第一章 ハンガーノック その4
英輪女子の生徒達に出迎えられて、校門をくぐる。沢山の人に慕われて、本当にありがたい事。感謝の気持ちを笑顔で表現して、皆様にお返しした。
今日も良い日だ。とてもとても素敵な日だ。そのはずだ。
それなのに、なぜ私は自分がこの場に居ないような気持ちになってしまうのだろうか。
それは、物心付いた頃からずっと私にまとわりついて離れない違和感だった。伊澄という名家に生まれついた私は、常に家族を含む周囲の人たちに「伊澄の家のお嬢さん」である事を期待されて育った。自分がやりたい事や、欲しい物ではなく、伊澄の家に相応しい振る舞いをいつも考え、汲み取って、実行する。今日のこともそうだ。交流委員会に私は本当に入りたかったのか。交流活動が本当にしたかったのか。もはや自分には判らない。ただ判っているのは、周囲の人たちは私がそうであることを望んでいると言う事。もちろん、それを実行して周囲の人たちが喜んでくれるのは、私にとっても嬉しいことだ。でも、私が本当に好きなのは。
周囲にそれと気づかれないほど完璧な作り笑いを浮かべて、物思いに耽る。脚はいつの間にか校門をくぐり、校舎へと向かう坂道を下り初めていた。
英輪女子は校門が少し小高いところにあって、校舎までは下り坂になっていた。向かいから帰路につく自転車通学の生徒達がやってくる。その進み方は二つに一つ。あまりの斜度に耐え切れず、自転車を降り押して歩くか、立ちこぎをして髪やスカートを振り乱して乗越えるか。
だが、一人だけ異端者が居た。周囲の生徒と違い、その表情は暗い。うつむき加減で、その姿は自らの行いを恥じる罪人のようにすら見えた。そんな力ない雰囲気であるにも係わらず、彼女を乗せた自転車は真っ直ぐに坂を登って行くのだ。その脚は、まるで彼女の心情と切り離されたかのように、軽やかかつ正確にペダルを回している。踏んでいるのではなく回している。サドルに座ったままで、無駄な挙動がほとんどみられない。まるでそこに坂など無いかのように進んでいく。力で踏み込んでるのではない。適切なギアを選び、基本に忠実なペダリングをしてシッティングで坂を登っていんるのだ。
そんな不思議な少女とすれ違う。
彼女は相変わらず顔を伏せていて、その相貌までは見通せない。ただ、癖毛が少し印象的だった。顔をそらし続けたままで、こちらに見向きもしない。そんな彼女の姿を私は目で追いかけてしまう。目だけでは追いつかず、すれ違った後も立ち止まり、振り返ってそのペダリングに見入ってしまう。
乗っている自転車は普通の軽快車、服も英輪女子の制服、それも着こなしがなっておらず可愛く見えない。その仕草はあのときの自信に溢れた様子とはまるで違い、酷く頼りない。だがそれでも、そのペダリングを私は見間違えようはずは無い。そう、あの走り、あのペダリングは、あの日、あの峠で、私を新しい世界に引き連れ、最後に押し上げてくれた人の物だ。
「伊澄さん?」
不意に立ち止まった私を、いつの間にか同じ交流委員の仲間たちが怪訝そうに伺っていた。
「あ、あら、ごめんなさい。つい」
「今の自転車の方、お知り合い?」
あの人は私の何だろうか?憧れの人であることは間違いないけど、あの峠での事を思うと、もう、ただそれだけではない気がする。じゃあ何?
少しだけ思案して、私は答える。
「私の心のお師匠様、でしょうか」
「お師匠様?剣道の先輩か何かでしょうか?」
それはちょっと教えられない。わけあって、事情を周りに知られては困るのだ。だからにっこり笑ってこう言った。
「ナイショです。」
私はその時も普段どおりに笑顔を作ったつもりだった。だが、後日この時の事を話してくれた交流委員の友人は「この人も、こんな風に笑う事があるのか」と、とても驚いたと教えてくれた。普段の笑顔とは全然違っていたと。では、いったいどんな笑顔だったのか?問質すとその友人は。
「ナイショだよ。」
そう言って笑った、それはとても楽しげで、少し悪戯な、素晴らしい笑顔だった。そうか、私はこのとき、こんな顔をして笑っていたのだと思った。






