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「迷宮には数の魔法がかけられている」
マグメルは書架の前で両手を広げ、宣言するように言った。
「迷宮は、たしかにその構造の複雑さで人を迷わせるが、本当に厄介なのは結界だ。迷宮の結界は人の感覚を狂わせ、目を眩ませる。記憶があやふやになって、本来ならできて当前のことを間違える——一本道にさえ迷う。目の前に見えているはずの入り口、あるいは目的そのものすら見逃してしまうんだ。その神秘の力の源こそ、数だよ」
「数……」
トゥーレは小さな声でつぶやいたのだが、マグメルはちゃんと聞きとって、うなずいた。
「そう。数。魔術は大別してふたつ。言葉によって精霊と契約し、使役する精霊魔術と、数の力によって空間を迷宮化する、数魔術だ。言葉は、万物に名前をつけて支配した神々の力に起因する。だが万物に名を付けて支配した神々でさえ、無限にある数を支配することはできなかった。数の持つ力を操ったのが、大地と知恵の神さ。大地の神は迷宮の創始者だ。そして我々迷宮の管理者は、数の神秘の力を操る魔術師なんだよ」
トゥーレはトリスケル城の図書室で、迷宮について教えをうけていた。
マグメルがつれてこられた翌朝のことである。
あのあとマグメルは広間で食事を与えられ、休むための部屋も用意された。拘束はされず、見張りもつけられていない。
城内には、この寛大な処置について異議を唱える者もいた。マグメルは信用できないというのがその言い分だ。
たしかに、ずっと反抗的な態度でいたのだから、急に協力すると言ったところで不審がられるのも無理はない。マグメルがはなはだしく偏屈な性格であることは、明らかだった。素直に迷宮を解くとは思えないとか、逃げだすのではないかと、あやぶむ意見ももっともだろう。
だがイースが誰にも手出しをさせないと宣言したあとは、不機嫌そうに黙りこくってしまったために、皆もそれ以上の反対はできなかった。イースは決して支配的な指導者ではなかったが、仲間は皆、狼の群れが最上位の雄に従うように、彼に服従していた。
たとえイースたちに不満があろうと、マグメルを公正に扱うのは当然だと、トゥーレは思う。そもそもむりやりさらってきて従えと脅しておきながら、承諾すれば今度は信用できないというのは、あまりにも理不尽だ。
それにトゥーレは、たしかにこのマグメルという若者は性格は気むずかしく、ひねくれているが、彼なりに筋をとおす人物ではないかと感じていた。
傲慢は誇りにも通じる。姑息に周囲を欺くには、彼は気位が高すぎるように思えた。
マグメルは衣嚢から木炭を取りだした。
「神聖な数の力に満ちた迷宮には、神々でさえも迷うんだよ、トゥーレ」
そう言って、図書室の床にひざまずいて数字を書きはじめた。
8、1、6
それから行を変えて
3、5、7
さらに続けて書いた。丸みのある、おおらかな字だった。
4、9、2
8 1 6
3 5 7
4 9 2
魔方陣だ。縦、横、斜めのいずれの列においても、足した数が同じになる。3×3の魔方陣は最小の魔方陣で、回転させたものや鏡に映したものをのぞけば、数の組み合わせはこのひとつきりだ。
「神々は五百年もの昔にこの世界を去ったけど、下位の精霊は神々についていけず、今もこの世界に残っている。彼らは単純で、こんな小さな魔方陣が持つ力にさえ迷い、封じられるんだ。迷宮は人よりもむしろ、精霊を惑わしてさけるためにあると言ってもいい。でないと魔術師に使役された精霊に、たやすく迷宮を破壊されてしまうだろうからね」
トゥーレは床に書かれた魔方陣をしげしげと見た。こんなにも小さいのに、ゆるぎようのない調和と完全性を感じた。
(きれい……)
