ああ、アドリアナ広場が少し行ったところにあるから、大道芸でもしているんだろうね。天気もいいし」

「ごふじん方はぼうしをかぶっていらっしゃらないわ。しんしはかぶられているのに」

「それは未婚の乙女ですわね。中流の既婚婦人は、丸いパンのようなリネンの帽子を被ります。それより下の人々はターバンを巻くのです。ほらあのように」

「まあ! まあまあまあ!」

 思いついたまま疑問を口に出すと、誰かが即座に答えてくれる。疑問を氷解してもらいつつ、エメラルダは見渡せる限りを見渡した。

 そして唐突に、どっと涙をこぼした。

「メリー!?」

「ひっ姫様!?」

 スタニスラフとヴェロニカは声をひっくり返して驚いた。この一の姫が泣いたことなど、それこそ頑是ない乳児の時以来だったからだ。

「わっ、わたし、まちがっておりました……! 思いあがっておりました……!」

 地面に膝をつけんばかりの勢いで嗚咽しはじめた姫に、三人は困惑して顔を見合わせた。

「みなさんッすごくいきいきとして、ご自分の仕事やあそびにいっしょうけんめいで……! こんなにしっかりと、生きていたなんて……」

 エメラルダは、民とは弱く、力ある者が守らねばならないものだと信じていた。なぜなら、双魚宮を出ない姫が知る民は、慈悲を求めてたまに西門を訪れる人たちだけ。みな痩せて目が落ちくぼんで、手肌は荒れて土気色、夢も希望もないような面持ちをしていたから。

 かたや自分の境遇は、朝に夕に壮麗な食事が供され、衣類もリボンも絹で、幾人もの女官に一日中世話を焼かれている。母も兄もたまに会う親類も、質のよい装束に身を包み晴れやかに笑っている。

 外の人々が貧困にあえぐ中、自分の縁者だけはすべて、世の苦しみから逃れているように見えた。それは取り返しがつかない間違いのようで、エメラルダはいつも、胃の痛くなるような罪悪感を抱いていたのだ。

 罪悪感と、何とかしなくてはいけないという焦燥から、なんともなしに部屋の出窓を開いては、できることなどなにも思いつかずに、目を伏せてただ閉めていた。

 そうして絶望を少しずつ、積もらせていったのだ。

(でもそれは、思いこみでしたのね。民はわたしなんかにしんぱいされるほど、かわいそうな人々じゃない)

「市井の人々は、王がだれだろうが、姫がどんなものだろうがかんけいない。わたしたちとおなじく、たくましくはれやかに、日々をすごしているのですね……」

 さめざめと泣く姫の肩をヴェロニカが優しく抱き寄せ、スタニスラフは何も言わず、眩しそうに目を細めた。

「今日、ここに来れて、思い上がりを正せてよかった……! このまま知らなければ、きっときょうあくなインテリゴリラになっていました!」

「凶悪なインテリゴリラ?」

 聞き間違いを確かめるようにオウム返したパトリクに、エメラルダは涙をぬぐい、にっこりと笑った。

「ええ。ゴリラになることはさけられないのですが」

「おかしい、さっきからゴリラとか聞こえる。姫がゴリラとか言うはずないのに」

「せめてわたし、ぜんりょうなインテリゴリラをめざします!」

「いやこれゴリラって言ってるな! 善良なインテリゴリラって何ですか!?」

 とうとう幻聴ではないことを理解したパトリクの声が裏返った。

「さすがは姫様、知勇ともに人類を超越するだなんて、目標を高くお持ちですわ」

「一人でゴリラになろうなんていけないよ、メリー。一緒にゴリラになろうね」

 付き合いの長い二人は、なぜかインテリゴリラなる語の意味するところを理解して頷いていた。

 川端に近づくにつれて商店はまばらになり、廃材を寄せ集めた掘立小屋や、使われていない倉庫ばかりが目立つようになってきた。腹をすかせた野良犬が近寄ると、パトリクがすかさず棒切れを投げつけて追い払った。

