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第6話 お兄さまお願い!(2)

 この世で唯一人、スタニスラフは己の妹の凶悪さに気がついていた。おしとやかで無垢なお姫さまの仮面の下に、他者の命を塵のように軽んじる冷酷さと、漆黒の意思が蠢いていることを。

 彼がエメラルダ姫に違和感を抱いたのは、まだ姫が幼い時分のこと。施しを乞う貧民を無視して、傷ついた小鳥のほうを介抱するのを見たときだ。

 助けを求める自国の民には目もくれず、大切そうに小鳥を抱えながら「丁重にお帰り願いなさいね」と衛兵に告げる姿を見て、スタニスラフは薄ら寒い恐怖を覚えた。

 成長するにつれて、姫の酷薄さは彼の目には明らかとなっていった。エメラルダ姫が最高権力を狙っていると感づいた彼は、残酷な妹が権力を持つくらいなら、いっそ兄である自分が手に掛けようとして――はかなくも破れたのだ。

 ここまで思い出して、エメラルダの背筋を冷たい汗が伝った。

 ……わたし、お兄さまの前で同じことやってたわ、と。

 あれは一年ほど前だったか。その日、エメラルダは自室で兄から絵本を読んでもらっていた。その頃はそれなりに仲のよい兄妹だったのだ。

 ふと、窓の外から少し慌ただしいような気配がして、二人して出窓から階下を見下ろすと、施しを求める貧民の男が、双魚宮の西門を訪れていた。

 双魚宮は王宮内でも奥まった場所にあるが、宮殿内には公的施設も多いため、大通りに限っては一般市民が往来することもある。この西門は大通りの終着点に面しているため、警備の目をくぐり抜けてこのような嘆願に訪れる者はしばしばあった。

「お願いします、妻のお乳がでなくて……どうかお慈悲をお恵みくだせえ!」

「南門の行政府に申し出ろ! ここは嘆願所ではなく王族の方々がお疲れを癒やす場所だ。スピルティカでは炊き出しも行っているだろうが」

「あんなんじゃ到底足らねえよ! お姫さまの宝飾品をちょっと分けてくれるだけでいいんだ! どっかの母親にはくれていたじゃねえか、真珠と黄金の豪華なやつをよお!」

「ぬけぬけと厚かましいことを言うな!」

 エメラルダの胸中に鋭い痛みが走った。あの過ちのことを指しているのだとすぐにわかったからだ。男を留める衛兵は、偶然にもあの日と同じ人だった。

(……わたしがいちどやったことは、すぐに広がってしまうんだわ)

「メリー?」

 エメラルダは申し訳なさに耐えきれず、不思議そうに尋ねる兄を残して部屋を飛び出し、西門へ向かった。

 こちらに背を向けていた衛兵より先に、男が姫の姿を認めた。

「ああっこりゃあエメラルダ姫様! どうかお慈悲を!」

「なっ……姫様!? なぜ出てきたのです!」

 喜色満面の男と、咎めるように睨む衛兵に迎えられて、エメラルダは悲しかった。

 また同じ過ちを犯すのかと失望させていることも、民からの期待に応えられないことも、……母子の死について何かを知っていそうな男を野放しにすることも。

「なにも、さしあげるものはございません。おこまりなら金牛宮でしんせいをなさいまし」

「何!? あの母親には髪飾りをくれてやったのに、おれにはなにもねえってのか!?」

「無礼者が! これ以上言うなら獄につなぐぞ!」

 エメラルダは悲しかった。

 よかれと思ってやったことが、人の死を招き、人の欲望を掻き立てただけで、いい結果など一つも招かなかったことが。最初の一度でこれならば、この先もきっと、自分はそんな失敗を繰り返すのだろうと思えた。

 うつむくと、植え込みのもとで小さく動くものが見えた。小さなルリツグミがよたよたと歩いているところだった。

 少し近づいてみたら、逃げ出そうとバタバタ羽を動かしたものの、飛べる様子がない。羽になにか異常があるようだった。

 このまま地面にいては、宮殿内の猫に早晩食べられてしまうだろう。

(あなたくらいなら、たすけられるかもしれないわね。こわいことはしませんわ、わたしのおへやにいらっしゃい)

 エメラルダが小さな手ですくい上げると、ツグミは観念したようにおとなしくなった。

 手の中で、小さな心臓が鼓動を刻んでいるのがわかった。力を込めればすぐに潰れてしまう、かよわい小さな生き物のぬくもりが、エメラルダの冷えた手をじんわり温かくした。

「……ていちょうにおかえりいただいて」

 言外に、獄につなぐことは無用と言い残して、エメラルダは邸内にもどった。

 その時、なんとも言いがたい表情で自分を見る兄を、たしかに目にしたのだ。

(ま、まずいですわ。同じばめんを見ているということは、お兄さまはすでにわたしのことを『凶悪な妹』とおもっていらっしゃるということですわ……!)