隣にいるマグメルも同じように感じいってるのが伝わってきた。たとえ彼の心のなかにわだかまりがあるにしても、今は数の美しさの前に屈託を忘れているように思えた。
「あの、マグメルさん——」
「マグメルでいいよ。敬語もいらない」
切りこむように言った。
「えっと……迷宮には魔方陣が使われてるの?」
「よく使われるけど、すべてにじゃない。ほかによく使われるのは幾何学かな。測量から発生しただけあって、迷宮っていう建築物との相性がとてもいいからね。ほかにも数列や数単体でも強い力を持つものはいくつもあるし、迷宮の結界にも使われているよ。0とか1とか、あと人気があるのは素数かな」
「人気?」
「これがけっこう大事なんだ。きみは好きな数ってあるかい?」
トゥーレはちょっと考えこんだ。
「……俺が好きなのは9かな」
マグメルは思わずというように笑った。
「9か! たしかにおもしろいよね」
そう言って魔方陣の横に、力強い音をたてて数式を書きはじめた。
98765432×9+0=888888888
9876543×9+1=88888888
987654×9+2=8888888
98765×9+3=888888
9876×9+4=88888
987×9+5=8888
98×9+6=888
9×9+7=88
「こんなのもあるよね?」
トゥーレはマグメルの手から木炭をうけとると、父に教えてもらった数式を書いた。マグメルにくらべると、我ながら細い字だった。
1×9+2=11
12×9+3=111
123×9+4=1111
1234×9+5=11111
12345×9+6=111111
123456×9+7=1111111
1234567×9+8=11111111
12345678×9+9=111111111
「うんうん。いいね。きれいだよね!」
マグメルは子供のように無邪気に喜んだ。トゥーレもなんどもうなずいた。
「数の美しさには、理屈抜きに相手を圧倒する力があるんだよ、トゥーレ」
「うん。わかる」
数のつらなりにそなわった統一性と規則性には、侵しがたい調和があった。子供が書いたような単純なかたちのなかに、深い真理があらわれているのだ。
神でさえ、この数の神性に圧倒され、魅了された。どうして人間が逃れられるはずがあるだろう。
「感動することは数の力の本質ではないけれど、多くの人を感動させるってことは、それだけ力も大きいって推論できる」
「……さっき言ってた『人気が大事』って、そういうこと?」
「そう。迷宮には、こんなふうに人を圧倒する数式や図形が巧妙に隠されているんだよ。もともと寸法や重量を正確にはかってつくられた建築物には、数を隠しやすい。そしてその隠された数や図形が、結界をつくりだす力のもとになっているってわけ」
マグメルの声には、どんどん熱がこもっていくようだった。数の世界に没頭し、自分が拉致されたことも脅されて迷宮を解くはめになったことも、忘れているように見えた。
おそらくは、この饒舌なマグメルが、本来の彼の姿なのだろう。父の友人にもマグメルのようによく喋る人がいた。だが反面、怒ると完全に黙りこくってしまったものだ。
言葉によって世界と関わる人にとって、沈黙は断絶を意味する。つれてこられたばかりのマグメルが頑として黙っていたのは、それだけ激怒していたことのあらわれだったのかもしれない。
マグメルは先刻描いた魔方陣に線を描き足して、それぞれの数を升目でかこんだ。
「もういちど魔方陣を例にしてみよう。たとえば先刻の3×3の魔方陣の力を迷宮に利用する場合、同じように3×3に並んだ九つの部屋を作って、それぞれの部屋のどこかに魔方陣と対応した数を隠す。床の敷石に彫りつけたり、柱の本数で対応させたりね。そうやって結界を張るんだ。ちょうど、精霊魔術師が精霊を呼びだすために魔法陣を描くみたいなものだよ。もちろん3×3の部屋なんてのは単純な例で、実際はもっと複雑にしているけど。それでも迷宮のなかには、どこかに必ず手がかりが隠されているはずだ」
