石に刻むように
たとえば、目の前で妻を犯されたら、どんな気分だろう?
あるいは夫が殺されたら、どうだろう。妻の命乞いをしながら、自分の苦痛には構わずに、ただナイフと斧で、ゆっくりと殺されていったら、それをなすすべもなく眺めているのは、どんな気分だろう?
たとえば、目の前で幼い娘が、なぶりものにされたら? 泣きながら、なにが起こっているのかも分からないまま、内臓を引き出されて、物を言わぬ人形になっていくのを見るのは、どんな気分だろう?
それが、母、メリッサに起こった出来事だ。
母は、確かに善意の人だった。
まだ若くて未来のビジョンに溢れていた頃、国境なき医師団の、少々医学の心得がある看護師として、メリッサはウクライナの戦場に向かった。
そこで、現地のボランティアの青年と、母は恋に落ちた。戦場のロマンスだ。
もし相手の青年が、親欧派の連絡員でなかったなら。当たり前の普通の市民であったなら。メリッサの人生は違うものになっていた。
ずいぶんとかけ離れた仮定ではあるけれど。
母と母の家族は、現地の人々に恐怖を刻むための道具となった。
奇跡的に一命をとりとめた母は、医師団の名簿から姿を消し、アメリカに戻ったのは三年後だった。
その間に、いくつかの親ロシア派組織が、謎の襲撃を受けて壊滅した。
アメリカの特殊部隊の仕業だとか、グループ内部の内輪揉めだとか、いろいろ噂が立ったそうだ。
昨夜の母は、銃を使いこなしていた。まるで、手になじんだキッチンナイフを使うように。
アメリカに戻った母は、殺人者の心理を調べ、犯罪の発生する仕組みを研究した。何年もの間、人類の闇に向き合った。
そうして、世界の不幸をなくす為にささやかな力を出し合う人たちの、コミュニィティを作った。
でも、そんなに簡単だろうか?
人は、努力で絶望を薄められるのだろうか? 心がけで憎しみを忘れられるのだろうか? 理念で闇を払えるだろうか?
わたしには、そうは思えない。
誰も殺していないわたしですら、いまでも、うなされて目覚める時がある。
痛みは、絶望は、石に刻むように、魂に刻まれる。
朝日が差し込んでいた。窓の外に鳥の声が聞こえた。
ノックがあって、ドアが少し開けられた。
「御寝坊さんね、学校に遅れちゃうわよ」
Tシャツにジーンズの母は、エプロンをつけて、にっこりと微笑んだ。ゆうべの出来事が嘘だったみたいに。




