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短編集

お呪験

作者: セキムラ

 いつからだろう。


 ママ友たちの「うらやましいわぁ」が「うらめしいわぁ」に脳内で自動変換されるようになったのは。


 裕子は頭を抱えてため息をついた。


 卓郎と結婚して七年。

 二十八歳で長男を授かり入籍した。

 五年経った今、二歳になったばかりの長女もいる。

 長男は公立の幼稚園に入れた。

 小さいうちから色々と縛りたくない、それに経済的にそこまで余裕がなかったというのが表向きの理由だが、実を言うと裕子は息子に英才教育を施したかった。

 自分の父のように堕落した人生を送って欲しくなかった。また夫の卓郎のように夢を追う人間になるかもしれなかった。夢破れたときに頼りになるのは自身の能力だけだ。手数は大いに越したことはないが、手に職があれば食べていけるという時代でもない。夢を追いかける時間なんて後からいくらでも作れる。今は教育の時だ。夢を見る暇もないくらいに努力をすべき時だ。そうすればきっと。

 なるなら医師だ。

 裕子はそう決めていた。

 大企業の重役や一部の企業家、商売で成功したものなどを除けば、平均年収は明らかにトップクラスだろう。金があれば幸せな人生だなどと短絡的に考えているわけではないが、金がない人生よりはいい。

卓郎に話す前に母に相談した。豪放磊落な母は取り合ってくれなかった。

 仕方なく義母に打ち明けた。

 義母は一人息子の卓郎のことしか考えていないということが、このとき解った。彼が営むカフェを手伝わなくてはならないため遠くの私立まで出向く時間が取れなかった。母親参観以外にも、親が幼稚園へ行かなければならないイベントが大量にあった。それらに出席できないということは、「子供の教育に積極性がない」と判断されてしまう。

 幸い、自宅近くに有名私立付属の小学校がある。そこは、付属は小学校からで幼稚園からのエスカレーターがなく、小中高一貫教育の結果、大学進学率は99.9パーセントという名門中の名門だった。

 受験させるならばここしかない。

 裕子は長男に小学校受験をさせ、それを成功に導くために綿密な計画を立てた。

 学習塾に通わせる。

 音感を鍛え、はっきりとした発声を獲得するためにピアノやバイオリンではなくボーカルスクールに決めた。

 スポーツはダンス教室を選んだ。天候に関係なくコンスタントに練習でき、熱中症やしもやけとは無縁だ。これで幼稚園の遊戯や発表会でとちることはなくなるし、ダンスが必修化されて恥をかくこともない。

必修と言えば、裕子の中では英会話教室がそれにあたる。

 ネイティブのように話す必要は今のところないが、習っておいて損になることは何一つない。

 息子のスケジュールはどんどん過密になっていった。

 教育費は自分たちの生活のグレードを下げることでねん出した。

 カフェの仕入れに自分たちの食事も混ぜることぐらいは朝飯前、いかに経費を浮かして利益を上げるかに躍起になっていた。

 夫婦仲が悪いと受験に響く。

 どんな状況でも、裕子は良き妻を演じた。おかげで二人目も生まれた。

 夫は満足そうにしていた。

 息子は始めのうちはぐずったり上手くできないこともたくさんあったが、年長さんになる頃には求めた通りの男の子に成長した。

 新しくできた「お受験組」のママ友たちは口を揃えて裕子とその家族をほめたたえる。

 ご自宅がカフェなんて素敵だわ。休日は親子でママにお料理を? うらやましいわあ。

 それにしてもご主人と仲がよろしくって。いつも手を繋いでらっしゃるのね。うらやましいわあ。

 息子さんは沢山習い事をなさっていても、ぜんぜん文句も言わないし。運動会のダンスなんてお宅の子が一番光ってたわ。うちの○○なんて、ねえ?

