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君の名は
僕は彼女の名前を知らない。彼女も僕の名前を知らない。それでも何ら困ることはない。僕は彼女を『君』と呼ぶし、彼女は僕を『おじさん』と呼ぶ。これまでお互いがお互いの名前を訊かなかったのは、あくまで僕たちは他人であるという意識の表れなのだと思う。僕は彼女に必要以上に干渉しないし、彼女もまたそうだ。二人が会うのは、昼間の公園のベンチだけ。それ以外の接点は持たない。ただ、他人として時間を共有するだけ。何かしらをサボる間の、意味の無い付き合いだ。
彼女はいつだってそこにいた。僕もまたそうだった。平日の昼間は、僕の心の何よりの支えとなっていた。以前は週末の休みを何よりも渇望し、平日が始まる度に絶望を覚えていたのに、いつしか僕はそれを楽しみにしていた。また彼女に会える。彼女と過ごす空間に浸れる。そう思うだけで生きる活力が湧くほどだった。
彼女は僕にとって特別な存在だった。確かに僕は、彼女に対して特別な感情を抱いていることを自覚していた。しかしそれは、恋だなんていう眩しいなものなどではなかった。もっと単純で、もっと複雑な感情。僕自身、この気持ちにどんな名前があるのか分からなかった。けれども、きっと知る必要もないのだろう。
梅雨が過ぎれば、今度は夏が来た。ギラギラした日差しに肌を晒しながら、彼女は変わらずベンチの端に座っていた。雨ばかりだった梅雨の時期は彼女は特に何をするでもなかったけれど、最近はよく本を読んでいた。隣で何となく彼女の手元を覗けば、紙面に反射した太陽の光が眩しかった。読んでいた本には紙製のカバーが掛けてあって、それも結構な頻度で柄が変わっていたので、彼女は活発な見た目とは裏腹に読書家なんだなと感心した。
「おじさんはヒマじゃないの?」
一度、そう訊かれたことがある。
「折角こうしてサボってるんだから、何かしようよ。あたしみたいに本を読んだり、童心に返って遊具で遊んだり。ぼぉーっとするだけじゃつまんないでしょ?」
不思議そうに小首を傾げて僕の顔を覗き込む彼女の目は、まるで無垢な少女のそれだった。
僕は扇子で扇ぐ手を止め、空を見上げて息を吸い込む。
「……詰まらなくなんかないさ」
「ん? どゆこと?」
「僕は、この空気が好きなんだ。平日、仕事に忙殺されているはずの時間に、こうして公園のベンチに腰掛けて。外の世界は今でも忙しく回っているのに、この公園の中は、時の進みが雲が空を漂うようにゆっくりだ。まるで、この空間は現実世界とは別物のようで。僕は、この空気が好きなんだ。今もそれを楽しんでる。だから、詰まらなくなんてないよ」
自分でも、何を言っているのか分からない。この胸に抱いた感情をうまく伝える言葉を見つけられない。けれど彼女は、
「そっか。……おじさんのその気持ち、少し分かる気がする。見慣れた町にいるのに、本来いないはずの場所にいるだけでとってもヘンな感じになるよね。それこそ、おじさんが言うみたいに『現実』じゃないみたいな」
と、意外にも僕の言葉に共感してくれた。それが、どうにも僕の心をさらに浮かれさせるのだ。
「でも」
そして彼女は読んでいた本を閉じ、さらに言葉を続けた。
「おじさんの気持ちは分かったけど、あたしは結構遊びたいって思っちゃうんだよね。本を読むのは好きだけど、体を動かすのも大好きなんだ。だから今度、一緒に何かして遊ぼうよ」
彼女は少し身を乗り出す。その様がまるで物をねだる子犬のようで、つい笑みがこぼれてしまった。
「あぁ、いいよ。でも、あまり激しい運動は勘弁してくれよ。僕は、服装が服装だから」
「やったぁ! ありがとう、おじさん!」
そう言って嬉しそうに笑う彼女を見て、僕は思うんだ。ずっと、こんな時間が続けばいいのに。彼女と過ごす、日常からかけ離れた『非日常』が永遠になればいいのに、と。
きっと彼女も、僕と同じことを考えているはずだ。僕が社会から逃げたように、彼女もまた、学校というコミュニティから逃げている。でもそれは永遠のものじゃない。いくら僕らが望んだところで、日が暮れれば僕らは別れ、朝が来れば現実を思い出す。逃げ続ける僕に安寧が訪れることはない。それは彼女も一緒だ。
だから、僕は彼女とずっと一緒にいたいと思った。彼女は僕の心に平穏をもたらした。彼女の存在だけが、クズである僕の存在を肯定してくれた。クズな僕を、クズなままでもいいと認めてくれた。
けれど、夜の闇が町全体を覆う度、僕が彼女から離れる度、僕は胸が強く締め付けられるような錯覚を覚えるのだ。静かな自室に響く僕への陰口。耳を塞いでもそれは止まない。それが幻聴であると分かっていても、僕の心は激しく揺さぶられる。
クズな僕は、一体何故、何のために生きているのか。何も成せる力もないのに。さっさと死んでしまえばいいのに。クズな僕が社会にもたらすものなど、何もないのだから。僕はただの、社会のゴミでしかないのだから。
気付けば、僕は一人、暗闇の中で涙を流していた。いくらそれを拭っても、後から後から流れてくる。こんな夜は、無性に彼女の名前を呟きたくなる。
けれど僕は、彼女の名前を知らない。