丘の上の迷宮にも、王国の権標だけではなく、感動をもたらす美しい数があるはずだ。それを思うと胸が高鳴って、今すぐにでも隣の丘に探しに行きたくなった。
(でも……)
トゥーレは我に返り、かすかに眉をひそめた。
「……こんな完全で強力な力を、どうしたら破ることができるんだろう?」
結界を破ると言うことは、この美しい調和を破るということではないのか。そんなことが可能なのだろうか。証明された定理は、神でさえ覆すことができないのに。
「数の美しさに感動しなければいいのかな?」
マグメルは首をふる。金褐色の巻毛がゆれた。
「それは感受性に乏しいだけだね、トゥーレ。逆だ。充分に感動して、理解するんだよ。深く理解することで力は自分のものになるんだ」
「理解——」
「さっきの9を使った数式でも、数式を見るだけじゃなくて、自分の頭と手を使って実際に計算してみるだけでぜんぜん違ってくる。ほかにもこんな式はできないかとか、変形できないかとか、自分で探すとさらにいい。一般化したり証明できれば、もう完璧。きみはそういうの得意そうだよね、トゥーレ」
「……得意かどうかわからないけど、数式をいじるのはわりと好きかな」
「それで充分。好きで飽きないっていうのは、いちばんの才能だ」
マグメルは力強い調子で、トゥーレをほめてくれた。
そして手をあげて、図書室を指し示した。
「重要なのは、結界を術者の意図に沿うように効果的に張るには、場の特性をよく理解しておくことが必要ってことだよ。たとえばこの図書室に結界をかけるときも、室内を移動するときの視点の変化とか陰の位置、死角なんかをうまく利用すると、結界の効果は二倍にも三倍にもなる」
言われて、トゥーレは図書室をあらためて見わたした。
細長い部屋だ。二階が吹き抜け廻廊になっており、高い壁はすべて書架になっている。だが一階の床にも背の高い書架がいくつもの列をなして並んでいるので、部屋の全貌を見わたすことはできなかった。
書架と書架のあいだには、暗がりがある。なにかがひそんでいるとは思わなくとも、視界が効かないということは本能的に不安なものだ。
「数は論理的で普遍性のあるものだけど、結界に目を眩まされるのは人間だからね。心理的な効果っていうか、おかしな言い方だけど迷宮の演出って大事なんだよ。音の反響なんかも重要かな」
「じゃあ、同じ数式や図形を使っていても、ぜんぜん印象の違う迷宮ってこともありうるのかな」
「そうだよ。数の力はたしかに完全で強力だけど、精霊のような感情や指向性を持ったものが由来ではないから、力そのものにはなんの性格もない。その力をどう使うかは術者しだいなんだ。ここですごく個性がでる。術者としてはすごく弱い結界しか張れないけど、迷宮管理者としてはきわめて難解な迷宮をつくる人もいるぐらいだよ」
「結界の強さが、そのまま迷宮のむずかしさになるわけじゃないんだね」
「うん。弱い結界ってのも意外と厄介なんだ。自分の感覚が狂っているって気づかないまま、どんどん悪い方向へ迷ったりするからね。あからさまに影響を受けているって自覚できるくらいの強い結界のほうが、ましだって思うことも多いくらいさ」
「迷宮には、管理者の個性がでるってことか」
それはトゥーレに、希望をもたらした。数は完全で、神々でも覆せないが、人間が相手なら、なんとか勝機がありそうだ。
マグメルもうなずいた。
「そのとおりだよ、トゥーレ。だから迷宮の結界を解こうとするときには、まずは迷宮の設計図や見取り図を徹底的に検討すること、そして迷宮管理者の癖や傾向を調べることが重要なんだ」
