第一章 ハンガーノック その1
これは不味いかもしれない。
私こと、日野末子がそう気がついた時には、もう手遅れだった。
自分の体の境界線がどこにあるのかわからなくなるような浮遊感が最初に来た。そしてついさっきまで元気にペダルを回していた足が不意に脱力して、まるで速度が出せなくなる。視界もこころなしかボンヤリし始めて、遂には意識も少し薄くなった。そして何よりも強く感じるのは、耐え難い空腹感だ。
コレってアレだよね、ハンガーノックってヤツ。本当にこんな風になるんだ。
ハンガーノックとは、空腹の状態で運動を続けることにより、極度の低血糖に陥ってしまう事を指す。主な症状は、前述の通り。漫画的に表せば「オラ、腹がへって力が出ねぇ・・・」という感じだ。漫画ならギャグで済むが、自転車乗りがこの状態に直面するのはかなり危機的な状況だ。決まったフィールドで行うスポーツとは違い、サイクリングは屋外の公道で行われる。レベルが上がれば上がるほど、その行動半径は広がっていき、その行く先もどんどん郊外へと向かい、人里から離れて行くのが一般的だ。そうして出かけた先でハンガーノックになり身動きが取れなくなれば、どうなるか、想像に難くない。
幸い、本格的に症状が出たのは今日のルートの主な峠を全て登り切った後の帰路だった。それでも自宅まであと20km以上ある。道中に補給を調達出来るような場所はいくらかあるが、圧倒的に不足しているものがある。所持金だ。なんとゼロである。なにせ財布が手元に無いのだ。
財布を学校に忘れたことに気づいたのは、昨夜の就寝前。今日の練習のために自転車やジャージを準備している時だった。記憶を辿れば学校に置き忘れたのは確実なので、それほど不安は無く、
なに、問題ない。朝になったら出かける前にお母さんから食事代をせしめれば良いや
と気楽に構えていた。
しかし翌朝、当てにしていたお母さんは近所づきあいで早々に出かけてしまっていて既に姿は無く、他にお金をめぐんでくれそうな家族も皆、珍しく家を空けていた。それでもなお、私の危機意識は薄く、お昼の一食ぐらい抜いても構わないだろうと思っていた。自室に残っていた小銭、157円。これだけあれば、途中で飲み物ぐらいは買える。水分さえ補給しておけば、とりあえずしのげるだろう。と、今にして思えば後悔しかないような事を考えていた。さらに悪い事に、私は元来ひきこもり気質で、朝食を取るという習慣があまりない。本格的なスポーツというのも、1年ほど前に始めた自転車が最初で、運動前の食事がいかに重要か、まだ理解出来ていなかった。体動かすんだから、せめて何か食べなくてはと、最低限の常識を働かせてなんとか食パン1枚を飲み込んで、あとは普段の通り、週末の練習に出かけてしまった。
この日のルートは、走行距離約120km 獲得標高約2500m。峠を大小合わせて5つ越えていく、私の実力からすれば、どうにか走りきれるギリギリの厳しい内容だった。それを食パン1枚で乗り切ろうというのだから、無茶、無謀と謗られても仕方が無い。
なんとか家に帰ろうとペダルを回すがやはり力は入らず、こんな有様であと20kmを走るのは不可能に思われた。体調が悪くなれば心も弱るもので(このまま帰れなかったらどうしよう)と不安がどんどん膨れていく。
お財布されあれば、学校に財布さえ忘れなければ。いや待て、学校。そう、学校だ。学校の教室に行けば、置き忘れた財布がそこにあるのだ。今居る場所からなら、家よりも学校の方がだいぶ近い。多少遠回りになるが、このまま自宅まで走るぐらいなら、学校にある財布のお金で食事をし、十分に休憩してから自宅を目指した方が、遥かに安全だ。
相棒のロードバイク、anchor RS6のハンドルを切り、ルートを変えた。
体調は優れないはずなのに、体は軽い。いや、軽いと言うよりは、重さを感じる器官が麻痺してしまっているという感じだろうか。漂うように前に進む。もう踏み込むような力は無く、軽いギアをゆっくりゆっくり回していく。体が思うように動かないと言う事は、こんなに怖いものなのかと、自分の感情の変化に驚いた。
校門が見えた。
