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二話

 ゲームをして、時間を過ぎると六時を回りそうだった。


「夕飯はどうするんだ?」


「母さまが作ってくれてる」


「そうか……よかったな」


 最後の言葉は小声だった。


 僕の母は毎日夜遅くまで働いている。いつも帰って来るのは九時を回った時だ。僕は冷凍食品を冷蔵庫から選び貪る毎日が続いている。


「じゃあ、俺帰るわ。塾の準備あるだろうし、早めに帰るわ」


「そうか、じゃあな」


 玄関まで見送ると、海は自転車に乗って帰っていった。誰もないリビングに戻り食事をする。


 電子レンジから、冷凍食品を取り出し、皿の上に中身を乗せる。今日の夕食はカルボナーラ、口に運んでも何も思うことがない。美味しいという言葉も出なければ、まずいという嫌な感覚も起きない。


 食事を済ませ、シンクに皿を運び、洗う。それが終わると、塾に行くだけだった。


「……熱中できない」


 海とゲームをやっている時も、熱意がこもらなかった。野球をやっている時は、一心不乱に熱中したが、終わってみると、ほかのことに何一つ熱中することができなかった。


 勉強にも力は入れている。だが、野球をやっていた時ほどの熱意はどこかへ消えていった。なくなってすぐは、正直怖かった。けれど、慣れてしまってからは、これが普通と認識して、野球をやっていた時が充実していた。そう考えるように変わっていった。


 六時三十分になり、自室から、塾の鞄を持ち、玄関で靴に履き替え、家の戸の鍵を閉める。そして、自転車に乗り塾を目指す。受験シーズンになってからは、ずっとこのことの繰り返しだ。帰って来るのは、十時三十分ぐらい。夏に一回、警察に捕まっているが、両親が家にいないため、どうしようもない。


 自転車を走らせ、塾に向かう途中、どうしても去年のことを思い出す。野球をやっていた時は、一切思い出さずに集中できていたのに、今になって蘇る。振り切りたいのに、振り切ることができない最悪の記憶。


「くそっ」


 一人でつぶやいても何も変わらない。今は勉強に集中する以外に何もない。


 塾に着けば、ひたすら勉強するだけだ。僕は、少し熱意が足りないため、スパルタ教育の塾に行っているが、重いのはほか点数が上がっている。結果は伴い、両親は喜んでいる。スパルタと言っても、腕立て伏せや、暴言が飛び交うというものではなく、勉強の時間がとても長い、宿題がとても多い、ただそれだけだ。それに必死で喰らいついていくだけで、結果的に成績は向上して行っている。


 塾の少し変わっているところは、マンツーマン授業であることだ。教室に何人もの生徒がいるのではなく、先生一人に僕ともう一人の生徒がいるだけだ。もう一人の生徒の学年は一年生のため、あまり先生は手を焼くことなく、僕に集中することが多い。その辺りは塾側が配慮してくれたのだろう。


 十五分もすれば、塾につき、自転車置き場でスタンドを立て、塾へ入る。スリッパに履き替えると、いつも通りの授業が始まる。


 指定された場所に座ると、隣の生徒がまだ来ていなかった。中学生は部活を考慮したうえで、七時スタートだ。今は六時五十五分。別に来ていなくても不思議な時間ではないが、いつも僕よりも早く着ているため、少し不思議に思った。


「先生、まだ来ていないんですか?」


 僕は担当の講師につい聞いてしまった。


 先生と言っても、大学生のバイトの学生だ。私立滝川大学の女学生で、心理学部の学生らしい。あまりプライベートのことは聞かないが、担当の教授からはかなりこき使われると、文句を授業の合間に耳をする。


「ああ、うん……それが、体調不良だって。大野木君も気を付けなよ」


 季節の変わり目の秋、体育の授業で、未だに半袖の生徒もいるため、一度僕も半袖で受けたが、凍えそうな冷たさを感じた。それ以来、ジャージを着て、体育の授業を受けている。季節の変わり目だけあって、体調の管理と、部活での疲労がきっと大変なのだろう。


「さすがに今年は、インフルのワクチンは打ちますよ」


「そうしてくれると、ありがたいですね……」


 去年、野球部の先輩の中に、インフルエンザにかかり、私立高校の受験を休んだ人がいた。結果的に、後で受けることができたため、問題なかったが、市立高校では、時間が少ないため、会場に行くことができなければ、それで終わる可能性も十分にある。


