表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

6

 さあ、夢を見よう。深くて温かくて、醒めなくてもいい夢を。

 彼女のいない公園。かつてそこに満たされていたはずの非日常は幻であったかのようにすっかり消え失せ、今は空っぽだ。頬に感じる風の感触も、メッキが所々剥げた動かない遊具たちも、遠くに聞こえる自動車の駆動音も、すべてが僕の心を揺さぶっていたはずなのに、今ではさっぱりと色褪せてしまっている。もうそこに、僕を満たしてくれるものはない。

 後悔の念が募る。なぜなら、この結果はすべて僕の自業自得なのだから。

 彼女と実際に約束を交わしたわけではない。けれど、僕と彼女の間にあった暗黙の約束を破ったのは僕の方だ。僕自身、日常での彼女に干渉するまいと日ごろから心に決めていたのに。

 だから、彼女は僕の前からいなくなった。けれど一人残された僕は、今でもこうして昼間の公園で待ち続けている。もしかしたら、彼女はまた帰ってくるんじゃないか。そんな根拠のない未来を期待しながら、公園の隅、ベンチの端で待ち続けている。

 それでも、当然といえばそうだが、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。次第にこうして待ち続けるのが辛くなってくる。風の冷たさが体に堪えるのだ。気づけば公園に植わっている木々はその葉のすべてを落とし、みすぼらしく頼りない姿になっていた。今は十二月。彼女が僕から離れてから、一月もの時間が経っていた。

 それから、僕が仕事をサボっていることが会社にバレるまでそう時間はかからなかった。

 僕は会社をクビになった。当然の処罰だった。働きもせずに給料を貰っていたのだから。これで、僕は正真正銘のクズに成り下がった。会社をクビになったことは、父には伝えなかった。

 会社員からクズへ肩書が変わってからも、僕は毎日公園へ通った。彼女に会えるかもしれない。今日こそは、いつものベンチで僕を待っているかもしれない。毎日毎日、ありえもしない可能性を信じては、その度に僕は現実を突きつけられた。空のベンチに腰掛けたまま、僕は俯き続ける。聞こえるのは幻聴。僕を見下し、蔑み、卑しみを込めた言葉の数々。以前はこの公園だけがそれらから逃れられる唯一の場所だったのに、今の僕に逃げ場は残されていなかった。

 自己嫌悪、自己否定。僕にはもう、何も残ってはいなかった。


 重たい雲が空を覆う。僕の周りを囲う家々はどこかいつもより華やかだ。見れば、電飾などの装飾が所々に施されている。夜になればそれを光らせるのだろう。そうか、思えば季節はクリスマスの間近だ。

 クリスマス。きっと、町の人々は年に一度のイベントをみんなで楽しむのだろう。けれど、僕は違う。僕にはそれを一緒に楽しむ人もいなければ、そんなことをしていられる心の余裕もない。だから、僕は日常のままだ。昼になればいつもの公園に向かい、そこのベンチでただただ座っているだけ。それが僕の日常。もはや何のためにそうしているのか分からなくなってくる。以前はなにか淡い期待を抱いていた気がするが、今ではこれは自分自身への罰なのではと思うようになっていた。

 そして今日も、僕の日常は変わらない。僕は気づけば公園のベンチの上で俯き、両耳を塞いでいた。聞こえる幻聴は止むことはない。なぜなら、この声は僕の内から湧いてくるものだから。そう分かっていても、僕はそうしないではいられなかった。

 ふと、首筋に冷たさを感じた。はっと空を仰ぎ見れば、厚い雲から白い雪がはらはらと舞い落ちていた。初雪だった。

 雪は瞬く間に勢いを増し、空を見上げる僕の視界を遮る。白くて、冷たくて、何よりきれいだ。いっそ、この雪に埋もれてしまいたいと、そう思う程に。そうすることができたら、どれ程気が楽だろう。けれど、それは叶わない。僕に触れた雪はみるみる溶け、透明な水に成り果てる。その冷たさは残したままに。

 再び、視線を足元に落とす。いつの間にか、地面は白に埋め尽くされようとしていた。

 深く息を吐き出す。白い息が風に揺らぐ。

「……」

 死にたい。

 何のために生きているのか。何故、死んでいないのか。

 僕みたいな役立たずに、価値なんかないのに。

 死にたい。楽になりたい。でも、苦しいのは怖い。だから、死ねない。

 欲しい。生きていても良いと思える理由が欲しい。死ななくても良いと思える理由が欲しい。


 ……彼女に、隣にいてほしい。


 そのとき、ふと視界に陰が差した。力なく見上げれば、目の前に立つ誰かが、僕の頭上に傘を差していた。

「こんな大雪の中にいたら、風邪引いちゃうよ?」

 目を細め、柔らかい笑みを浮かべる彼女は、懐かしい声と共に、僕を見下ろしていた。

「久しぶりだね、おじさん」


***


「もう一ヶ月以上は経つのかな? 前は何も言わずにいなくなっちゃってごめんね?」

 一つの傘の下。僕たちはベンチに腰掛け、肩を寄せ合っている。

「おじさん、きっと寂しがるだろうなとは思ってたけど、あたしも思うことがあってさ」

「いや、いいんだ。こうしてまた会えて、それだけで僕は満足なんだ」

 帰って来た彼女。取り戻した非日常。こんな寒さの中で、僕の心は水面に浮かぶ木の葉のように穏かだ。

 だから、もう何も望まない。彼女が隣にいてくれれば、それだけで。

「あたしね、おじさんの言葉、すっごい嬉しかった」

「……僕の?」

「うん、今度、紅葉を一緒に見に行こうって」

 そういえばそうだった。それが原因で、彼女は僕の隣から離れていった。そう思っていた。

「あたしね、おじさんと一緒に見る紅葉って、一番綺麗に見えると思ったの。紅葉だけじゃない。春は桜、夏は花火、冬はイルミネーションとか。全部がきっと、一生の思い出になるって、そう思ったの。……あたしにとって、おじさんは特別な人だから。だからね、おじさんの言葉、すっごい嬉しかった」

