2話:絶望の炎
――ッ!
龍翔が元気よく部活に登場してから約三時間。練習も終わろうとしていたその時間に龍翔と優也は先に着替え、部活の片付けを手伝っていた。
いつもなら面倒くさがっていた片付けを笑いながら行い、久しぶりの部活を楽しく終えようとしていた瞬間。突如として起こった衝撃音から、此度の事件は幕を開けた。
「なんだ! どうした!?」
龍翔らと一緒に片付けを手伝っていた顧問が、衝撃音を聞いて叫んだ。練習や片付けの手が一斉に止まり、その場にいた全員が音のした方を見る。
「――は?」
目前の光景に顔を蒼白にして、龍翔たちは絶句した。
絶句する龍翔たちの目の前。彼らの顔を蒼白とさせたのは、激しく音を立てて燃え上がる炎だ。炎は卓球場と反対の、体育館のステージ上から発火している。
余程強い発火だったのだろう。体育館のステージはほぼ半壊で、ステージ上の暗幕までもが焼け焦げている。そして炎は今も尚、ステージ全体から徐々に燃え広がっていた。
「やべぇ! 逃げろ!」
体育館一階では、同じく練習していたバスケ部が慌てて叫んでいる。手に持っていたボールを投げ捨て、一斉に逃げ出したバスケ部。彼らのその行動を目にして、反応が遅れたことを龍翔や顧問は後悔する。
しかし、今はその後悔の時間でさえ惜しい。直ぐにでも避難しなければ、本気で誰かが死ぬ。
「お前らも逃げろ! 先ずは一年からだ! 二年は一年を誘導して一階に下ろせ! 天野と佐野は先に下に行って一年を外まで誘導だ! 場所は火が届かないところなら何処でもいい! 俺は職員室に報告しに行く! あとは頼んだぞ!」
「はい!」
顧問の咄嗟の指示に遅れることなく返事を返し、先行した顧問に続いて二人は階段を跳び降りる。
体育館と卓球場を繋ぐそれは、二人が三年間昇り降りしていた階段だ。その三年間で、龍翔たちは色々な降り方を試している。中学生の多くが経験するであろう遊びの一つ、階段遊びだ。
そんな子どもならではの遊びが、今役立つ。どのくらいの勢いで跳び降りればいいか、そんなことは考えるまでもなく、体が判断する。
「こっちに降りて来い! ここから出て真っ直ぐ駆け抜けろ! とりあえず校庭まで逃げればいい!」
二人の素早い行動で、何とか遅れを取り戻す。普段は開閉しないドアを開け、そこから一斉に逃げる。これもまた、三年間通っていた二人だからできる判断だ。
この二人の行動を見れば、顧問の指示も流石と言える。これなら、顧問がいなくても問題は無い。二人の指示に従い、未だ学校に不慣れな一年も直ぐに逃げる。
しかし、なんと言っても人数が多い。幸いにもバスケ部とは逃げるドアが違ったが、それでも一年だけで二十人ほどはいる。
そして、つい数ヶ月前まで小学生だった彼らが半数ほど避難したかという時だった。流れに足を取られた一人が、最後の階段を踏み外してしまう。そしてそれに後ろの人が躓き、ドミノ倒しに――、
「危ねぇ!」
――とはならない。一人が転んだ瞬間、既のところで龍翔がカットに入る。転んだ少年の後ろにいた人の前に手を入れ、ドミノ倒しを回避。そのカットの直後に、優也が転んだ一年を素早く抱えて集団から抜ける。少々荒々しいが、最善であったことには違いない。
そのまま優也は転んだ男子を抱えて外まで抜け、龍翔も落ち着いてから手をどけて再び避難を再開する。
「焦らなくていい! 一段ずつ確実に降りろ!」
そして一年が降りきり、降りた一年を二人は校庭まで誘導する。二年が自力で逃げられると信用しての行動だ。
それに、もうすぐ教師たちが来る頃合いだとも予想していた。
事実、二年の行動は一年よりも遥かに速やかではあった。が、二年の数は一年よりも多い。時間としては、一年と同じくらいかかるだろう。そんな死と隣合わせの避難劇は、開始してから三分を経過しようとしている。
教員達が来る気配もない中で、避難を続けていたその時だった。
「――は?」
一年と校庭に逃げている途中、龍翔は真横の光景に力のない息を漏らした。
――教員が来ない。それは、当たり前のことだった。校舎の周りに植えられていた木が、全て倒れているのだ。倒れたその木が、職員室から体育館までの経路を塞いでいた。その木の奥に見えるのは、呼びに行くと言って先に職員室へ向かった顧問と、彼に呼ばれたであろうほかの教員達だ。何とか木の隙間を潜っているが、あれではあと数分はかかる。
――待っていられない。そう判断した龍翔は、一年を優也に任せ一人体育館に戻る。
突然の衝撃音と出火、狙った様に教員と生徒を分断する木、一向に来る気配のない消防隊。この火災で消防隊を呼ばないわけがない。
そしてそんな訳の分からない事態で、さらに胸のざわめきを感じる龍翔。――嫌な予感がする。と、龍翔は額に流れる汗を拭い全力で足を回した。
