第一章 ハンガーノック その8
「どうしよう。こんな事になるなんて、思いもよらなかった。」
私は一人、個室に籠って悩んでいる。
ここは、お手洗い。
正確には、先ほどまで居た峠の麓から少しばかり市街地側へ戻った所にある道の駅の女子トイレの個室の中である。
私の想い人、いや、相手は同い年っぽい女の子なんだけど、でもやっぱり日々、思い焦がれている人なのだから想い人って言葉で合ってるのかな。とにかく気になって仕方がなかったあの人と、あろうことか、一緒に峠を登る事になってしまった。
あの日、峠の麓で私こと、伊澄 心と、その私の憧れの女子高生サイクリスト、ハンドルネーム:ブラウ・アプリさんは出会い、言葉を交わした。そうなれば、自転車乗り同士の自然な流れとして「じゃあ、一緒の登ろっか?」となった。
またとない機会に、私はもちろん了承し一緒にヒルクライムを楽しむ事にしたのだが、その時問題となったのが、春先でまだ冷える朝の空気に晒されて、少しづつ近づいて来ていた私の尿意だった。
「登る!登りたいです!!でも、その・・・ちょっとだけ待ってもらえると、あの・・・」
言い淀む私の様子にブラウさんはニヤリと笑う。ちょっと鼻の下を伸ばしたような、楽し気だけどいやらしい笑い方。
「もしかして、トイレ?」
「ひゃっ!なんでわかったんですか!?」
「そりゃわかるでしょ、恥ずかしそうな顔して脚モジモジさせてたら」
青いアンカーをくるりと翻し、彼女は私を誘う。
「まずはおトイレ行こ、道の駅まで!」
展開に付いて行けず、私は動けない。
「それとも、山頂で漏らす?」
そう言って、彼女はまたいたずらな笑みを見せる。それは本当に魅力的で、つい見惚れてしまいそう。どうしてだろうか、女の子としては整っているとは言い難い容姿のはずなのに、私の視線はいつの間にか熱を帯びて招き寄せられてしまう。
だが、そこで彼女の言葉の意味がようやく頭に入力された。
漏らす?自転車に乗ったまま??とんでもない!!
その光景を想像しただけで、顔から火が出そうだ。慌てて声にならない声を上げ、身振り手振りで否定を表す。
「あはははは!じゃあほら、自分の自転車に乗って、乗って!」
女性らしからぬ豪快な笑い声をあげて、私を促す。
ハンドルを握り、サドルに腰を落とす。まずは左足だけ、ビンディングをパチン。そこまでしたところで顔をあげると、すでに何時でも走り出せるようすのブラウさんが私を待ってくれていた。
「おっけー?そんじゃ行くよ~」