あまり好きではない学校が、今日は輝いて見える。
青一色の派手なサイクルジャージに、スポーティなロードバイク。こんな姿で学校に入るのは少々躊躇われるが、背に腹は換えられない。私は生きる。私は生きて家に帰って、魔法少女アニメを見なければならないのだ。
今日は土曜で、学校には部活動や生徒会など、一部の生徒が来ているだけで、人気はまばらだ。時間も既に夕方でそれほど運動に力を入れていない我が校では、もうグラウンドで練習している生徒の姿も無く静かだった。そのおかげで私は誰ともすれ違う事無く、校舎の昇降口まで行く事が出来た。
出来ればこの姿は、学校の人には見られたくない。学校の私「日野末子」と、自転車に乗る私ハンドルネーム「ブラウ・アプリ」はまるで別人だ。自転車に乗っている時だけ、私は成りたかった理想の私で居られるんだ。だから、駄目な私、大嫌いな私を知っている学校の生徒達にはこの姿で出会いたくない。
昇降口にも人の姿は無いが、校内では文科系クラブ等が活動をしているらしく、人の気配はあった。遠くからは、音楽系の部活であろう演奏の練習の音も聞こえてくる。
ビンディングシューズがコンクリートを叩く音が、静かな昇降口にはよく響く。
上履きを履こうか迷ったが、忍び込んでいる身で堂々と下駄箱を開けるのもどうかと思うので、シューズを脱いで靴下で校舎へ入る事にした。
制服で歩くのが日常の場所を今日はヘルメットにアイウェアをつけたまま抜き足差し足進むのは、ちょっとしたスリルが味わえて面白い。しかし、楽しんでばかりも居られない、何せそうしている間のも体調は益々悪くなり、真っ直ぐ歩くだけでもかなりしんどい。
脱いだビンディングシューズを左右それぞれの手に持ち、身を屈めて自分の教室を目指す。上履きを履かずに歩くリノリウムの廊下は靴下越しでも酷く冷たい。
そうして命からがら辿りつた2年生の教室。これで真っ当な食べ物を口に出来ると、心から安堵した。
しかし、私はまたしても、大切な事を忘れていた。教室の引き戸に手をかける。毎日空けている引き戸、木の扉に、金属製の掘り込み引き手。指をかけて、引いた。だが、開かない。二度、三度と引いたところでようやく気づく。
鍵がかかってる。
考えてみれば当然で、私も何度か施錠して鍵を職員室に届けた事がある。だが、空腹で血が巡らない頭は、そんな当たり前のことを思考するエネルギーすらも既に失っていたのである。万一の鍵のかけ忘れを期待して、教室後ろ側の入り口も試してみたがやはり開かない。さらに3つある廊下側の内窓も全部試したが駄目だった。安堵から絶望に突き落とされ、いよいよ意識が遠くなってきてしまう。校内に居る誰かに助けを求めるか?いや、それだけはしたくない。何があっても。校舎からなんとか這出るように抜け出して来たが、もう校外に出る気力すら無く、せめて人目に付かないようにと、体育館裏の空きスペースに身を寄せた。
体育館の外壁に自転車を立てかけ、自分も壁に背中を預け、その場に座り込む。ヘルメットを外すだけの動作ですら、とても億劫だったが、かぶったままでは体も休まるまいと、どうか外した。とにかく休もう。休めば多少は体調も戻るに違いない。というか、もう一歩も動けそうに無い。
そういえば、先週峠の麓で会ったあの娘、今日は会えなかったな。また会えるかな。会えたら子度こそ、友達になれないかな。
何故か今の状況とは関係ない事が頭をよぎる。視野が狭くなり、意識もさらに薄れてきた。このまま寝ちゃうのかな。寝るっていうか、コレもう気絶だよね。あー、ちゃんとこの後起き上がれるのかな、私。
その時、ふと甘い香りがあたりに漂っていることに気づいた。えっと、なんだろうこの匂い。そう、女の子の匂いだ。私と違って、この学校が似合うような可愛らしいお嬢様達は、みんないい匂いがする。その中でも、これは極上の部類に入るだろう。きっととびきりの美少女に違いない。
「あ、あの・・・大丈夫ですか?どこかお加減でも悪いのでしょうか?」
ミルクティーに上等なホワイトチョコレート溶かしたような、甘くて柔らかい声だった。