「犬にはお気をつけください。たまに噛まれて死ぬ者が出ます」

「狂犬病がはやっているのですか? それはいけませんね」

 狂犬病の名は真夜中の図書館で知ったものだ。この世界よりずいぶんと進んだ科学技術を持つあちらでも、発症すればほぼ確実に死に至るものである。しかしワクチンが開発されており、ウイルスが脳に到達する前に打てば救命できるという、なんとも劇的なウイルス感染症だ。

「咬傷によって犬から人に感染する病だね。いたましいことに、現在の医術では噛まれた部位を切り落とすことしか命を救う手立てはない。それでも救命できないこともあると聞く」

 スタニスラフは、秀麗な顔をわずかにくもらせた。

 エメラルダは――一瞬逡巡したが、知っていることを告げることにした。無害な妹作戦は絶賛決行中だが、人命と天秤にかけたら迷う余地はないからだ。

「お兄さま、それが……ワクチンがゆうこうなのだそうです」

 ブルーグレイの瞳が弾かれたようにエメラルダを映しこんだ。

「メリー、ワクチンとは?」

「からだに入ってきたわるいものの人相書き、だそうです。人相書きがあればわるさをするまえに、からだの中の小さな兵士がやっつけられるのです」

 本に書いてあったとおりの平易な言葉で説明すると、スタニスラフは口元に手を当てて考え込んだ。

 狂犬病の最初のワクチンは、発症した動物の髄液を石炭酸に漬けてウイルスを不活性化したものだという。石炭酸は帝国で二十年前に発見されて以来、臭い消しとしてストランドでも使用されているから、手に入れることは可能なはずだ。あとは発症個体を確保すれば、ワクチンの錬成に着手できるだろう。

 そう、こちらの世界は科学が遅れているかわりに、錬金術と魔術があるのだ。

「メリー、きみにはワクチンが作れるの?」

 ブルーグレイの瞳は、常になくいぶかしげに疑いの色を乗せていたが、希望の光も奥にひそんでいるように見えた。

 スタニスラフは妹を信用していない。慈悲を乞う民を見捨てて小鳥を庇護するような、頭のネジが外れた娘だと思っているはずだ。

 だが一方で、彼は民のためなら悪魔とでも取引できる人間だということを、エメラルダは知っていた。正しく、彼こそが王の器であることを。

 だから全幅の信頼が伝わるように、気合を入れた笑顔を返した。表情筋、今までさぼってきた分、仕事をするのよ!

「はい。お兄さまといっしょなら!」

 スタニスラフは、彼には珍しく少し拗ねたように唇をとがらせて、「この小悪魔」と小さくぼやいた。

「えっあくま!? な、なぜそれを……!?」

 一転して真っ青になった妹を見て、今度はスタニスラフのほうが笑みを漏らした。いつもの完璧な笑みとは違う、ついこぼれたというような、優しい笑いだった。

「かわいい妹ということだよ」

 兄に頭をなでられるのは、いったいいつぶりだっただろうか。


 古い石造りの町、スピルティカ。三百年ほど前は市街地であったが、疫病がはやって以来、打ち捨てられた町である。橋を渡ってすぐ、元は城門でもあったのか大きな石の上に、腰を下ろしている白衣の男がいた。

「やあヴェロニカ! 今日も美人だね!」

 晴れやかに挨拶してきた青年は、ヴェロニカの用意した協力者のようだった。

 手をつないだままのヴェロニカを見上げると、まるで虫を見るような無表情だったので、(もしかしてこのふくをよういしてくださったおともだちかしら……)と推測された。

「ハースキヴィ商会のタイストと申します。お坊ちゃん、お嬢ちゃん。今日はよろしくね」

 人好きのする笑みで、かがんで目線を合わせたタイストは、スタニスラフを見ると笑みをひっこめ、パトリク、エメラルダの順に顔を凝視した。

「……ヴェロニカ。親戚の子供たちって言ってなかった?」

 いや嘘ついて呼んだの!? かわいそうでしょヴェロニカ!