 たしかに一年ほど前から、スタニスラフが親しげにエメラルダの部屋に寄ることはなくなった。勉学が忙しくなったからだと思い込んでいたが、まさか「自分の妹、性格悪すぎでは?」と思われて、避けられていたからだとは……。

 エメラルダは膝を付きたくなったが、なんとかこらえた。

 自分が兄に嫌われているとしても、人命には関係がない。ただちょっと、しょっぱいものがあるだけ。それだけですの……。

「……しょくちゅうどくではございません。川の水がげんいんですの」

 気持ちは立ち直っていないが、本題を進めた。

「なぜそう言い切れる?」

罹患者(りかんしゃ)には、みな赤いはんてんがうきでているとほうこくがありました。これが寄生虫のしんにゅうけいろではないかとおもったのです。ティルベ河のどこかに体をつけると、そこから体内にしんにゅうするのではないか、と」

 エメラルダは開き直って、凄腕の密偵を雇っている設定でいくことにした。これなら証拠を求められたり、報告者に会わせろと言われたりしても、「手の内をそこまで明かすわけにはいきませんわ、フフ」とかミステリアスに言えばごまかせそうだからである。

「……なるほど」

 口元に手を当てて黙り込んだスタニスラフは、その明晰な頭脳を働かせているらしかった。

 その間、妹は(それにしてもお兄さまのがんめんよくできてますわね。まあわたしきらわれていますけど……)と至極どうでもいいことを考えていた。

「……たしかにそれは見過ごせないな。そして原因と思われる寄生虫を採取し、患者の体内のものと比較するため、現地に赴く必要がある」

「でっ殿下! 信じるのですか!? 姫様はまだ五歳ですよ!?」

「六歳ですわパトリク様」

 今度は比較的ひかえめに訂正することができた。

「白羊宮の医師団にも報告をしなくては」

「それはできませんの、お兄さま」

「なぜ?」

「お母さまのちかくに、命をねらうものがいるからです」

「! それは確か?」

 エメラルダが頷くと、スタニスラフは再び口元に手を当てた。

「死に至る病の感染経路がどこにでもある水で、それが漏れてしまっては悪用されかねないということか」

「ええ」

(ろくに説明していないのに、もうりかいしましたわ。こわ……)と兄の頭のよさに内心でびびりつつ、エメラルダは真面目な顔でうなずいた。

「えーと殿下。ものすごい速さで会話が進んでいって、正直ついて行けていませんが……姫様のおっしゃることを真に受けるのですか? まだ五……六歳でいらっしゃるのですよ。こんな小さな方が病の原因を、本当に自力で突き止めたと?」

 パトリク少年は再度、再考を促した。エメラルダの後ろに、第一王位継承者を害する大人がいるのではないかと疑っているのだ。真面目で危機意識が強く、頭の回転もよいらしい。

(さいきょうのきしになる人というのは、少年のころからりっぱですのね。なるほどですわ)

 姫はやはり関係のないところで感心していた。

 補佐の意見を聞いたスタニスラフは、ふと目を伏せてほほえんだ。

「パトリク、きみの懸念ももっともだ。けどね、この子の頭脳の出来はぼくが一番知っている。……本当に妹なのか疑わしいくらい、優秀なんだ」

 どこか諦念の滲んだ声で、スタニスラフはそう呟いた。

 ――ちなみにエメラルダは、スタニスラフの実の妹ではない。例の本に書いてあった。

 全くもってついでで言うことではないが、人類を絶滅させかけて爆死することに比べれば、まあささいなことである。

 アナスタシアが姫を産み落とした直後。王妃に懸想していた伯爵の手引によって、姫君とそこらへんから拾ってきた孤児がすり替えられたのだ。エメラルダの実の親については最後まで何のヒントもなく、だれが親なのか全くわからなかった。

 家族と血が繋がっていないなど思いもしなかったが、言われてみればたしかに、自分だけ顔の系統が違っていた。

 ストランド王家は、冬を想起させる玲瓏とした美貌と、朝もやのような青い瞳で知られている。国王ヴラディスラフは氷のような美形で、嫁いだ身であるアナスタシアも、祖母が王族であったためか、王家の特徴の出た涼し気な金髪碧眼美人である。スタニスラフの顔立ちは母親似で、繊細な美貌にブルーグレイの瞳という、両親のいいとこどりであった。

 一方のエメラルダは、正真正銘美少女ではあるものの、垂れ目がちの顔立ちは甘く、瞳の色は澄んだ海のような翠である。淡い金のくせ毛は王妃と同じだが、完全にたまたまだろう。(キツネの一家にタヌキが混ざったみたいですわ……)と、鏡を見て思ったものだ。

 本物がいるならば、この座を明け渡すつもりである。だが、それは今ではない。

 だって、一貴族の手によって、王家の姫が孤児とすり替えられていたなんて、国を揺るがす大事件である。そんなことを告げたら最後、現状貧民しか被害にあっていない寄生虫のことなど、脇に放っておかれてしまうに違いないのだ。

