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第3話 エメラルダという姫

 食欲を満たし、湯浴みでさっぱりとしたエメラルダは、肉体的には大変満足してベッドに横たわっていた。だが翠の瞳は、睨むようにじっと天蓋を見上げていた。

 湯番の手によって身体を洗われている間も、ガーデニアの香油で丁寧に髪をケアされている間も、シルクの寝間着を着せられている間も、考えているのは例の漫画のことだった。

 なまじ優秀な兄を見て育ったので、これまで自分のことは平凡な出来だと思っていたが、認識を改めねばならない。

「わたしって、あたまがよかったんですわね……」

 他人が聞けばやべえやつとしか思われない一言を呟いて、エメラルダはまた深くため息をついた。

『救世の乙女、暁の星』。もう名前を思い出したくないので例の本と呼ぶが、あれを読む限り、自分は兄を暗殺し、父を廃人にして実権を握った上で、表向きは「白薔薇の聖女」と呼ばれる心優しい姫君として、ストランドに君臨するらしい。

 そして自国民の殲滅というとんでもないことを開始し、皇国や帝国という大国にも魔手を伸ばしていくのだ。

 そんな凶悪な「エメラルダ姫」が目的としているのは、人類の救済。

 自らの振るう大鎌によってもたらされる、死という許しである。

 ……何を言っているかわからないと思う。例の本を読んでいなければ、エメラルダにも説明は不可能だった。


 エメラルダ姫は、たとえるなら「憐憫の悪」である。

 凶悪極まりないのだが、そこに悪意はまるでない。ありあまる同情や慈悲の心を以って、ふつうに生きている人に対して「かわいそうだから殺してあげますわね」という、いらなすぎるおせっかいを焼きまくるのだ。

 そうなるきっかけは、七歳の時に訪れるという母の死であった。

 エメラルダ姫が七歳の夏に、王都ナハトで疫病が流行った。

 最初の罹患者は貧民街の住民だった。

 まず身体に赤い斑点が浮かび、続いて耐え難い腹痛が起きる。そのまま快癒することもあったが、腹部が膨満すれば例外なく死んだ。そうなったら医術はなんの役にも立たなかった。

 犠牲者が貧民街の中で済んでいるうちは、例年にない猛暑による食中毒として黙殺された。

 国が対応に乗り出したのは、王都全体に広がってからだ。後手に回りつつもようやく献体を解剖した結果、病の原因は寄生虫であることが判明した。

 腹部の主要な臓器にはおびただしく虫が湧き、見るからに器官としての役目を停止していた。体内で増えた微小な虫を駆除することは、現代医学では不可能だった。

 病に貴賤はない。次第に裕福な商人や騎士階級にも罹患者が増え、貴族でもかかる者が出始めた。

 虫はどこからやってきたのか? 何に触れたら寄生するのか?

 金牛宮の役人は連日議論を重ね、王都の地理と発症者の分布を突き合わせて、ある推論に達した。

 原因は飲み水ではないか? と。

 最初に病の発生した貧民街では、死者は例外なくクルコシュカ山麓の共同墓地に土葬している。その死体で増殖した虫が、雨によって王都の生活用水に侵襲した。金牛宮はこう仮説を打ち出した。

 なるほど、たしかに王都ではクルコシュカから湧き出た川の水を使用していた。もとより、寄生虫の存在はほんの数十年前に明らかにされたばかりで、詳しいことはわかっていない。

 もっともらしい仮説を受けて、何らかの行動を迫られていた元老院は、山麓の共同墓地をさっそく焼き払った。

 貧民街の民の声は、ここでも黙殺された。

 新たな感染を防ぐため、宮殿ではどんな食物であっても必ず加熱するようになった。加熱していないもの――生野菜のサラダやフルーツ、冷たい水は、王族の食卓には上らなくなった。

 そうだというのに、ストランドで最も尊い女性、アナスタシアは病に倒れた。

 王妃は汚染された水を口にしていた。大好物のライチが献上されたことを聞き、口にしてはいけないと知りながらも、我慢できずに食べてしまったのだ。そのライチを冷やしていた氷が、クルコシュカの水を凍らせたものだった。