ぼんやりとした視界に、いつの間にか女性らしき人影が写っていた。私を覗き込んでいるようだが、もうその姿もはっきりとは認識できない。初めての会った人のような気もするし、どこかで出会っていたような気もする。この声も、どこかで聞いたことがある気もするし、初めて会話した人のような気もする。誰だろう?ここの生徒だろうか?出来れば英輪女子の生徒には会いたくなかったんだけどな。でも、これで助けて貰えるなら。
「あの、私・・・ハンガーノックになっちゃったらしくて・・・」
かすれた声で、どうにか答えた。しかし、「ハンガーノック」なんてエンデュランス系スポーツでしか使わないような専門用語の部類だ、それで普通の女子高生に判ってもらえるとは到底思えない。(しまった)と、言葉を選びなおそうとするが、とうとう言葉を喋る気力すらも無くなりつつある。たとえ発見してもらえても、適切な処置をしてもらえなければ回復は見込めない。
「た、大変!私、食べ物探してきます。ちょっと待ってて下さい!!」
だが、その女生徒らしき人影は、私の言葉だけで事態を察してくれたらしく、慌てた様子で駆け出して行った。助かるのかな私?と薄い意識の中で考えていると、すぐに彼女が戻ってきた。
「まずはこれ、ゆっくり飲んで下さい」
口元に何かが含まされている。舌先に炭酸の刺激と甘い味覚。コーラだ。
ハンガーノックに陥りかけた時、とっさに出来る回復手段として、コーラを初めとしたカロリーの高い清涼飲料水はとても有効だ。液体で体に吸収されやすいし、何より、日本国内なら自動販売機がいたるところにあるので入手しやすい。完璧と言っても差し支えない対応だった。
体が糖分を求めてる。コーラが信じられないほど美味しい。こんな美味しいコーラ、生まれて初めてだ。いや、コーラだけじゃない。こんな美味しい飲み物、私飲んだ事無い。
慌てて飲み込もうとして、軽くむせる。口元から少しコーラが流れてしまった。
「大丈夫ですよ、慌てないで」
丸めた背中を優しくさすってもらう。すると、コーラとは別の甘い香りが鼻をくすぐった。そう、最初に感じた、あの「良い匂い」。
まるで乳飲み子に戻ったかのように、私は与えられたコーラをゆっくりと飲み干した。そして、私を助けてくれた女生徒も、子供をあやすように優しく私に触れながら、介抱してくれた。
「飲んだら少し横になって休んで下さい。しばらくすれば、糖分が体に吸収されて多少なりとも動けるようになりますから」
妙に専門的な言葉をかけられ、その場に寝かされる。地面のコンクリートが硬くて気になったが、今は体を休める事が先決と、言われた通りに、女性との助けを借りてその場に横たわる。
「ちょっと、頭あげますよぅ」
促されて体を起こすと、何か柔らかくて暖かいものが頭に触れ、甘い香りがよりいっそう強くなる。頬に触れるのは、制服独特のプリーツ加工されたスカートの生地。見えなくても判る。膝枕だ。お嬢様(推定)の膝枕だ。
「あの、私今汚れてて、汗とか埃とか、色々。制服、汚れちゃう」
私なんかの為に、天使のような貴方様を穢すわけには行かない。退こうとすると今度は柔らかな手が私の髪にそっと触れた。
「大丈夫ですよ。頑張って走ったんですから、気にしないでゆっくり休んで下さい」
その声は、どこまでも甘くて柔らかい。
「そうだ、子守唄でも歌ってあげましょうか?」
私が肯定も否定も出来ずにいると、彼女は静かに歌い始めた。優しく耳に染み込んで来るような歌声は、正に子守唄。なんとか保っていた意識が少しづつ遠のいていく。さっきまで、一人で意識を失うのが怖くて、必死に耐えていた。でも今は違う。すぐそばに、体が触れてしまう距離に、私を助けてくれる人が居る。その安心はとても大きい。
眠ってしまいそうで、もう言葉も出せない。だからそっと心の中で呟いた。
ありがとう、私のお嬢様。
それともう一つ、彼女に伝えたい言葉がある。言葉というよりは問いだ。彼女の歌が始まってから、ずっと気になってた、気になる。とても気になる。でも、もう言葉に出来ない。だからもう一度、眠りに落ちる寸前に、心の中で、彼女に問いかけた。
何で、子守唄が『自転車ショー歌』なのさ?