とっくに世界を滅ぼしている
食堂は端から端まで歩くのに一分かかりそうな立派な物があるけれど、わたし達は冷たい印象のダイニングより、バルコニーにキャンプ用のテーブルを出して、森の様子を眺めながら食事をするのが好きだった。
暗くなり始める空は絨毯を重ねたような雲がゆっくりと動いていて、ピンクとも紫ともつかない淡い光が、雲の間をぬって、丘の斜面を染めていた。
せまってくる森は、朱色やオレンジ、そして黄色の紅葉に染まっていて、ゆっくり波打つ丘との境目は、鏡のような湖が、景色を映していた。
「どうしたのレティシア。食事が進んでないみたい」
そういって母は、ティーンエイジャーみたいに小首を傾げた。四十台半ばにはとても見えない。
特別にエクササイズをしている所は見たことがない。母の美貌は、執念とか、目的とか、普通の人には抱えきれない物が支えて、成り立っているように見える。
「ごめんなさい……風邪を引いたみたい」
風邪は嘘だけど、気分が悪いのは本当だった。一週間ほど前から吐き気が止まらない。
今日の夕食は、マーマレードのソースがとても相性のいいチキンのローストで、母はあっさりとした甘みのシフォンケーキを焼いて、ローソクを立ててくれた。
わたしは、自分の誕生日を知らない。それを教えてくれる人は、物心ついた時にはもういなかった。きょうはわたしが母の家にやって来た日で、それを母は記念日にしようと言ってくれた。
今日、十一月の三日が、わたしの生まれた日だ。ケダモノであることをやめて、よき娘になることを、決意した日だ。
突然、耐えられなくなって、わたしは食事のテーブルを立った。
トイレに走って、今食べたものを吐き出そうとしたけれど、苦しいだけで、なにも出てはこなかった。
背後で、静かにメリッサが立っているのが、気配でわかった。
「……話したくなければいいのよ、レティシア。でも忘れないで。どんなことがあってもわたしはあなたの味方。わたしにはあなたを守れるだけの経済力も人脈もある。必要であれば相談して。悪いようにはしないわ」
母にはすべてお見通しだ。毎月やってくるべき物が遅れていて、もう三週間になる。母親になるなんて、なんだか現実感がなかった。
「ありがとう、メリッサ。ごめんね、心配かけて」
「いいのよ。わたしはあなたの母親。逃げることも、投げ出すこともできない。それがいいの。そうでなければわたしは……」
「そうでなければ?」
「……忘れて。寂しい中年の独り言よ」
わたしは、その言葉の先を知っている。メリッサは、母は、こう言おうとしたのだ。
そうでなければ、わたしはとっくに世界を滅ぼしている、と。