第1話 姫、起きる
その図書館は、いつでも夜に沈んでいる。
ランプ型の照明は壁に掛かっているものの、火の灯っている様は見たことがない。縦に長い窓から伸びる、やけにハッキリとした月明かりだけが、膨大な書庫を照らしている。
この図書館は自分にしかないものだと、何となくわかっている。
他の人間に尋ねてみたわけではない。眠っている間に現れる図書館があるなどと、ここにあるどの本にも書いていなかったから、知っているのだ。
「何をよもうかしら……」
仄暗い闇に浮かぶ、金文字の書架名を見上げながら、奥へ奥へと進んでいく。床にはえんじ色の厚い絨毯が敷かれているために靴音も立たず、ただ衣擦れだけが聞こえている。
算数、生き物、それに科学の棚はほとんど読んでしまった。今は哲学と医学の棚を読み進めているところだが、もう半分ほどしか残っていない。
別にわたしが勤勉とか秀才とかいうことではない。平凡な、どこにでもいる子供だ。
ただ夜はひたすら長く、幼子にも読める平易な文章の本ばかりだったのだ。おそらくここの蔵書は訪問者の年齢に合わせているのだろう。どこかの誰かの手によって。
一度どうしても気になって、「アトランティスってどこにしずんでいるのでしょうね?」と兄に尋ねたことがある。兄はブルーグレーの瞳を瞬かせると、「ごめん、その言葉は聞いたことがないかな」と気まずそうに言った。神童と名高い兄にしては、実に珍しいことだった。
その後のやり取りで、古代にギリシャという国はなく、プラトンという哲学者もいなければ、大西洋という海もないことを知った。図書館にある歴史と地理の知識は、わたしの生きる現実と異なっていた。ときどきは生物の本も。
だがこの場所の全てがでたらめと断じることはできなかった。
まだ六歳の自分が答え合わせできる事柄は少なかったが、算数も科学も、人体についても植物の構造についても、初等学の先生に尋ねる限りは、現実どおりのことが記されているように感じた。
歴史の記述だって、事実とは違うとわかってもなお、あまりに精緻で、具体的で、膨大で、本当のこととしか思えなかった。
乾燥した大草原の勇猛な騎馬民族、癇癪持ちで自分の跡継ぎを撲殺してしまった雷帝、英雄に色仕掛けして侵略を防いだ砂漠の女王……まるで色とりどりのまばゆい宝石のようだ。自分の生きる世界とは違うどこかの世界では、これが事実なのではないかと考えるほどに。気づけば、歴史の棚は全部読んでしまっていた。
ほのかに湿ったカビの匂いにすっかり鼻が慣れた頃、雑然とした色合いの一角にたどり着いた。
薄くて小さく、簡易な装丁の書物が集まっている。革張りの厚い背表紙が詰まっている他の書架に比べると気軽に読めそうだし、背表紙もずいぶんにぎやかだ。
書架名を見上げると、少し眉を寄せた。
「まんが?」
聞き覚えのない単語だった。
分類に画と付いているのだから絵の多い本なのだろうと推測するが、内容ではなく様式で分けられているのは珍しい。ちょうどよい高さにあった一冊を抜き取って、表紙を見た。
目に飛び込んだのは橙色だった。夕陽に染まる空を背景に、剣を構えた黒髪の少女がこちらを見つめている。
少女が身につけているのは見たことのない装束で、規則的なひだのついたスカートはなんと膝上だ。その上に風も吹いているらしく、スカートがまくれて太ももまで見えてしまっているが、彼女は全く気にしていないように、強いまなざしでわたしを見据えていた。
「救世の乙女、暁の星……」
暁というタイトルなので、この赤い空は夕暮れではなく夜明けなのだろう。
少女の後ろには、明けきらぬ西空の闇に沈むようにして、波打つ金髪の人影も描かれていた。
背を向けているので顔立ちはわからないが、馴染みのある形の黒いドレスを身に纏い、華奢な肩が覗いている。神々しい朝焼けの中、彼女の周りだけ夜に取り残されたように暗く沈んでいる様は、言いしれぬ不吉な印象を与えた。
「わたしと同じ髪……」
本を持つ右手から、なぜか、読まなくてはいけないという焦燥が這い上がってきた。
もとより、この長い夜を明かす読書を求めていたので、わたしはその場に立ったまま、ページをめくり始めた。
ストランドの王家が第二子、エメラルダ姫が昏睡から目を覚ましたのは、冬の終わりの夜明けのことだった。