(ごめんなさいね、ロゼマリアさま。ぜったいにたすけだして、姫の位をおかえししますからね。もうちょっとがまんしてくださいましね)

 例の本によると、伯爵家にさらわれた本物の姫君は、ヴラディスラフの特徴が色濃かったため伯爵を失望させ、まだ幼児期のうちに孤児院へと放逐される。それから十年余りを孤児院で暮らすのだが、冷たい伯爵家よりずっと平穏な暮らしを送っていたと書かれていた。

 十四の年にエメラルダ姫の手によって国中の孤児院が焼き討ちされてから、彼女の苦難が幕を開けるのだが、それまでまだ時間はある。というか、当のエメラルダが(孤児院を焼くなんて頭がおかしいのかしら? エメラルダとかいう人は)と思っているので、当面は平和なはずである。

「お兄さまったら、およしになって。エメラルダはお兄さまの妹ですわ! ええ、しょうしんしょうめい!」

 ということで、エメラルダは絶賛『無害な妹企画』を遂行することにした。

 もはや地に落ちた好感度の回復は叶わないまでも、「こいつ思ったほどやばいやつじゃないな」くらいには思ってもらわなくてはならないのだ。

「王をつぐものとしてどりょくされているのにそれを見せない、ほこりたかいお兄さまをそんけいしています」

 ゴトッと硬い音がした。スタニスラフが手に持ったペンを床に落としたのだ。

「メ、メリー? 急にどうしたの?」

 青い瞳は常になくパチパチとまばたきをしている。エメラルダは、渾身の好意を込めに込め、気合を入れた笑顔を浮かべた。

「いつもわたしやお母さまよりはやおきして王宮内を走っていることも、おべんきょうの間にけんのけいこをしていることも、おそくまでおべんきょうされていることも知っています。なげだしたい日だってあったはずですわ。でもそんなところをちっとも見せなくて、いつもへいきそうなかおをされているお兄さまは本当にすごいです。わたしにはできません」

「えっあっ、あ、ありがとう」

「お兄さまが王となるストランドはしあわせですわ。民のためにどこまでもがんばれる人ですもの。お兄さまより王にふさわしい人など、ほかにいません」

 スタニスラフは落としたペンを拾うこともせず、ただパチパチとまばたきを繰り返していた。ややあって、窓の方を向いて顔を手で覆った。

「……一つ、聞かせてほしいんだけど」

「なんなりと」

「どうして、病のことをぼくに教えたの? きみならだれにも知られずに原因を調査して、成果を独り占めできたはずだ」

 エメラルダは一瞬、うっかりして笑顔を落っことしてしまった。

 この兄は自分の妹のことをなんだと思っているのかという大いなる疑問が湧いた。まだ六歳だぞ? たとえ超絶有能な密偵が実在したとしても、主が幼児では俄然無理な話である。

 スタニスラフはこちらに背を向けているので、表情はわからない。

 だがエメラルダは、その少年らしい薄い背中を見て――急に(いたわ)しく思えた。

 この完璧な兄にだって、王位が重くないわけがないのだ。ずっと一人でがんばっていたのだろう。

 それなら、少しはその荷を分けてもらい、背負ってあげたい。

 今のところはお互いたったひとりの、兄妹なのだから。

「お兄さまといっしょに、やりたかったからです」

 澄んだ声は、決して大きくはなかったが、少年たちが耳を澄ませる書斎には十分だった。

「お兄さまといっしょなら、立ち向かえるとおもったからです。次の王とその臣として、さいしょのしごとを、はじめたかったのです」

 返答はすぐには来なかった。しばらくして聞こえてきた声は、少し掠れていた。

「……きみは、ぼくと王位を取り合う気なのかと思っていた」

「なんですと!?」

 驚きのあまり、おじさまのような口調になってしまった。それがおかしかったのか、スタニスラフは顔を背けたまま、かすかに笑い声をこぼした。

「そっそっそんなこと、かんがえたこともございませんわ! 王位はお兄さまがつぐもの。エメラルダはお兄さまの臣下として、すえながく仕えていくしょぞんです!」

「ふふっ……末永くって、メリー、結婚しないつもり?」

「ふえ!? け、けっこん!?」

 急に真っ赤になって慌てはじめた妹に、とうとう我慢できなくなったらしい。スタニスラフは声を上げて笑い出した。目元の涙をぬぐうと、やっとエメラルダに向き直った。

「ありがとう、来てくれて。有意義な時間だったよ」

「そ、それはなによりですわ。お兄さまの気がまぎれたならうれしいです。――それで、スピルティカにつれて行っていただくはなしは……」

 エメラルダが上目がちに見上げると、窓辺から差し込む陽光が、淡いグレーブラウンの髪を透かしていた。朝もやのような瞳は、部屋に入ってから見たときよりずっと、輝いているように見えた。

 スタニスラフは眩しそうに目を細めると、年相応の少年らしい、どこか挑戦的な笑みを浮かべた。

「行こう。でも、絶対にぼくたちから離れないでね」


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