30話:虚無
辺り一面に広がっていた黒が晴れ、最初にリゥを包んだのは、重いとも軽いとも言えない体にかかる重力。その違和感だった。
体にかかる重力、つまり体重だけなら軽いといえる。が、その反面で体を支える筋力がないのか、体を持ち上げることが出来ない。
――否。そもそもの話、支える予定だった体がない。よって、己にかかる重力でさえも感じないのだ。
黒が晴れ、重力でさえリゥに干渉しない中、さらなる違和感。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の、五感全てが機能しない。
見えない、聞こえない、嗅げない、味わえない、感じない。情報が何一つ、入ってこない。
しかし、白に包まれた無の空間だけは理解出来る。そう、魂だけで。
そんな空間で、存在しない手を張り巡らせ、手探りでなんとか情報を探す。
なんでもいい。何も無いなら、それすらも今は情報になる。何かあるなら、触れたい。あわよくば、そこに目や鼻が転がっていて欲しいが。
などと思っていたその時、
『待ち受けるのは、主らの最大の敵。ーー自らの過去に苦しみ、悩み、迷い、そして無の空間で、文字通りの無となれ』
声が、聞こえた。
耳もなく、聴覚が仕事をしない中で、その声は確実にリゥに届いた。
聞こえたと言うより、感じたと言った方が適切だろうか。
そんなことを思考した直後、無の空間を光が包み込む。すると、それまであったはずの白が晴れ、実体を持たない体に、視覚と聴覚が戻る。
戻ったばかりの聴覚で、元気な産声を聞き、その次に視覚が働く。
「お疲れ様です。元気な男の子ですよ!」
リゥの視覚が捉えたのは、とある一室の様子。その部屋では、大量の汗を真っ赤な顔に浮かべて、はぁはぁと息を切らしている女性が見える。そしてその女性に近づくのは、白衣を血で濡らしている、こちらも女性だ。
白衣の女性の腕に抱えられているのは、体全体が真っ赤な血に染まっている産まれたばかりの赤ん坊だ。先程聞こえた産声がこの赤ん坊のものだと、リゥは即座に理解する。
そんな赤ん坊を見て、そこにいる二人の女性は万遍の笑みを浮かべている。
「リオ! 生まれたのか!?」
「ええ、やっとね」
「あ、旦那さん。元気な男の子ですよ!」
「おおおおお……!」
ノックもなしに突然部屋に駆け込んできた男。こちらもまた大量の汗をかき、息を切らしている。
「これが、俺たちの息子……!」
「ええそう。私――リオと、あなた、ザイデの子ども……」
ここまで来ればもう分かる。今リゥが見ている光景は、女性、リオと男性、ザイデの間に出来た、子どもの出産直後だ。そして、白衣の女性はその出産を手伝った助産師である。
助産師は、駆け込んできたザイデに赤ん坊を渡すと、笑顔でお辞儀しその部屋を退室する。
そして三人きりになったその部屋で、赤ん坊はザイデに抱かれ、二人からの祝福を受ける。
「あなたは、リオとザイデの間に生まれた、たった一人の子ども。私たち二人に愛されて、私たち二人も愛してね。――リゥ」
――っ
その光景を見ていたリゥは、赤ん坊の名前を聞いた瞬間に息を呑む。
何を見せられていたのか、それが分からないままその光景を目にしていたが、その名前を聞いた瞬間に全てを理解する。
今リゥが見ていたのは、リゥの過去だ。この世で生を授かり、両親に祝福されて生まれてきた瞬間。その時の光景なのだ。
しかし、リゥにとってその過去は、違和感の塊でしかない。
――あれが、俺の両親か
リゥが今見た過去は、リゥの記憶に全くないもの。物心がついていないのだから当たり前ではあるが、違和感の正体はそっちではない。
――物心ついた時には、親なんていなかったからな……
そう。リゥが物心ついたその時から、リゥの親はおらず、変わりに大全師がいた。
物心ついた時から既に大全師がいた為、あまり気にもしていなかったが、ある時両親がいないことに疑問を持ち、大全師に聞いたことがあった。
ーー俺が生まれた直後に、事故で死んじまうなんてな……
自分の両親のことを尋ねた時、大全師はたしかにそう言っていた。
そして、そのような子どもは施設などに預けられるのが普通だが、両親の遺伝も含め、それを凌駕した類稀なる素質を持ったリゥを、大全師自らが育てようとしたのだ。――リゥには詳しいことを秘密にして。
「奥さんも旦那さんも、子育ては大変だと思いますが頑張ってくださいね!」
「私もあともう少しだから、リオさん見習って頑張るわね!」
「大きくなったら、私たちの子どもとも遊んでちょうだいね!」
「ええ。皆さんお世話になりました。再びご縁があれば、色々とお話しましょう!」
たくさんの助産師や他の患者に見送られて、リオとリゥは病院を後にする。
そして外に出ると、病院の近くでザイデが待っていた。しかし、そんな光景よりもリゥの目を引くものがある。
――ヴォルフ、なのか……?
