第7話 地下遺構
兄の協力を取り付けたあとも、まだやることがある。自身の部屋付き筆頭女官、ヴェロニカを探して、エメラルダは双魚宮をうろうろと歩き回っていた。
エメラルダには城を出るための服がなかった。靴もなければ鞄もなかった。持っているものといえば、ドレス、寝間着、ヘッドボンネや子ども用のかわいらしいパンプスだけ。どれもアナスタシアの溺愛のため、シルクオーガンジーやモスリンなどの贅沢な生地がふんだんに使われた一点ものばかりで、そんなものを着ていったら最後、身ぐるみを剥がされるか引きちぎられるかが落ちである。
何より、第一王女の挙動を正確に把握している筆頭女官の目をごまかして、城外に出られるわけがないのだ。どうあっても協力を取り付けるほかなかった。
「かしこまりました。庶民の子供服ですね。すぐご用意いたします」
意を決してお願いをしてみたら、想定外にあっさりと首肯が返ってきた。エメラルダは目を瞬いた。
「と、止めませんの?」
「長くお仕えしておりますから。姫様のご気質はわかっております」
優しくほほえまれたエメラルダは、一体ヴェロニカには何が見えているのか気になった。
ご気質とは? 将来凶悪なゴリラになる片鱗しかなかったと思うのだけど……?
「ですが、このヴェロニカもお供させて頂くことが条件です。尊い御身に傷でもついたなら、わたしは後悔のあまり木っ端微塵になるでしょう」
「こっぱみじん!? そ、そこまで……!?」
というわけでヴェロニカをお供に、第一王子と補佐とエメラルダは、翌日には計画を決行することにしたのだった。
ヴェロニカがエメラルダに用意したのは、中流階級の男児服だった。万が一にも身分がバレないようにという希望をくみ取って、わざわざ型落ちの古着を手配する有能ぶりである。知り合いの商人の少年時代の品らしい。
長い亜麻色の髪は二つのお団子にしてキャスケットの中にしまい、ベストとブラウス、コーデュロイのハーフパンツを身に着け、綿の靴下とローファーを履きこんだエメラルダは、あまりの動きやすさに感激していた。
(布が足にまとわりつかないし、どれだけ足をひらいてもだいじょうぶですわ! おなかのしめつけもないから思い切りうごけますし、このくつも、足のうら全体で体を支えるからいつものくつよりずっと歩きやすいです! まいにちこれがいい!)
「まあっ、かわいらしいです姫様! 平民の美少年に身をやつした天使のよう。このまま家へ連れて帰りたいくらいです!」
ふだん落ち着いているヴェロニカも歓声を上げて喜んだ。
彼女もまた、いつものお仕着せを脱ぎ、無地のブラウスに飾りのない紺のロングスカートという質素な服に身を包んでいる。服装はシンプルだが、それが怜悧な印象の整った顔立ちによく似合っていて、(あ、憧れのお姉さまですわ……)とエメラルダは内心ドキドキしていた。
「あのね、ヴェロニカ。もし、おともだちがよろしければなのだけど、ほかのふくもかわせていただきたいの。すごくうごきやすくて、気に入ってしまったの。……お母さまに見つかったらたおれてしまうかもしれないから、ないしょにしなくてはいけないのだけど」
「購入だなんて姫様! こんなあの男の着古しなんかじゃなく、新品の子供服を山ほど献上させますわ。あの男には過ぎた褒誉ですもの、末代までの栄誉と泣いて喜ぶことでしょう」
「どんな人かぞんじ上げないけど、あつかいがひどいわヴェロニカ」
憧れのお姉さまの思いがけず癖の強い一面を目にして一抹の不安を覚えながらも、エメラルダはスタニスラフたちと合流した。二人ともヴェロニカの用意した衣装に着替え、人気のない階段下の物置ですでに姫たちを待っていた。
「おや、どこの天使かと思ったよ」と食えない笑みを浮かべているのは、第一王子スタニスラフ。目の粗いグレーのジャケットと不揃いのストライプのパンツというあか抜けない服を身に着けていても、溢れ出る高貴さと顔面からの発光が隠せていない。
パトリクは「こんな普通の子供服でも、着る人間が違うとこうも違うのですね」と感嘆の声を上げた。こちらも毛羽だったブラウンのジャケットに、丈のやや短いチェックパンツという田舎臭い恰好だが、凛々しい顔立ちと鍛えた体躯は丸出しである。
「……むりがありますわ!」
エメラルダは叫んだ。
「これで貧民街に行くのですか!? かおがっ、かおがキラキラしてます! 生まれをゆうべんにかたりすぎです! お兄さま、パトリクさま。ちょっと顔面に煤などぬりたくられてはいかがですか?」
「何を言ってるんですか姫!?」
「自分も大概だってわかってるかな?」
双魚宮は王族の居城として使われていた長い歴史がある。かつては戦乱を潜り抜けてきただけあって、古い時代の隠し通路がいくつか組み込まれており、スタニスラフは確固とした足取りで一行を中庭の東屋に案内した。
東屋は、宮殿と揃いの古代プロテア風の造りで、淡いオレンジ色の人造石が美しい建築だ。噴水から流れる水路の周りに、南方の動物たちが寝そべる像が形作られている。