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――そして、嫌な予感は見事に的中した。
人間か、神か、天か……何者かの、運命の悪戯だ。
それも、龍翔にとって最も残酷で卑劣な。
先程まで使用していた体育館の出入口が、他者の侵入をも拒むかのように塞がれている。塞いでいるのは、やはり木だ。
体育館周辺の木はなぎ倒されていて、火が燃え移っている状態だ。
そして何よりも、龍翔の気を引く事実。
――体育館の中に、晟が残っていた。
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時は僅かに遡り、龍翔が戻る少し前。その時にはまだ、スムーズな避難が続いていた。最後尾にいた晟でさえ、もう逃げ切れると確信できる状況だった。
逃げ切れると、誰も命を落とさないと。そう思い、確信し、希望の光を感じていた。が、現実はそんなに甘くはなかった。火が燃え移っている木が、音を立てて倒れてくる。
「――ぁ」
それに呆気を取られ、晟の前を逃げていた少年が足を止めてしまう。
その少年も、逃げ切れると確信していたのだ。しかし、その喜びが一瞬で壊された時、極度の絶望に陥った。
――絶体絶命の危機に、足が竦んでしまったのだ。
足を含めた彼の体は、仏像のように重くなる。恐怖と絶望で固くなった足は、自力で動かすことなど到底できない。
それを見た晟は、勇気と力を全身に込め、全力で前の背中を目掛けて体当たりをする。
約四時間の練習後。燃え広がる炎で、体育館の酸素は薄くなっていた。更には極度の緊張で、精神的にも肉体的にも辛い状況。満身創痍とも呼べるそんな時に、普段の力など出るはずもない。
元々小柄だったのもあり、晟の体は押した反動で後ろに跳ね返される。
――だが、やった。跳ね返されはしたが、倒れてくる木からは救えたはずだ。
ガガンと木が倒れ、晟は一人、炎の中に取り残される。倒れた衝撃で揺れた葉の音が、ほぼ確実な死を前にした晟を嘲笑っているように聞こえた。
友人を救えた安堵と、その代償である死への恐怖の狭間で、晟はこの上ない脱力感を感じる。もう、力は込められない。込められたとしても、全ての逃げ口を塞がれたこの状況では、何も出来ない。
極度の脱力感で、意識が遠のく。
目前の光景が歪み、意識が朦朧とする。
朦朧とした意識の中、様々な人が走馬灯の様に脳裏を過る。
父の叱りの言葉、母の励ましの言葉、祖父母の明るい笑顔、友人との思い出、教師の教え、先輩の優しさ、後輩の可愛さ。そしてその中には勿論、龍翔も映っていた。
入学当初、何も分からないままうろうろしていた晟は、当時の三年生に目をつけられて入学早々不良に絡まれた。背の高い年上数人に囲まれ、人気の無い場所でのカツアゲ。何が何だか分からなくなり泣き出しそうになった時に、颯爽と現れた龍翔が助けてくれたのだ。
そんな龍翔の背中に憧れ、同じ卓球部に誘われた晟はそのまま卓球部に入った。龍翔は基本の型から試合での技術まで、事細かに指導する先輩の鑑とも呼べる存在だった。
ハロウィンの日に寝坊し、その日の大会に行けなかった晟。思いつきで龍翔の家に行き、二人きりで近くのショッピングモールへ行った。そしてその後に、お泊まり会もしたのだ。
そこで龍翔との仲はかなり良くなり、クリスマスにも遊んだ。二人で買い物に行き、部屋を飾り、他の友人にサプライズを仕掛けた。そして龍翔からは部活で使えるプレゼントを貰い、今でも重宝している。
年越しも、龍翔たちと過ごした。大晦日に遊園地へ行き、たくさんの思い出を作った。そして帰ってきてからは、年越しのジャンプもした。次の日にも一緒に初詣へ出かけ、新年早々充実した一日を過ごしたのだ。
来年もやろうと、そう思っていた。ずっと仲良くしていたいと、そう思っていた。
それでも、それはもう、叶わぬ願いとなってしまうのだろう。
ーーここで死ぬのだと、晟はそう感じた。
十数年の短い時間で、幕を閉じるのだと。たった数年の付き合いで、龍翔と別れるのだと。そう思った。
涙が頬を伝い、床に落ちる。悲しいからか、怖いからなのか。自分の終わりを理解し、静かに、ただ静かに……
「晟ァァァァァァッ!!!」
しかしその静かさは、突然の叫びによって見事に打ち砕かれた。鼓膜を劈くように、鋭く。しかし、胸の奥を温めてくれるほど優しい声が。晟の心を揺さぶった。
燃える木の向こうで、体を押さえられながら叫び続ける龍翔の姿がある。右手を優也に掴まれ、漸く来た教員に腰を掴まれ、左手を晟に向けて、泣きながら叫んでいる龍翔の姿が。
「離せ! 晟を助けに行く! 早く離せ!」
「馬鹿! あの火だぞ! 危なすぎる!」
無理に体を振り解こうとする龍翔を、優也たちは必死に止める。