リゥの目を引いたのは、ザイデの近くにいる白く大きな狼。何度も目にしたことのある自分の相棒、ヴォルフだ。
――あいつは、何十年経っても全然変わんねぇんだな……
リゥが物心ついた時、傍にいてくれたのは大全師だけではない。朝も、昼も、夜も、リゥの隣には、いつもヴォルフがいてくれていた。
ずっと、何十年も経った今でも、変わらずリゥの相棒なのだ。
「今日で退院! これからはリゥと三人、楽しくやっていこうな!」
「ええ! この子と一緒にいろんな思い出を作って、成長を見届けてあげないと!」
「はは。リゥが大きく成長したら、ヴォルフの新しい主人はリゥだな。ヴォルフの手綱を引いて、色んなところでいろんな思い出を作って欲しいもんだ」
「そうね。ヴォルフも、私たちの家族だもの」
そう言って、三人はヴォルフの上に乗る。
そしてそのままヴォルフを走らせて、家に帰ろうとしていたときだった。
そろそろ事故が起きるんだろうな……
――見たく、ねぇよ……
その先を見たいとは思わず、リゥはそんな光景から目を逸らそうとする。しかし、リゥの体には目も耳もない。目で見ている訳ではなく、脳でその光景が映し出されているに近い形だ。
そのため、目を逸らそうとしても、耳を塞ごうとしても、全く意味をなさない。
そのあとの光景をみることを拒むリゥに対し、慈悲など見せる素振りもなく、どんどんと情景が移り変わっていく。
「危ねぇ! そっちに行っちゃダメだ!」
「えっ!?」
ザイデがヴォルフを走らせていると、道を歩いている男性に突然声をかけられる。その男性の声には、強い焦りが感じられる。
そんな男性の声を聞いた瞬間に、直ぐヴォルフを止めようとしたザイデは、かなり素早く反応したつもりだった。
しかし、退院の喜びで家への帰りを急いでいたザイデは、ヴォルフをいつもより早く走らせていたため直ぐには止められなかったのだ。
「ああ、その子供だよ……」
「誰だ!」
「俺の名前なんてどーーーーーーーーでもいい。大人しく、そこにいるガキを俺に渡せ。そうすれば、お前らの命までは奪わないでおいてやるよ……」
道のど真ん中で止まったヴォルフの前に、謎の男が現れる。青紫色の、禍々しいコートを着た男。フードを深く被っている上に、気味の悪い仮面を付けていて、顔までは把握出来ない。
そんな男を前にして、ヴォルフから飛び降りたザイデは顔を歪める。
「そんなこと、出来るわけないでしょう!」
「リオ、君はリゥを産んだばかりだ。下がっていなさい」
「ダメよ。あの男、かなり強いわ」
仮面男と向かい合うザイデの横に並ぶようにして、リオもまたヴォルフから降り立つ。
「万全ではなくても、あなたの足を引っ張るつもりは無いわ」
「分かった。でも、無理はしないでくれ」
「あのさ、夫婦愛だか何だかわかんないけど、そんなものどーーーーーーーーでもいいんだってば。上にいるガキに、用がるんだよォ!」
「させるかァ!」
目の前にいる二人を無視して、その頭を飛び越すように仮面男が飛び立つ。そしてその先には、毛布にくるまれた赤ん坊、リゥがいる。
リゥを目掛けて直進する仮面男に、ザイデが強烈な蹴りを放つ。
「――ヴォルフ! 今のうちにリゥを連れて逃げてちょうだい! 私たちのことはいいから、なるべく遠くに!」
ザイデの蹴りに仮面男が吹っ飛ばされた瞬間、それを好機と思ったリオがヴォルフに向かって叫ぶ。
そんなリオの声を聞いたザイデは軽く跳ね、背中に乗っているリゥを弾く。そして落ちてくるリゥに巻いてある毛布を咥え、そのまま全力で街を走り抜けて行く。
「そう簡単に、行かせ……」
「ねぇのはこっちもなんだよォ!」
「……がぁッ」
遠くへ逃げるヴォルフを慌てて追おうとする仮面男を、ザイデは絶対に逃がさない。首を完全にクラッチして、そのまま地面に叩きつける。
「クソがァ!」
「なっ、地面に叩きつけられて、なぜ……」
地面に叩きつけられた仮面男は、服さえ汚れたものの、ダメージを感じさせないほどにピンピンしている。
「テメェじゃ役不足だ。大人しくさっきのガキを連れ戻して来やがれ。そうすれば、テメェの命までは……」
「風刃!」
「はぁ!?」
地面に叩きつけられても余裕な仮面男を、今度は風の刃が襲う。