 ライチを供した侍女は捕縛された。彼女は厳しい拷問の末に、国王の寵愛を賜るために、王妃の座を空席にしたかったのだと白状した。

 侍女は即日で絞首刑となったが、王妃もまた、夏の終りを待たずにこの世を去った。

 唯一の后を失った王は、貧民街の取り壊しを決定した。

 決定の二日後には軍を動員して住民を家屋から追い出し、さらにその二日後には自身の錬金術を以って、粗末な家々を跡形もなく焼き尽くした。

 たったの四日で全てを失った住民たちは、王都からも追い出され、散り散りに離散していった。

 これが「大火の夏」と呼ばれる事件である。

 さて、一連の騒動を見ていたエメラルダ姫は、その異常に優秀な頭脳を以って「犯人は別にいる」ということに気づいていた。

 まず、この寄生虫は経口で感染するものではないこと。ライチを口にする前から、母のうなじには赤い斑点が出ていたこと。

 しかし幼い淑女は、法を司る天秤宮の決定に異を唱えることはなく、ただ二人の罪なき人間が死んだことを深く悲しみ、――そして、ひとつの真理を得た。

 力なき者は圧倒的な暴力の前に粉砕される。

 それは悲しいことだけれども、力なき者は無垢である。たとえ敗れ去ろうとも、力なき者こそが正義であり、幸福である。

 一方で、力ある者は汚く、邪悪で、不幸である。

 この世の全ての人間が「力なき者」になれば、だれもが幸せになれる。

 エメラルダ姫は気が付いていた。自分に強大な力があることを。自分だけは「力なき者」になれないということを。

 実際に彼女は破戒的に頭がよく、武力も常人離れしていた。

 武器であれば初めて手にした時から手になじみ、自分の身体のように扱えた。どんな難しい毒薬の調合も成功した。錬金術や魔術を用いれば、その頭脳と魔力量を用いて、凶悪な結果を残すことができた。

 自分だけは、「力ある者」としてのさだめから逃れられないと理解したエメラルダ姫は涙し、悲壮な決意をした。


 ――ならばせめてわたし以外の全てを「力なき者」にしてあげましょう。

 わたしという圧倒的な暴力を以て、粉砕してあげましょう。

 それは悲しくても、幸せなことだから。

 どれだけ抗ってもかなわずに、残酷に殺されることこそが、人間としてのあるべき姿なのだから。


 母の死からその後、才能の翼が飛び立ってしまったように、姫は凡庸な子供となった。

 七歳以前には驚異的だった頭脳はなりを潜めて、剣や弓に触れることはなくなり、錬金術や魔術への興味も失った。時折課題を間違えては、復習をしっかりするようにと教師にたしなめられた。

 一の姫の、女には過ぎた才能をひそかに恐れていた周囲は、神童も長じればただの人というのは本当だと胸をなでおろした。

 姫は、可憐でしとやかな少女としてすくすくと成長した。

 八歳、九歳、十歳……そして十一歳の時。彼女は自分の兄と父に毒を飲ませた。

 それは、兄には心臓に作用するように、父には血液に作用するように、姫が手ずから錬成した完全に新しい毒物だった。

 効果は姫の計算通りに現われた。王太子は婚約者との乗馬中に命を落とし、国王は持病が悪化して病床から起き上がれない身体となった。

 錬金術大国ストランドの医学の粋を以てしても毒の検出はかなわず、どちらも神の気まぐれによる不運として片付けられた。母を喪い、兄を喪い、唯一残った父を懸命に看病する幼い姫を疑う者など一人もいなかった。

 エメラルダ姫は王族に生まれた責任感のもと、周囲の人間の手を借りつつ、慣れない公務を必死にこなした。深夜まで及ぶ上申書の決済、数日がかりの国策協議、途切れない来客と公式行事の出席。休みが全くないというのに、姫は不満一つ漏らさなかった。

 華奢な身体で、何とか王の代わりを務めようと奮闘する姿を見て、誰もが胸を熱くした。――自分だけは、この気高く、無垢な君主をお支えしよう。彼女が王たる伴侶を得て王妃となり、その子供が王位を継ぐまで。

 エメラルダ姫は周囲の目を欺きつつ、周到に準備をしていた。

 そして、満願成就の夜。

 王宮の実権を握った彼女は、とうとう自国民の殲滅を開始した。

 はじめは、人喰いの魔物が出る辺境から。次は山間部、その次は貧しい農村地帯、その次は下級貴族の領地へ。国の外縁を埋めるように、王都から遠く、権力に声の届かない土地から、その凶悪な大鎌を振るっていった。

 エメラルダ姫には、思い描いてやまない夢があった。

 自分以外の人間を天の国に送ったあと。

 全ての人間が死に絶えた荒野で――地獄に落ちるために、自らの心臓に刃を突き立てること。

 その瞬間、姫はやっと、生まれ持った重い使命を肩から下ろすことができるのだった。


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