 去年と一昨年、インフルエンザにかかった僕は、そこに関しては、十分警戒している。


「それと、もう一人の子なんだけど、私が面倒みるみたいだから、今日一緒になるけどいい?」


「別に今のところは大丈夫です。滝川の問題も基礎は全部九割、応用が七割解けるようになったので、問題ありません。落す問題はちょっと、あれですが……」


 今まで行った過去問はどれも五十点満点中三十五点以上を出していた。年度によって、点数は多少ズレてきたが、それでも安定して合格ラインまで運ぶことができたのは、この先生のおかげだ。


「まあ、落ちる問題はみんな落ちるから気にしなくていいよ。本番の宇治高の方を今からやって、十二月に入ったら、また私立の方にシフトって感じでいい?」


「分かりました。それと、これが前回の高進連の結果です」


 高校進学連盟、略して高進連である。そこでは、二三か月に一回、県内模試が行われ、志望している人がどれだけいるかのチェックと、合格率が表示される。その中で一番気になったのは、私立高校のことだ。順位は決して良くはない。七百人のうちの百十五番目。合格率で言うと六割以下で、宇治高校よりも下にある。


「まあ、こればっかりはね……私立はあんまり気にしないでいいよ。どうせ人多くとるし……気軽にいるといいけど、無理そうね」


 どうしてもこの紙を渡すと緊張してしまう。受験という事を今までにしたことがない僕にとっては、絶対に失敗にできないもの。どうしても緊張してしまう。


「失礼します」


 紙を渡し、先生との会話をしていると、隣から声が聞こえた。


「知ってると思うけど、土田佳奈美さん。一緒の学校だから知ってるよね」


「はい……」


 知ってる。今年から同じクラスになった一人だ。そして何より、この人は二年生のころに北海道の札幌からやってきた転校生。かわいいというよりは、美人のタイプで、同い年とは思えないほど落ち着いてる。


「よろろしくね」


「ああ、うん。よろしく……」


 どうしても僕はこの人が苦手だ。八方美人のような風格と、これは偏見かもしれないがどこか腹の中に抱える黒さを本能的に感じ取り、苦手だ。そして、こいつも今期のクラス委員だ。そこが一番苦手だ。


「起立、礼」


「お願いします」


 塾と言っても授業をするのには変わりはない。私語厳禁は当たり前。その区切りをつけるための号令をかけてから授業が始まる。


 多少気になったが、まずは英語の復習から入った。俺の目指す宇治高校は前期入試に数学と英語のテストがある。前期は後期入試よりも難易度はとても高く、合格人数も三分の一程度しかいない。落ちてしまっても問題はない。けれど、早く合格をしたい。そのことは先生も理解してくれている。


「どうしたの?」


「いえ……何でもありません」


 どうしても目を追ってしまう。どうしても警戒してしまい、自然に目線を送ってしまう。


 集中しろ、集中しろ、集中しろ。


 自己暗示をかけるが集中できない。


 ダメだ、今日はダメな日だ。


 そうわかる。ただそれだけだった。

 

 結局のところ、僕は意地を張っているだけだった。そんなことは分かっている。けれど、それには経緯があった。去年の合唱コンクールの前日、男子のクラス委員に声をかけられた。


 ほかに誰もいない校舎裏で僕にかけられた言葉はたった一つ。


「本番で歌うな」


 それだけだった。その意味わかる。僕は音痴だ。作曲家の孫でありながら音痴であった。身内の中には、絶対音感という音楽家の才能そのものを持っている人もいた。けれど、僕にあったのは、逆の才能。歌を壊す、歌を汚す、歌を破滅させる才能。音痴というのは、持って生まれた才能でもある。わざわざ音程を外して、歌うと違和感があり、大半の人間には敢えて、そうしていると分かってしまう。


 自分自身の技量は分かっていた。だから、その言葉に自然なほど納得できてしまった。けれど、嫌だった。自分が積み重ねたものが一言によって打ち砕かれた。


 その矛盾は決して相いれない。


 そして、本番を迎えた。僕たちの順番になり、ひたすら笑顔で、ひたすら口パクを笑顔で、ひたすら、演技をした。


 けれど、その時僕は優勝してほしくないと思った。自分が居なければ、あいつのしたことが正しくない、そうであれば、ずいぶん楽だっただろう。だが、現実はそうもいかなかった。


 甘い夢は泡沫へと変わり、僕たちのクラスは優勝した。僕は必要なかった。僕の練習は意味をなさなかった。僕はいらなかった。優勝したのに、僕は心が壊れそうだった。


 優勝した喜びはなく、敗北した嘆きもない。


 僕はこの合唱コンクールに必要がなかった。それだけが僕の中に残った。


 


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