無警戒の方向からの攻撃に、反応が遅れた仮面男。風に乗せた刃は、仮面男が反応して避けるよりも早く到達し、その体を容赦なく斬りつける。
「私がいることも、忘れないでちょうだい!」
「はぁ……次から次へとめんどーーーーーーーーくせぇなぁ! 俺が用事あるのはあのガキだってのに、どうやらマジで死にてぇらしいな」
「あんた、なんて体してんのよ……!」
風の斬撃をまともに浴びてもダメージを感じさせない態度の仮面男に、ザイデとリオはただただ驚愕するしかない。
「もういい。お前らを殺して、それからあのガキを追うことにするわ……」
「リオ、やるぞ!」
「あんまり無理、できないからね!」
そう言って、そこにいる三人の戦闘意思が一致。その中で先手を取りに行くのは、リオの夫にしてリゥの父親である、ザイデだ。
仮面男の前に踏み込み、そのまま顔面に右ストレートを放つ。が、仮面男は腕をクロスしてそれを防御。そのままザイデの右腕を弾き、両腕を掴む。
両腕を掴まれたザイデは力ずくで腕を開き、防御のなくなった顔面に向かって、下から顎を蹴りあげる。
そしてそのまま後転し、仮面男の手から自分の手を引き離す。
「なめ、やがってぇ……!」
「リオ、今だ!」
「風刃!」
「二回目じゃ、芸がねぇんだよ!」
両腕を外したザイデは、四肢を地面について低姿勢をとり、その後ろにはリオがしっかりとスタンバっていた。そしてザイデの合図の直後、二度目の風刃がザイデの上を通り越し、仮面男へと直進する。
しかし、仮面男は瞬時に体を反らし、二度目になるその攻撃を難なく避ける。
的を外した風刃は後ろの家に直撃。人を狙いにしたこともあり、範囲こそは狭かったものの、家には文字通りの風穴が開く。
「もうお前らの相手をしてるのも面倒くさい。だから、ここいらで終わりにさせてもらうわ……」
そう言って、仮面男は怠そうに体をグネらせ、ダラんとした腕を二人にむける。そして短く嘆息し、一言だけ詠唱。
「炎柱……」
そんな力のない詠唱の末に出てきたのは、文字通り炎の柱。仮面男から放たれた炎は、轟々と音を立てて二人に迫る。
しかし、避けられない速度ではない。そう判断した二人は、左右に別れて避けようとした。
「開……」
「はっ!?」
「からの閉」
「なっ!?」
二人が左右に避けた直後、直前まで一直線に迫っていた炎は、仮面男の一声で避けた二人を覆うようにドーム状に展開。そしてあっという間に二人を追い越し、行く手を阻むように二人を覆う。
そして炎で作られたドームが、仮面男の次なる言葉で縮まっていく。
完全に行き場を失った二人が、炎の中でどんな行動を取っているかは分からない。
もしもこのまま終わってしまうのであれば、炎が消える前にこの光景が終わって欲しいと、リゥは心の中でそう願う。目を瞑ることも逸らすことも出来ない。見ないといけないその光景に、リゥは心から苦しむ。
思い出はなくとも、実の両親なのだから……
――父さん、母さん……
「大水、膨発!」
父と母の、ザイデとリオの死を誰もが確信したその瞬間、炎の中から大きな叫び声が上がる。
そして、炎の中から大量の水が吹き出し、二人を包んでいた炎が一瞬で掻き消える。
「リゥのためにも、ここで死ぬ訳には行かねぇんだよ……!」
消えた炎の中からは、人影が二つ。そしてその影は、間違いなくザイデとリオである。
「あの炎を消火しきるか……面白ぇ!」
「……ぅ」
「あ? なんだって?」
「″お前を殺してやろう″だってよォ!」
「ああそうか……よ!」
自らが放った炎を全て消火したザイデの実力に、悪辣な顔で笑う仮面男。そんな仮面男に向かって、リオは小さく何かを呟いた。
その小さな声に耳を向けた仮面男に、ザイデが直進。そして、仮面男の側頭部を目掛けて蹴りを放つ。
しかし、仮面男はその蹴りを両腕で受け止め、そのままザイデを振り回す。いつもより回しやすい気がして、調子に乗った仮面男はいつもより多めに回した。そしてその分だけ強い遠心力がかかったザイデは、思いきり吹っ飛ばされる。
「ぐはっ……がっ」
投げられた直後から体を回転させ、できる限り威力を弱めたザイデだったが、その勢いは収まりきらず、そのまま石造りの工場のような建物に激突。
自らから回転した影響もあり、壁にぶつかった瞬間に上へ弾かれる。そして高々と投げ出された体は、そのまま工場の屋根に落ちる。