 じゃあ、何故彼女は、僕の隣から消えてしまったのか。その理由を、訊かれる前に彼女自身が語り出す。その言葉の端に、後悔を滲ませながら。

「だからこそ、もう一度頑張ってみようと思った。そうじゃないと、もう日常に戻れるチャンスは無いと思ったから」

 彼女の声が暗く陰る。

 俯き、胸を押さえて深く息をする。そして、ひねり出すように言葉を紡ぐ。

「……でも、ダメだった。あたしはもう、戻れなかった」

 彼女の肩が小刻みに震える。決して寒さからではない。

 そっと、彼女の肩を抱く。

「……僕もだよ」

 彼女が僕の横顔を見上げた。

「僕も、もう戻れない。……仕事をクビになったんだ。こんな僕に、再就職は厳しいだろうなぁ。僕みたいなクズ、他にいないからね、はは」

「そんなことない! あたしのほうが、きっとクズな人間だ」

 彼女を元気付けようと冗談めかしに言うと、彼女は意外にも声を上げて言った。その反応に驚き隣を振り向けば、彼女はばつが悪そうに俯き、居住まいを正す。この一ヶ月、学校で何かあったんだろう。少し気になるけれど、それを話そうとしないのなら、こちらから訊く必要もない。

 はは、と笑ってみせる。

「なら、クズなのはお互い様だね」

「……そう、だね。おんなじだね、あたし達」

 そう、同じだ。僕も彼女も、もう帰る日常は無い。社会に馴染ず居場所を無くし、孤立したクズな僕ら。

 彼女が、僕の隣で笑う。僕もつられて笑う。小さい公園の隅で、二人の笑い声がこだまするかのよう。

「そうだ、折角の冬なんだし、一緒にどこかに行こうよ」

 しんしんと降る雪の中、彼女が声を弾ませる。

「あたし、これからずっとヒマだし、おじさんもそうでしょ? だから、一緒にどこか行こうよ」

「どこかって、どこがいいかな」

「あたしね、ずっとやってみたかったことがあるんだ。スノーボードでしょ、わかさぎ釣りでしょ、あと、こぉんなおっきい雪だるま作ってみたい!」

 両手を広げ、彼女が楽しそうに語る。その声を聞いているだけで、僕もなんだかわくわくしてくる。

「冬だけじゃないよ? 春はお花見やイチゴ狩り、夏は海に山に花火、秋には美味しいものが沢山だし、おじさんが前に言ってた紅葉狩りにも行こう! これからさ、二人でいろんなことして、一杯楽しもうよ!」

 彼女はベンチから立ち上がり、僕の前に立つ。そして、手袋のはめられていない、白く華奢な手を差し伸べてくる。

「どうかな? おじさん」

 これが、きっと最後の選択肢だ。彼女の手を取ったなら、本当の意味で僕はもう帰ってはこれない。二度と、この社会の中に居場所を見つけることはできなくなる。けれど、僕には既に悩む余地などなかった。何故なら、僕が先に彼女へ手を伸べたのだから。先に不干渉を破り、彼女と共にいたいと願ったのは僕なのだから。

 だから僕は、迷うことなくその手を取った。彼女の手は意外にも暖かかった。彼女の熱が伝わってくる。

「いいね、一緒に行こうか」

「やった! ありがと、おじさん!」

 彼女に手を引かれ、僕は立ち上がる。座っていたベンチに、すぐさま雪が積もっていく。見れば、公園全体が一面白色に染まっていた。

 新雪を二人で踏み固めながら歩いていく。やがて公園の入り口へ差し掛かった僕は、ふと後ろを振り返る。

 この公園は、僕にとって特別な場所だった。ここだけが、彼女と会うことを許された場所だったから。けれど、もうこの公園である必要はない。僕の特別は、これからいつだって隣にいるのだから。

 手を繋ぎ、隣を歩く彼女は「初めはどこに行こうかな」とにこにこしながら思案していたが、ふと声を上げた。

「そいえばおじさん、あたしたち、まだ自己紹介してなかった!」

「あぁ、確かに」

 これまでお互いに名前を呼び合う必要はなかった。というより、名前を名乗ることがなかった。それは、これまではお互いがあくまで他人同士であったから。けれど、そんなルールは必要ない。僕らはもう、たった今から他人ではなくなったのだから。

「じゃあ、自己紹介しよっか。まずはあたしからね。あたしの名前は――」

 公園を後にし、僕たちは住宅街の中で向かい合う。何度も通い見慣れた風景が、いつもと全く違って見える。

 それもそのはず。これから始まるのはすべて『非日常』。彼女と過ごす、夢の中に閉じた世界なのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