「危ないから行くんだろうが! 晟がいるんだ! あの危険な火の中に!」
「あともう少しで消防隊が来る! それまで待て!」
「待ってられるか! 火はもう晟を囲ってる! もう時間がねェんだよ!」
「おまえが行っても助けられる確証はない! 無駄死にするようなもんだろ!」
「ならここで見殺しにするってのか!? ふざけるな! そんなこと出来るわけねェだろうが!」
燃え広がる体育館を前に、龍翔と優也の口論は続く。龍翔は、一番可愛がっていた後輩を救いたい。だがそれは、不可能に近い。出来たとしても、龍翔が死ぬ可能性もある。燃える火の中に入るのは自殺行為と同じだ。
それは、中にいる晟が一番理解している。
だからこそ、晟は龍翔に叫ばなくてはならない。自分の願いに嘘をついても、その嘘が本当になっているのだから。
「――来ないで! 危ないから! 龍翔くんまで巻き込みたくない!」
「晟……何言ってんだ! 危ないから助けるんだ!」
「おいやめろ! 落ち着け!」
晟と優也が必死に止めるも、龍翔にはそれを聞く気など無い。そして龍翔が取った行動は――、
「うるっっっっっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
掴まれていた右手を無理矢理に捻り肘を突きだし、優也の手を外す。かなり強引ではあったが、腕を掴まれた時の護身術に似ている。
そして両腕が自由になった龍翔は、そのまま腕を回してその反動を利用し、全力で体を捻る。限界まで体を捻られ、そのままフックが緩んだ腕を掴み、回転を利用して引き剥がす。普通の高校生には出来るはずもない、素早い身のこなしだった。
そしてそのまま、火の中に飛び込む。
「晟――ッ!!!」
「おい! 待て!」
優也の叫びに耳も貸さず、燃えて脆くなった木を蹴り壊し、前屈みでできる限り腰を低めて、晟の元へ駆けつける。火はもうすぐそこまで迫っている。一刻の猶予もない。直ぐにでも戻る必要がある。
――それなのに、『最悪』だ。この場において、この状況において、最も最悪なことが起こる。建物の、体育館の崩壊が始まった。
壁が焼け崩れ、逃げ道が塞がれていく。支えを失う屋根も崩れてくる。
もう一刻の猶予もない。悩んでいる時間も、考えている時間もない。動くしかない。抗うしかないのだ。
「晟! これ被れ!」
そう言って渡したのは、龍翔が羽織っていた上着だ。
龍翔が私服を着るときは、いつも何かを羽織っていないと落ち着かないと言う。そして夏でも、薄手のシャツを羽織っているのだ。
暑い季節に合わせたシャツを渡し、龍翔は晟の頭に被せる。
「俺が支えるから、何がなんでもしがみついて小さくなってろ。一瞬でも力抜いたら死ぬと思え」
晟を抱えた龍翔は、前屈みになり自らの体で晟を庇う。出来る限り晟に炎や瓦礫が当たらないように、龍翔は全身を走る痛みに奥歯を噛みながら、一切の戸惑いを捨てて突き進む。
そして――、
「ァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
燃える盛る炎の中に正面から突っ込み、晟を庇いながら壊れている壁に体当たりをして突き破る。まさに、猪突猛進と言った感じだ。
そしてそのままの勢いで出口まで突っ切り、最後は全身の力を足に集中させ、思いっきり外に飛び出した。
ここまでで力を使い切った龍翔は、受身など取れるはずもない。晟を抱えたまま、顔面から地面に飛び込む。
「ぅ、ぁ……」
「――ッ! 龍翔くん!? 龍翔くん!!」
力のない声を漏らし、全身の痛みに体を丸める。
もはや、痛みに叫ぶ体力も、転がり回る力もない。
そんな龍翔を見て、抱えられていた晟は必死に龍翔の名前を呼ぶ。
「おい! 大丈夫か!?」
優也が龍翔と晟の元へ駆けつけ声をかける。
「あ、きら……」
優也の呼びかけに、漸く目を開けた龍翔。そしてなんとか力を振り絞り、途切れ途切れの言葉で晟の安否を確認する。
「俺はここにいるよ! 大丈夫! 龍翔くんが助けてくれたから!」
晟は、必死に声をかける。
それを見た龍翔は、頬を緩めて無理に笑う。
「そ、か……よかった……」
「もう話さないで! お願いだから! 死なないで!」
無理に言葉を発する龍翔に晟は叫び続ける。
そんな晟を見て、龍翔は「あ、きら……」と、力ない声で名前を呼び、震えるように息を吐く。
「だいすき……」
苦痛で顔を歪めながらも、引きつった顔で何とか笑みを浮かべる龍翔。そんな龍翔はそれだけ言うと、ゆっくりと目を閉じ意識を失う。
「――え? 龍翔、くん……? 龍翔くん! 龍翔くんってば! ねぇ! 龍翔くん!! 龍翔くん――!!!」
それから消防隊や救急車が車での間、時間にして約三分間。晟はひたすらに、龍翔の名前を叫び続けた。