序章-1-2「心《こころ》の場合」その2
笑顔で挨拶をくれたこの人こそは、ハンドルネーム『ブラウ・アプリ』さん。本名は知らない。どうやら女子高校生らしいという事まではプロフに公開されている。自転車の実力は並みの下といったところで、本格的な競技レベルには程遠い。バイクも入門レベルの廉価品をほぼ無改造で使っていて、とりわけ目立つ所は無い。女子としての容姿も平凡だ。笑顔を浮かべる頬にはそばかすが浮いていて、スキンケアが疎かになっている事が露呈してしまっている。ヘルメットから覗く髪は無造作に束ねられていて、少し天パ気味なのか、あちこち在らぬ方向に跳ねている。健康的な可愛らしさこそあるものの、美人、美少女と呼ぶには憚られる。
いかにも凡庸な感じだが、それでも。『ブラウ・アプリ』さんには、サイクリスト達を惹きつけてやまない魅力があった。
とかくサイクリスト達の間では、レースの成績や峠等でのタイムトライアルの持ちタイム等、実力で付き合いの序列やグループが決まりがちだ。だが『ブラウ』さんはけっして物怖じせず、イベントやちょっとした走行会にやって来ては、ベテランの実業団レーサーから、昨日初めてスポーツ自転車に触れたばかりの初心者まで、沢山の人達と交流し笑顔を振りまいて去っていく。実力に係わらず、共に過ごし、共に走った人達は皆、彼女とまた一緒に走りたいと心から願うのだ。そうしていつしか、彼女は、この辺りの愛好家達の間で話題となり、時にみんなの妹として、時にみんなと気の会う明るい友人として、また時には頼れるお姉さんとして、ご当地の自転車乗り達の間でちょっとした有名人になっていた。
かくいう私も、自転車に乗り始めた最初の頃に声をかけてもらった事がある。まだロードバイクを買ってもらったばかりで右も左も判らない私にずいぶん時間を割いて基本的な乗り方や自転車の扱い方を教えてもらった。最初は慣れなれしくて、(なんだこいつ?)って感じだったけど、初めて会ったはずの私をまるで十年来の幼馴染かのように接し、我が事のように親身になって色々な事を教えてくれようとする彼女と接するうち、すぐに好きになってしまった。
まだスマホも持っていなければ、SNSなんて存在も知らなかった私は、その場で連絡先を交換する事も出来ず、引っ込み思案な性格もあって、それ以来、こうして彼女を遠くから観ることしかできなくなってしまった。
今日だって、言葉を交わそうだなんて思ってなくて、ただ遠くからヒルクライムに挑むその姿を一目観られれば、それでよかったのだ。それなのに。ああ、それなのに!私に挨拶してくれるなんて。
今日は人生最良の日だ!!