「この通路は王族しか知ることはないもの。メリーはまだだろうけど、その時が来たら父上から教えてもらえるから心配いらないよ。パトリクとヴェロニカは王族ではないけれど、有事の際はぼくらと運命を共にする立場だからね。知っておいた方が、いざという時に役に立つだろう」
「無論、宮殿が火に包まれても姫様をお守りします」
「おれは宮殿が燃える前に手を打ちます。騎士ではありますが、殿下の補佐ですから」
バチバチッ! とヴェロニカとパトリクの間に火花が散った気がした。
エメラルダは(えっ急になぜ)と冷や汗を背中に流しつつ「ここからどうやって行くのですか?」と兄を急かした。
「こうするんだよ」
スタニスラフは長い腕を、カバ像の大きく開けた口に突っ込んだ。重たい石が動くような音がし、間をおいて東屋からもゴトッと何かが落ちる音がした。
「これで、このテーブルをどかせるようになる」
半信半疑という顔でパトリクがテーブルに触れると、見るからに三百ポンドを超える重さのはずが嘘のように軽く動いて、エメラルダは「わあ!」と驚きの声を上げた。
「物質変化の錬成陣が、カバの口の奥に書かれているんだ。対になる陣を合わせれば発動する」
スタニスラフが開いて見せた右手には、赤いインクで術印が記されていた。
「ずいぶんややこしいんですね」
「中庭にあるものだからね。だれでも近づける分、宮殿内にあるものより複雑に作られているんだろう」
テーブルをどかしたあとの暗闇の中には、石造りの長い階段がどこまでも続いていた。
古い石組みの段、入り口近くに息づく深い苔。湿った冷たい空気が頬を撫で、黴と水の匂いが鼻孔に満ちた。
――自分の運命を変える道が、この暗闇の先に続いている。
不意に実感した現実に、エメラルダは一瞬、息ができないような心地がした。
失敗したら待つのは破滅だ。まず母を助けることができず、一年も経たずに永遠の別れとなる。それどころか自分が動いたせいで、兄やヴェロニカやパトリクまで倒れることになるかもしれない。犠牲者が母一人だけではない、より最悪の未来を招いてしまうかもしれない。
だが何もしなかったら、やはり破滅が待っているのだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。やればできる。あなたは天才だもの……たぶん。……きっと、うまくいく」
「メリー? どうかした?」
エメラルダは、言い聞かせるように小さく呟いて無理やり息を吸い込んだ。
スタニスラフからの気づかわしげな目線にもただ首を振って返事をし、機械的に足に力を込めて、一歩踏み出した。
一段、また一段。階段を下りるにつれて、嗅ぎなれない空気も鼻になじんで、いつもどおりの呼吸を取り戻していった。
「ほんとうに平気なの?」
「ええ。なんでもありませんわ、お兄さま」
「……そう」
ランタンを持つパトリクを先頭に、一行は地下遺構を進んでいった。
古い時代のランプがところどころまだ活きており、黄金の明かりが壁に掘られた古い文字を照らしている。地面は舗装されず剥き出しのままで、天井から染み出した水が滴り落ちて、ぬかるみをいくつか作っていた。
「一昨日の雨ですかね。この分では大雨のあとには通れそうもない」
「そうだね。土を煉瓦に焼成する錬金術は二千年前には発見されていたはずだから、何か意味があってこのままなんだろう」
「何かの意味……隠し財宝とか?」
「さて。しかしこんなところに埋められてもね」
「落ち延びている最中に財宝なんか掘ってられませんね」
少年たちの会話をよそに、エメラルダは、自分の足元をヴェロニカが凝視していることに気が付いていた。ほんのわずかなふらつきも決して見逃さないとばかりに、目を光らせている。若干怖い。
腐っても姫である。大理石や分厚い絨毯以外だと、せいぜい庭園の芝生の上くらいしか歩いたことがないことをヴェロニカも知っているのだ。謎の緊張を感じつつも、何も気づいていないふりをして歩を進めていると、ふいにひょいと抱き上げられた。
「うえっパトリクさま!?」
「足元が悪いですから、お気をつけて。あと敬称は不要ですよ、姫」
パトリクは軽々とエメラルダを抱きかかえて、ニッコリと笑みを浮かべた。
(この方、まんがの中ではもっとピリピリして、こわかったとおもうのだけど……。こんなほがらかなせいかくがああなってしまうほど、エメラルダ姫にひどい目にあわされたということね)
エメラルダは男前な顔が近すぎて冷や汗を流しつつそう考えた。
女は淑やかに、一歩下がって男を立てよという風潮のあるこの国では、身分が高くとも男性に恭しく接する女性は多い。その方が評判に良いからだ。しかし本来は、格上の者が格下の者に敬称をつけるのはマナーに反している。……反しているのだが、漫画の中では自分がこの人の主君を奪って人生を狂わせたかと思うと、罪悪感のあまりつい、様を付けておもねってしまうのだ。
(れいせいになるのよエメラルダ。わたしはまだ何もしていない! いやっ、すでに前科はありますけれども、この方には何もしていませんわ! ……まだ!)
