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作者は営業エアプです。
初夏。梅雨の残した湿気を孕んだ風が吹く。連日続いた雨が止んだのは嬉しいことだが、置き土産の蒸し暑さがスーツを着込だ僕の体には堪えた。
日増しに鋭さを増していく日差し。僕は右手に持った地図を団扇代わりに首元を扇ぐ。あまり涼しくはない。額から汗が一つ、また一つと流れていく。けれど、僕は不思議とそれを不快には思わなかった。むしろ、足が軽い。跳ねるような足取りで、僕は住宅街の合間を抜けていく。
やがてたどり着いたのは小さな公園。ブランコにシーソー、半分が埋まったタイヤに小さいベンチ。たったそれだけの、どこにでもあるような公園。けれど、ここは僕にとっては特別な場所だ。
今日は平日の昼間。公園内には誰もいないはずだった。子供たちは学校で勉強を、大人たちは仕事をしている。そもそも、こんな蒸し暑い日にわざわざ公園に来る人もいないだろう。普通なら。
公園の入り口に立ち、右へ視線を移す。公園の隅。大きな木の影の下に設置されたベンチに、一つの人影が見えた。陽炎の先で揺れる彼女は、まだ僕の存在に気づいていない。
ふわっと、心が持ち上がる感覚。彼女のもとへ向かう足は、羽が生えたかのように軽い。
彼女の五メートル手前に来て、ようやく彼女は僕の存在に気づいたようだ。開いていた本から顔を上げ、僕と目が合うなり口許を緩ませた。
「なんだ、おじさんかぁ。びっくりさせないでよね」
「はは、そんなつもりは無かったんだけどね」
彼女は、三人掛けのベンチの左端に腰かけている。僕はベンチの右端を選ぶ。
ベンチに腰を下ろすと、彼女は読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じ、姿勢を屈めて僕の顔を覗き込む。
「おじさん、また仕事サボり?」
彼女はにやにやと訊いてくる。昨日も一昨日も、これまでずっとされてきた質問。答えなど分かりきってはいるが、僕たちの間ではもはや一種の挨拶のような位置付けになっていた。
「あぁ、サボりだよ。ほんとはまだ三件は回らないといけないんだけど、今日はもう行くつもりはありません」
「あはは、相変わらずクズだね? おじさんは」
そして、彼女の返しも恒例のものだ。以前は彼女のその言葉に胸が痛くなったりもしたが、今では笑って流せるようになっていた。
「そう言う君だって、こうして学校をサボってるじゃないか。人のことは言えないだろう?」
これも、僕から彼女への挨拶だ。夏の、セーラー服姿の彼女は顔を空に向けて笑った。
「あははっ、そうだった。あたしも同じクズだった」
彼女の笑う声につられて、僕も小さく笑った。
平日の、昼間の公園。そこに満ちる、女子高生の澄んだ笑い声。仕事をサボる僕と、学校をサボる彼女。この非日常的なシチュエーションが、僕の乾いた心を満たしてくれる。
「ところで、それ、なに読んでたの?」
彼女の持つ空色のブックカバーを着た文庫本を指差せば、彼女はにんまりとし、カバーをするりと外して表紙を見せてくれた。そこには、水彩画で描かれた茅葺き屋根の家と、長閑な田舎の風景。表題も作者も、僕の知らないものだった。
「見たって、どうせおじさんには分からないでしょ? おじさん、本を読む人には全然見えないもん」
年端もいかぬ少女に言われ、年甲斐もなく言い返したくなった。
「人を見かけで判断するものじゃないよ。僕だって本くらい読むさ」
「へぇ、例えば?」
つい強がりを言ってしまった。すると、彼女はすべてを見透かしたかのように妖しい笑みを浮かべながら訊いてきた。彼女の表情に、僕は思わず顔を背ける。
「……夏目漱石の『こころ』、とか」
答えると、彼女はどっと笑いだした。
「あっはははっ、それ、絶対高校の教科書で読んだだけでしょ」
図星を突かれ、返す言葉もない。押し黙る僕に、彼女は続ける。
「もぉ、そんな無理しなくてもいいのに。もしかして、あたし相手に格好つけようって? あはは、いい大人が恥ずかしいよぉ」
まさに、彼女は僕の心を見抜いていた。僕は羞恥心と、年下の女の子にからかわれている事実に頭がくらくらする思いだった。
「あぁ、うん、君の言う通りだよ。僕は本をあまり読む方じゃない。察しの通り、『こころ』も高校で読んだきりだ」
僕は降参を認め、白旗を揚げる。彼女は小さく息をつき、右手の指先で本のタイトルをなぞる。
「もったいないなぁ。この作者の人、結構人気なんだよ? この本は最新作なんだけど、今度映画にもなるんだって。ほんと、凄いよね」
そして、彼女は僕へ振り向き目を合わせる。その瞳は、年相応の可愛らしさでも、ミステリアスな妖しさでもない。そこには、なにも灯っていなかった。
「……あたしたちとは、大違い」
今彼女は、僕と同じ目をしている。真っ暗で何も見通せない、諦めと失望に満ちた目だ。




