第5話 お兄さまお願い!(1)
双魚宮は古代プロテア風の建築様式で、壮麗な中庭を取り囲んで建つ、ドーナツ型の宮殿である。公国時代には祭祀施設として使用されていたが、時代が下るにつれて祭祀の重要性が減り、代わりに王族の居住空間として使われるようになった。
第一王子の居室はエメラルダの部屋と同じ階にある。が、中庭を回った反対側だったし、特に用もなかったので、これまで訪れたことはなかった。
マホガニーの扉をノックしてしばらく。「はい」という折り目正しい声とともに開けてくれたのは、赤毛の少年だった。
年は兄と同じくらい。赤銅色の癖のある髪と、厳しい鍛錬のあとが見て取れる体つき、真面目そうな凛々しい顔立ち。灰色の瞳は少し釣り目ぎみで、いまは驚きに見開かれてエメラルダを映しこんでいた。
……その顔には見覚えがあった。もちろん引きこもりの姫のお知り合いではない。例の本に出てきたのだ。
絵で見たよりずいぶん幼いが、この特徴的な赤い癖毛とグレーの釣り目は間違いない。
パトリク・ボルドジフ。エメラルダ姫の悪政に立ち向かうレジスタンスの頭領にして、ストランド最強の騎士。……の、少年時代の姿だった。
(そ、そういえば『姫の陰謀によって敬愛する主君を失い、王族騎士の地位を捨ててレジスタンスになった』と、かたっていましたわ……あれってもしかしてお兄さまのことでしたの!?)
例の本のなかでは、エメラルダ姫の武力を上回る数少ない人間であり、何度も姫をあと一歩のところまで追い詰めていた。が、頭脳戦ではエメラルダ姫が圧勝しており、何重にも罠と逃げ道を用意されていつも逃げられてしまっていた。
長い旅のなかで、強い決断力とひらめきを持つ主人公や、姫以上の頭脳の持ち主などの仲間たちと出会い、絆を結ぶことで、やっと姫に刃を届かせたのだ。
それでも最終決戦では、何人もの仲間と、自身の片目と片腕を失った。おびただしい血を流しながらも、姫から放たれる触手を懸命にさばき――ちなみに当たれば即死の触手であった。どうして自分の身体からそんなものが出てくることになるのかは考えたくはないが――主人公がトドメを与えるのを援護した。
パトリクの尽力もあって、とうとう主人公は、姫を異空間の裂け目に落とすことができた。
異空間ではこの世界の物は異物であり、落ちたら最後、対消滅を起こして爆発四散する法則である。
爆風が止み、静寂が戻った世界で、彼は一筋の涙を流した。主君が死んでからずっと流せなかった涙を、やっと流せたのだ。
……そんな相手と突然エンカウントしてしまったコミュ障の動揺がおわかりだろうか?
エメラルダは内心で(ヒッ、ひえええェェ~!)と情けない悲鳴を上げていたが、そこは腐っても一の姫。脱兎の勢いで逃げ出すのをかろうじてこらえて、「お、お兄さまはおへやにいらっしゃる?」と、ひきつった笑顔で品よく首を傾げてみせた。
「あっ、はい。こちらへ」
少年はすぐ我に返り、丁寧に先導してくれた。
部屋の主の許可なく来客を案内する音が聞こえたのだろう、すぐ先の部屋から「パトリク、だれが来たんだ?」といぶかしげな声が飛んだ。
「エメラルダ姫です」
返答とほぼ同時に、デスクルームに姿を現した妹の姿を見て、スタニスラフは目を丸くした。
「どうしたのメリー。部屋を訪ねてくるなんて初めてじゃないか。今朝目が覚めたばかりなのに、もう歩いて良いの?」
ペンを持っているところを見ると、兄は書きものをしていたらしかった。エメラルダは眉を下げて「おじゃまをしてしまい、もうしわけありません」と謝った。
「すっかり元気です。たくさんねむりましたもの」
「本当? メリーが体調を崩すと、母上がもう大変なんだ。無理だけはやめてね」
スタニスラフは面倒くさそうにため息をついた。今朝方の暴れ馬と化していた母を思い返しても、自分が気絶していたこの七日間の苦労は察するにあまりあった。
とはいえ、今日の兄はどこか倦んだ雰囲気がある。もしかしたらいつも自室ではこれくらい気力がないのかもしれないが、一年ほど前までは溌溂としたところがもっとあったように思う。
「そのお母さまのことで、お兄さまのお力をおかりしたいのです」
「母上のことなら、何であってもメリーのほうが適任だと思うけど……」
「そんなことございません! お兄さまでなければできないことがあるのです!」
「うわ。メリー、大きな声出せたんだ」
喋ることすら多くはない妹が力説する姿に、スタニスラフは面食らったらしい。まるで関係のないところに着眼されて、エメラルダは恥ずかしくなった。
「わ、わたしだってちゃんと話せますのよ? でも、しゅくじょとしてはしたなかったですね。きをつけます」
「そんなことはないよ。言ったでしょ? これまでのように、空虚な人形として生きていくよりずっといいって」
スタニスラフの言に、背後から呆れたようなため息が聞こえた。
「スタン殿下、妹に向かって人形はないでしょう。いつも言っていますが皮肉は相手を選ぶべきです。姫はまだ五歳ですよ」
臣下らしく直立したまま、兄妹の会話を聞いていたパトリクのものだった。
「六歳ですわパトリクさま! ……あっ!」
気を付けると言ったばかりなのに、気づけば大きな声で否定の言葉が飛び出てしまっていた。
しかも、ゆくゆくは最強の騎士となって自分を殺す少年に対してだ。
――悪印象を持たれたら、死。それも爆死。
脳裏にそんな可能性がよぎり、エメラルダは両手でガバッと口を押さえた。そんなことをしても発言は取り消せないのだが……。