いくつかのやらかしが瞬時に脳内をよぎり、エメラルダはパトリクの腕の中で身を固くした。
「パトリク。そういうことは兄のぼくがやるべきだろう。メリー、おいで」
「ボルドジフ卿。殿下の侍従とはいえ男性の分際で、姫様の御身に触れるなど無礼ですわ。さ、姫様こちらへ」
「わっ、わたしじぶんで歩けますの! おろしてくださいな、パトリクさ、パッ、パッーーリック!」
「リック?」
――完全に口が滑った。エメラルダは地下から見えようもない空を仰いだ。
敬称を外すんだったと言い直してから、ではなんと呼べばいいのか決めかねているうちに、勢い余ってなにか口走ってしまった。これではまるで愛称である。敬称をつけなくて良いとは言ったが、なれなれしくあだ名で呼ばれるとまでは思わなかっただろう。
パトリクは一瞬ぽかんと口を開けてから、大きな笑い声をあげた。スタニスラフも珍しく、声を上げて笑った。
遺構に溜まった古い空気を追い出すような、晴れ晴れとした笑い声だった。
「まっまちがえました! なぜか口からとび出てしまって、しっ、しつれいを」
「いえいえ、どうぞリックとお呼びください、姫。正直に申し上げて、これまでに呼ばれたどんなあだ名より気に入りました」
パトリクはエメラルダを抱えたまま満面の笑みで、スタニスラフも機嫌がよさそうに「よかったじゃないか。パティー坊や」とほほえんだ。
「パティー坊や?」
「パトリクはボルドジフ家の末っ子でね。伯爵夫妻にとっては遅くにできた子で、兄姉にとっては年の離れた弟ということでかわいがられていて、家中からこう呼ばれているんだ」
「嬉々として人の恥をさらさないでくださいよ殿下」
パトリクは座った目で抗議しつつ、エメラルダには「というわけでぜひリックとお呼びください」と笑顔を向けた。
「馴れ馴れしいですわ。無理やり抱き上げたうえに、愛称で呼べなど。早く姫様を放してください」
「いけませんか? こんなに落ち着いていらっしゃるのに」
「いや、落ち着いてはいないよ」
「ええ、お顔が硬直されたままですわ」
さすがに付き合いの長い二人はよくわかっている。たしかに早くおろしてほしいとは思っていた。家族以外の人とこんなに話すのも人生で初くらいのものなのに、抱っこまでされていては、コミュ障としては固まっているほかない。
「おろしてくださいな、……リ、リックさん」
若干どもりつつも懇願すると、パトリクはパッと顔をほころばせて、「さん付けも不要ですよ、姫」と恭しく地面に下ろしてくれた。
兄との会話の端々から、パトリクが自分にどうしてこんなにも好意的なのか、エメラルダにも何となく見当はついていた。ふだん、年の離れた兄と姉という絶対的な強者に囲まれているから、自分よりあからさまにひ弱な年下の存在が珍しいのだ。
(わかります、わかりますわパトリクさま、いえリックさん。お兄さまという生きものにかてる気はしませんよね。お姉さまという生きものも、ヴェロニカをイメージしてみれば、やっぱりかてる気はしませんもの……)
内心でパトリクに共感しつつ、右手をスタニスラフ、左手をヴェロニカにつながれて歩いていると、ふと人の気配がした。
靴裏が地面を蹴る音、車輪が煉瓦を転がる音、溌溂とした呼び込みの声。――往来だ。
「町が、あたまの上にありますわ」
エメラルダが呟くと、一行は頭上を見上げた。
「なにも聞こえませんが、姫には聞こえるのですか?」
「姫様は特別なお方ですもの。凡人には聞き取れぬ些末な音まで拾い上げるお耳をお持ちなのです」
「えっ!? 何それ!?」
もしや耳までヤバいスペックなのか!? 焦って左上を見上げてもほほえみが返ってくるだけで、右上を見上げても「ああ、もうそんな場所にきたんだね。じゃあもうじき出口かな」と涼しい顔をしているだけだった。
「西側の城下町、ハンザに出るらしい」
「また微妙なところですね」
「落ちぶれるための通路だからね。わざと外れた場所に出るようにしているんだろう。今後何百年経っても発展しないような湿地帯を選んでまで」
「しっちたい……もしかして」
妹の呟きに、スタニスラフは頷いた。
「そう。ティルベ河のほとり。支流を渡ればスピルティカだ」
エメラルダには乗り越えるべき欠点がいくつかあります。
人の言ったことをそのまま受け止めてしまうところ、理想主義なところは今後成長していきます。
使用人にもやたらと腰が低すぎるふるまいにも原因があります。
最終的にはタフで雄々しく堂々としたゴリラになってもらいます!