 そう、スタニスラフはストランド王家の特徴が色濃いのだ。王宮勤めの女官がローズグレイの髪とサファイアの瞳の子供を連れていれば、大抵は勘づくだろう。

「知らないふりをしていればよかったのに、相変わらずばかね」

 ヴェロニカはやはり、良心の呵責の一つも感じていなさそうな表情だった。いったい二人に何があったのだろうか。

「いや、さすがに殿下方をここから先にお連れするわけにはいかないよ! 何かあったら商会の取り潰しどころか、おれの首が飛ぶ。物理的に」

 にわかに顔色の悪くなったタイストが気の毒だったのだろう、「どうかここではスールと呼んでください」とスタニスラフが話しかけた。

「急な事態で困惑するのも無理はない。ぼくたちに何があっても、あなたとあなたの商会に迷惑をかけることはないと誓います。ここにフラメルの名を以って、制約の陣を」

「わたしが書きますわお兄さま。ヴェロニカ、ナイフをくださいな」

「ちょっちょっ、待って! 制約の陣って貴人の血と血で誓う、破ったら死ぬやつでしょ!? 王家と侯爵家の臣従の誓いとかで使うやつじゃん! やめて重すぎる! というか書けるのすごくない!?」

 兄の意を汲んで申し出てみたら、タイストの顔色はさらに悪くなってしまった。考えてみれば当たり前である。

 エメラルダは前に進み出て、タイストの手を両手でぎゅっとにぎった。

「ごめんなさいね、タイストさん。でもどうしても、おいしゃさまのふりをした大人の方がひつようなんですの。こちらではやっているやまいをしらべるために」

「それ、白羊宮のえらい先生方じゃだめなんすかね? わざわざ殿下方が出向く必要あります?」

「ちょっと! 姫様がけがれなき御手で卑賤の身に触れてくださったのよ。まずは額づいて泣きながら感謝しなさい!」

「ヴェロニカ、ちょっとしずかにしててね」

 話が進まないので筆頭女官には黙っていてもらいたい。

「白羊宮をしんようできないわけがあるのです。そしてじかんがないの。このままなにもしなければ、夏にはおおぜいの民がなくなってしまうから。民のしもべである王家のわたしたちと、兄のしんらいするパトリク、わたしのしんらいするヴェロニカ。そしてヴェロニカのしんらいするタイストさん。まずはこの五人で、やまいのげんいんをつきとめたいのです」

 じっと見つめて懇願すると、タイストはうろたえたようにまばたきをして、「よ、よくできた子たちだぁ……」と妙な感想をもらした。

「スタニスラフ王子殿下もエメラルダ姫殿下も、こんなに小さい身空で、こんなにしっかりしているとは……おれが同じ年ごろのときは、犬のうんこ見つけたら大喜びしてましたよ」

「いえ、わたしもうんこを見つけたらよろこびますわ」

「ぼくも顔には出さないけど楽しい気分になるかな」

「ひぇ、しっかりして見えただけだぁ……」

 タイストの顔色はまだ悪かったが、息を大きく吐いて「わかりました」と頷いてくれた。

「王族のただの興味本位や思いつきで、人生を棒に振られちゃたまんねえって思いましたが……人の命がかかっているなら、ご協力しましょう」

「ありがとうございます、タイストさん!」

「いーえー、こんなかわいい子に頼まれちゃねえ。一つ、ハースキヴィ商会のこともよろしく頼んますよお」

 目は死んだままだったが、エメラルダたちが委縮しないようにつとめて軽薄な調子でこう返してくれた。ヴェロニカが連れてきてくれた人は、大変にお人よしの、大変に善良な青年のようだった。


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