5
肌を焼くような日差しはいつしか穏やかになり、優しく吹く風は色づいた木の葉を散らす。若干の肌寒さに体を震わせながら、僕は会社を発つ。
季節は移ろい、今は秋の中旬。遠くの山々へ目を向ければ、緑、黄、橙、赤の色彩が目に眩しい。もう紅葉の時期だ。けれど、紅葉なんてのは僕たち……僕には縁のないものだ。紅葉だけじゃない。クリスマスも正月もお盆も、いろんな季節のイベントがあるけれど、僕にとってはなんてない日でしかない。僕の誕生日も父の誕生日も、母が死んでからは一度も祝ってない。
だから、例え紅葉の時期でも関係はなかった。僕はいつものように外回りのルートを外れ、公園へと向かう。
着くと、冬の制服に身を包んだ彼女がいつものベンチに座り、澄んだ空を見上げていた。彼女の手には一枚のもみじ。どうやらそれを、太陽の光に翳して見ているようだった。
「おはよう」
そう言ってベンチの端に座れば、彼女は目をこちらに向けて、
「おはよう、おじさん。今日もお仕事サボり?」
と訊いてくる。返答は決まっている。
「あぁ、サボりだよ。君も、学校はサボりかい?」
と問えば、彼女はやはり、
「もちろんだよ」
と言って笑った。
心がすっと軽くなる。ずっと背負っていた大荷物を降ろしたかのよう。
ベンチに深く座りなおし、背もたれに体を任せて大きく息をついた。そのときだった。
「よっと」
唐突に、彼女が僕の隣に移動してきた。三人掛けのベンチ。これまでずっと僕と彼女で両端を占め、一人分の隙間を空けていたのに、一体急にどうしたのか。疑問が浮かぶと同時に、いつもとは違う角度から見える彼女に心臓が高鳴った。
「どうしたの? 急にこっち来て」
平静を装ってそう訊けば、彼女は上目遣いに僕の顔を見上げる。
「ん? だってほら、最近冷えてきたでしょ? こうすれば少しは寒くないかなって」
彼女の無垢な理由を聞き、僕は自分自身を恥じた。僕が感じていた彼女への感情は恋などではなかったはずではないか。それなのに、彼女に少し近寄られただけでこの有様。僕は、つくづく最低な人間だと自覚した。そしてそれは、彼女にも気付かれてしまったようだ。
「なに? もしかして、あたしに何か期待しちゃった? 女子高生に隣に座られて」
明らかに僕の心中を察しての言葉だった。けれどそれに素直に頷けるほど、僕は子供ではなかった。
「そんなはずが無いだろう。僕はロリコンじゃないんだ。君にヘンに期待することなんてありえない」
その言葉は、彼女へというより、僕自身へ宛てた言葉だった。
そう、彼女はあくまで他人だ。彼女に対して理想を持つなんて考えられない。彼女は唯一僕を肯定してくれる存在。僕に『非日常』という逃げ場を与えてくれる存在。それ以外にはなり得ないのだ。
だから、この気持ちは幻想。幻だ。
「ふ~ん、そ」
彼女は少しつまらなさそうに僕から視線を外し、手に持った一枚のもみじを眺める。もみじの赤を太陽の光に透かして見たり、根元を抓んでくるくる回したり。年頃の少女らしい可愛らしい仕草に、横目で見ていた僕は自然と目を細めていた。紅いもみじと一緒に写る彼女の美しい横顔は、この上なく幻想的で、非常に絵になるなと思った。
だから、僕はふと思ったんだ。もし彼女を、遠くに見た色鮮やかな山間へ連れて行ったら、それはどれほどきれいなものだろうと。
僕は、無意識に口を開く。
「今度、一緒に紅葉を見に行かないか?」
気付いた頃にはもう遅かった。僕の口から出た言葉は、今更口を噤んでも返ってくることはない。今の僕の言葉は確かに彼女に届いてしまった。
それは、僕らの関係の破滅を意味する言葉だった。それを僕自身良く理解していたはずだったのに。あくまで他人同士、お互いの生活には干渉せず、この公園でのみ時間を共有する。だからこそ、どんなに私生活で彼女の存在を求めることがあっても、僕は一人耐えてきた。それは、この関係を終わらせたくなかったからだ。けれど、今僕の口を衝いて出た言葉は、これまでの僕らの信頼関係を崩すには十分なものだったはずだ。
なぜなら、ただの顔見知りである関係でありながら、男が一人の少女を連れ出そうというのだから。
僕は一人、絶望した。もうきっと、元の関係には戻れない。彼女は僕の隣から離れていってしまうに違いない。しかし、僕の想像とは裏腹に、彼女の返答は意外なものだった。
「紅葉狩りかぁ。いいね! 今度二人で一緒に行こっか!」
彼女は笑った。それが、遠くの木々を彩るどの紅葉の色よりも眩しく思えた。
僕は許されたのか?
隣で「紅葉狩り、楽しみだなぁ。いつがいいかなぁ」と、彼女が声を弾ませて足をふらふらとさせている。
そうか、僕は信頼されているんだ。
僕は心の中でぽんと手を打った。
信頼されている。そうでなければ、彼女はよもやあんな返事はしないだろう。ともかく、僕たちの関係は終わらずに済んだ。
ほっと胸を撫で下ろすとともに心が高揚する。恐らく、紅葉狩りを楽しみにしている彼女よりもずっと。なぜなら、これから先、彼女と週末を過ごすことができるかもしれないから。
僕は週末が怖かった。非日常は平日にしか訪れない。だから、日常である週末は僕にとって恐怖でしかなかった。けれど、今度から週末でも彼女と会うことができるかもしれない。もう、日常を見つめる必要はない。
心が浮かれていた。彼女との未来を想像して。自分がますます現実から離れていく感覚を感じながら。
その次の日からだった。彼女が公園に来なくなったのは。