パトリクは「失礼いたしました、姫様」と頭を下げたものの、エメラルダを見上げる顔には、どこかほほえましそうな笑みが含まれていた。
兄も、ふっと吐息のような笑みを漏らした。
「聞いていた話とずいぶん違うと思っているだろう? ぼくも驚いている。七日間の眠りから目覚めたら、あの冷たいビスクドールに血が通っていたんだ。宮の侍女たちは騒然としているよ。母上は、エメラルダであれば何でもいいから気にしていないけど」
「たしかに、喋っているのを見たことがないほど大人しい方だという評価からすると、実際は違いますね。ですが、おれの実家の姉たちに比べれば全然かわいらしいものです。あの人たちの恐ろしさとかしましさと来たら……」
「パトリクほどからかい甲斐のある弟もいないだろうね、姉君方からすれば」
「やめてください殿下」
兄とパトリク少年は階級差があるはずだが、気の知れた仲らしかった。お互いに敬意を持ちながらも、打ち解けた雰囲気が伝わってくる。
エメラルダはしばらく頬を染めていたが――年上のお兄さんにかわいらしいと言われて満更でもなかったのだ――、本題を思い出してぶんぶんと頭を振った。
「お兄さまにおねがいがあります。エメラルダを宮からつれだしてほしいのです」
「無理だよ?」
「きゃっかするのが早すぎます!」
妹のお願いを聞いた兄の決断は速攻だった。
「お兄さまたちはこっそり町におりてらっしゃるくせに! わたしだって行きたいところくらいありますの!」
「ぼくらとメリーでは年齢が違うでしょう。それにメリーみたいな目立つ子、街に下りたら誘拐してほしいと言っているようなものだよ。そういう輩に襲われたらどうするの?」
(やったことはないけどげきたいできる気がします)と思ったが、口に出したら「ふざけているなら帰って」と言われそうなのでぐっと我慢した。
「メリーが希望すれば手に入らないものはないのだから、わざわざ城から出る必要はないんだよ? 流行のドレスでも、庶民に人気の甘味でも。何なら武器や毒薬や暗殺者だって、選び放題なのに」
「わたしをなんだと思っていらっしゃるのです! どくやあんさつしゃなんてほしがりません!」
「武器はちょっとほしいんだ?」
「うっ……!」
エメラルダが詰まると、スタニスラフの目がおかしそうに細められた。
この兄、一筋縄ではいかない人間であるということは、例の本で書かれていた。これまではただの優しい自慢の兄だと思っていたが、それはエメラルダがまだ幼く、滅多に話さなかったからに過ぎないようだ。相対してみるとたしかに、ちょっと癖がある。
「ちがうのです。たしかにわたしはあるものがほしくて町におりたいのですが、それはうりものではないのです」
「へえ? 一応聞くけど、どこに行きたいの?」
「スピルティカ地区と、ティルベ河畔です」
二人の少年が息をのむ音が聞こえた。
「エメラルダ姫、いったいだれがスピルティカの名などお耳に入れたのですか?」
警戒をこめた表情でパトリクが尋ねた。
たしかに、幼い子供が行きたがるように、危険な地区のことを楽し気な場所として教えた者がいるならば責めるに値する。だがそんな者はいないので安心してほしい。
「だれにきいたわけでもありません。ちずをみて知ったのです」
パトリクの表情はますます硬くなった。今度は、不謹慎な幼児を咎める目をしている。
「スピルティカがどんな場所か、本当にご存じですか? 姫様が見て楽しいようなものは何一つございませんよ」
「……たしかに、たのしいというのはちがいますわね。よろこびというほうがただしいですわ。わたしは、ある寄生虫をさがしに行きたいのです」
「寄生虫?」
静観していたスタニスラフが身を起こした。
先程までは面倒くさそうに細められていたブルーグレイの瞳には、怜悧な光が宿っていた。
「それは、人に害のあるもの?」
「ございます。らいねんのなつ、その寄生虫がげんいんで、おおぜいの人がなくなります」
「……ずいぶん自信があるんだね。いくらきみといえど、そんなことは断言できないだろう?」
試すように、探るように見つめる青い瞳を、エメラルダは見つめ返した。
兄が信じてくれるかは、この交渉にかかっている。タイムリミットが迫っている以上、頭脳明晰で頼もしい兄の助力はなんとしてもほしかった。
証拠を出せと言われたら出せない。疫病が流行って母が死ぬいきさつなど、エメラルダの頭のなかにしかないからだ。
だが、兄ならば途中まで説明すればきっと同じ結論にたどり着くはずだと信じていた。そうなれば証拠など必要はない。……それまで、ハッタリを効かせるのだ。
「この二年、スピルティカの民のあいだで、おなかのやまいがふえているのです。つよいふくつうから、ふくぶが膨満して、死にいたるやまい。――お兄さまのもとにも、ほうこくが上がっているとおもいますが」
スタニスラフの眉がぴくりと動いた。今の言葉は、エメラルダに個人の密偵があることを示唆しているからだ。
……もちろん、エメラルダにそんなものはない。部屋から出ないし人とも喋らない。そもそもまだ六歳児である。
「……ああ。たしかに、小耳にはさんだ。しかし同時に、食中毒だとも報告されているよ」
そして頷いた兄も、密偵を抱えていることを認めたようなものだった。
第一王位継承者という立派な身分だが、こちらもまだ十一歳。密偵など雇っているのはおかしいのだが、エメラルダには「あの兄なら持っているだろう」と確信があった。
なぜなら例の本で、エメラルダ姫に最初の壁として立ちふさがるのが、他ならぬこの兄だからだ。