 お歌の会でも素晴らしかったわあ。うちもバイオリンなんてやらないでボーカルスクールにすればよかったわ。

 本当に、坊ちゃんのことを考えて色々工夫なさっているのね。素晴らしいお母さんをもってあの子は幸せね。

「「「「「うらやましいわあ」」」」」




「おはようございます。お母さん」


 息子は子育て情報誌のモデルの様な笑みを浮かべて挨拶してくる。

 時刻は午前七時を回ったところだ。お受験を考えていない家庭の子供ならテレビにかじりついていることだろう。

 我が子はと言えば、交通事故の凄惨な現場を映すテレビ画面を一瞥して「可哀想だね。パパはいつも安全運転をしてくれるから大丈夫だよね。いつも家族のことを考えてくれるパパで安心だよ」と台本に書かれたようなセリフを独り言のように言う。

 自分で畳んだ幼稚園の制服身を包み、朝食が準備されたテーブルに向かう息子の背筋はピンと伸びており、視線はまっすぐ前を向いている。

 幼稚園に入る前はよく遊んでくれていた祥子ちゃんだったら、きっとまだパジャマのままか、お気に入りのクマさんと幼稚園の制服を汚さないために別の服をわざわざ着ていることだろう。

 我が子が朝食をこぼすことなどない。

 習い箸はとうに卒業した。今ではアジの開きだって左手を使わないで箸で食べられる。

好き嫌いは言わない。

 わずかな粗相でさえも許さない。

 全ては貴方の将来のため。

 そう教え込んだのは自分だ。

 それがこんな結果を招くなんて。




 いつからだろう。


 息子の一挙手一投足を観察し、指導し、彼女の考える理想の姿に矯正する妻を異常だと感じるようになったのは。


 卓郎は首を捻って我が子の姿を見つめた。


「おはようございます。お父さん」


 息子は口角をわざとらしく吊り上げて、毎月歯医者に通ってクリーニングしてもらっている白くて美しい歯を見せて朝の挨拶をしていた。誰よりもねぼすけで、眠たい目をこすりながら乱れたパジャマの裾を引きずっていた五歳児はもういない。父親の目に映っているのは皺ひとつない制服に身を包んで「朝ごはん、楽しみだなあ」と言いつつ、一部の隙も無い姿勢で座る人形の姿だ。

 いつしか彼の中で、昆虫は触れて生命の神秘を感じる存在ではなくなった。ただ観察し、訊ねられればその生態を挙げ連ねて知識をひけらかすための道具になり下がった。そのくせ一匹で虫かごに入れられている蝶々の絵など見せられれば、「蝶々はとてもキレイで見ていて楽しいです。でも虫かごに入れっぱなしは可哀想。それに、蝶々はお花と一緒に居ると、もっとキレイに見える」などと目を大きく見開いて言うのだ。

きっとこいつの内面は死んでいる。

 能面のように起伏のない、俺たち大人の求める通りの行動を取るだけの木偶人形になってしまったのだ。こいつが顔に出す感情はみんな作り物だ。大人たちが押し付けた仮面がそのまま顔に張り付いて肉と同化し、頭の中まで入り込んで操っているに違いない。

 卓郎はキッチンから出てきた裕子をにらみつけた。


「……私のせいだって言いたいの」

「そうじゃない。だが」

「お父さん、お母さん、どうしたの? ケンカはよくないよ?」


 険悪な空気を素早く察し、息子が眉を下げて目を潤ませた。


「それとも怒っているの?」


 息子はいたずらなど絶対にしない。

 無邪気な好奇心などからくる奇抜な行動をして叱らせてもくれない。

 卓郎と裕子は顔を見合わせて首を横に振った。

 先ほどまでの涙はどこへ消えたのか。息子は不思議そうな顔をして小首を傾げた。眉の上で切り揃えられた前髪が揺れ、卓郎はその下で瞬く漆黒の瞳を見て吐き気をもよおした。

 無邪気だ。

 息子の心には一点の曇りもない。

 彼は教えられた通りにしただけ。

 言い付けを忠実に守っただけなのだ。

 お兄ちゃんだから、妹の面倒を見てあげてね?

 かつて裕子が言った言葉に従っただけなのだ。それをどうして、怒ることなどできようか。

 裕子は、お気に入りのグラスを息子が勝手に取り出して割ってしまったときに。

 卓郎は、作りかけの帆船のプラモデルを息子がいじくって壊してしまったときに、彼の頭にゲンコツを落とした。

 二歳の長女が、ばら撒かれたジグソーパズルのピースの上に倒れていた。1000ピースもあるもので、長男が繰り返し「触ってはダメ」と言い置いていたものだ。

 言い付けを守らなかったものは罰を受ける。

 息子は大人の言う通りにした。

 誰が責めることができようか。

 卓郎は110番をプッシュした。

 受験は失敗だ。相手が出る前に妻に告げた。

 裕子は床に崩れ落ちて泣いた。

 息子はニコニコと、その様子を眺めていた。






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