「回転したら勢いが弱まる。しかし残念だったな! 今日はいつもより多めに回したんだ。それで勢いが殺し切れず、回転の影響を受けて二度も痛みを味わうとはな!」
「俺が回転したのは、勢いを殺したかっただけじゃねぇ。ここに、来たかったんだよ。おまえを見下ろすことが出来る、この場所にな……」
「ハッ! 強がってんじゃねぇよ! おまえがそこに行っただけで何になるってんだ? あぁ!?」
ザイデの行いが愚策だったと、そう嘲笑う仮面男に対し、ザイデは自分の行いを悔いてはいない様子でいる。
そして、そんなザイデを仮面男はまた嗤う。煽るようにして叫ぶ仮面男をキッと睨みつけて、右手を上に翳す。
「――氷釘!」
そして、右手を翳したザイデの頭上に、大量の氷釘が構成される。大きさは手に握れる位のサイズだが、驚くべきはその数。構成された氷釘の数は、百を優に超えている。
そして、その全ての氷釘の矛先は、目下の仮面男へと向けられ……
「――逝けェッ!」
咆哮とともに右腕を大きく振り翳し、全弾が一気に放たれる。
そして僅かな風が、その氷釘を後押しする。
「上からの攻撃は良かったが、少しばかり高すぎたな! その高さなら避けられ……あ?」
上からの攻撃に一瞬だけ戸惑ったが、直ぐに冷静さを取り戻し、仮面男は後ろへと飛び退こうとする。が、足に違和感を感じる。
「ま、さか……」
足が地面から離れない。そんな違和感の正体は、足にまとわりつく氷だ。そしてその氷は地面とも接着していて、足を動かすことが出来ない。
しかし、氷釘はまだ一つもたどり着いていない。そしてザイデを投げる時までは普通に……いや、普通以上に動いた。普通以上に動きやすく、回しやすく、滑り、やすかった……
「ーー冷風、コールドウィンド。私のことを忘れないでと、そう言ったでしょう?」
「て、テメェか……!」
「ええ、そうよ。あと因みに、私は″殺してやろう″なんて言ってないわ。思ってはいたけれど」
今更、そんな説明は必要が無い。仮面男は、既に全てを理解していた。
リオが呟いていたのは、『冷風』の詠唱であり、滑りやすかったのは、地面が少しずつ凍っていたから。
そしてその氷を作った原因は――、
「――あの時の水かっ!」
「御明答、よく分かったわね。あの時の大量の水、そこら辺に撒き散らされた水を、私がずっと凍らせていたの。ザイデがあなたに振り回されたのも、投げられて回転したのも、工場の屋根に着地したのも、全て作戦通りよ」
「くっ、そぉ! これくらいじゃ終わらねぇ! 炎幕!」
全てを理解した仮面男は、それでも後悔を後回しにする。そして、逃げる隙はないと、自分の目前まで迫って来ていた氷釘を、炎で掻き消す。
大量の氷釘を、それを凌駕して視界が奪われるほどの炎で、全てを焼き払う。
襲い掛かる氷釘が全て消失し、足元の氷を溶かそうとしたその瞬間、ザイデの目には次なる脅威がまだ迫っていた。
「その大きさは……!」
「この大きさでも、氷釘だとも」
炎で視界が奪われていたその時に、ザイデは再び氷釘を作っていた。しかしそれは、先程放ったのものとは正反対の、たった一つの巨大な氷釘だ。
足元の方を気にしていたせいで、構成されようとしていた炎は微々たるもの。不意打ちで来るその大きさへの驚愕も相俟って、仮面男はソレに対抗する炎を作れない。
そして足元の氷を溶かすことも忘れ、そのまま体を貫かれ――否。そのまま氷釘に、押し潰される。
「ま、さか――」
そんな力のない声を発しながら、氷釘に押し潰される体は地面に埋もれていく。
「はぁ、はぁ……どう、なった……?」
「大丈夫。しっかりと命中していたわ。防げた様子も、避けられた様子もなかった」
工場の屋根から降りてきたザイデは、息を切らしながら尋ねる。
そんなザイデの問いかけに、リオは見たままの光景を伝える。
現に、防げた様子も、避けられた様子もなく、地面に埋め込まれて見えなくなる寸前、力なく息絶えたような顔を見た。
しっかりと、確実に、今、仮面男は息絶えた。
――だとしたら、父さんと母さんは、なんで……
仮面男が息絶えた瞬間を、リゥもハッキリと見ていた。
だとしたらなぜ、リゥの父と母は命を落としてしまったのか。
そしてこの過去は、リゥに何を見せたかったのか。