そこでマグメルは巻毛を指にまきつけ、ほどいた。
「——だから、迷宮の見取り図がないなら、せめて前の迷宮管理者の専門や研究分野なんかの資料がほしいんだけどね。ぜんぶなくなったんだっけ?」
「うん……」
トゥーレは悄然とうなずいた。
前の王は、迷宮の管理者たちを殺し、迷宮に関係のありそうな書物や書類、測量などの道具、管理者の私的な持ち物まですべて処分している。前任者たちの専門知識や業績などがわかるようなものもまったく残されていない。
あとを継ごうというのに、トゥーレは彼らの名前も知らなかった。
トリスケルの迷宮を思いだす。暗がりなどはなかったが、林立する無数の直線にかこまれ、しだいに感覚があやふやになって、歩くにも苦労した。あれがトリスケルの迷宮に張られた結界だったのだ。
あの結界から感じたよそよそしい気配は、そのままトリスケルの迷宮管理者たちとの距離感だったということだろうか。
「前の迷宮管理者の資料は、キーン様がずいぶん探されたけど、ぜんぜん見つからなかったらしいんだ。迷宮管理者の情報って、迷宮そのものの情報と同じくらい秘密に扱われるとかで、城内の人ですら迷宮管理者の名前を知らないんだって」
最初にことの次第を聞いたときは、おかしな話だと思ったものだ。だがマグメルに説明を受けて、トゥーレにもやっと納得できた。
「キーンって、あの白髪の爺さんかい?」
「うん、そう。イース様の参謀をつとめていらっしゃる方だよ」
マグメルは顔をしかめた。
「俺、あの爺さんは嫌いだ。イースって野郎の参謀ならなおさらだよ。あいつが調べたって言うなら、信用できない。もういちど、きみと俺とで迷宮管理者の手がかりを調べなおそう」
トゥーレはすぐには言葉を継げなかった。
「え? で、でもキーン様は——」
イースを諫めていた側ではないかと擁護しようとしたが、マグメルは手をふってトゥーレをさえぎった。
「そもそも俺は、この城の人間はきみ以外、まったく信用してない。きみには恩義があるから、協力して迷宮を解くつもりだ。きみは数学の楽しさも知ってるしね。だけど、ほかの奴らの力は借りたくない。顔も見たくないし声も聞きたくない」
マグメルはうろたえるトゥーレに、きっぱりと言い放った。
「俺は奴らが大嫌いだ!」
「…………はあ」
(やっぱり、腹に一物あるんだ……)
知恵をもって迷宮を解くことはできても、人の心の確執は解けないのだ。
当然と言えば当然である。むしろ今の状況で、わだかまりが残っていなくては不自然だろう。
「あの、フィリグラーナからの道中じゃ、たいへんな目にあったみたいだね」
なだめるつもりで話をむけると、マグメルは顔をしかめた。
「そりゃもう。いきなり袋をおっかぶせられてさ。馬車や船をのりついで、北の森に逃げこんだんだよ。特に森まではかなり必死の逃走で、荷物以下の扱いだったね。殴られこそしなかったけど、ぐるぐるまきに拘束されて狭い船底に隠されたり、苦しかったのなんのって。おまけにフィリグラーナじゃ春になっていたけど、北の森はまだ雪も深くてさ! 俺もけっこう寒い地方の生まれだけど、あの森じゃ凍え死ぬかと思ったよ」
自分の責任ではないのだが、トゥーレは恐縮した。
「お、お察しします」
「すっごく腹が立ったからさ。意地でも奴らの思いどおりになるもんかって決めて、最初はだされた食べ物にも、頑として手をつけないでいたんだ」
マグメルの強情でひねくれた性格なら、本当に餓死するまで断食しかねない。
(あれ? でも——)
「……たしか、殴られて無理に食べさせられたって……」
おずおずと言うと、マグメルはちょっと眉をよせた。
「それは少し違う。俺はこうと決めたら、殴られたくらいじゃ態度を変えないよ。よけい意固地になってやるね」
そのあたり、自分の性格に自覚はあるようだ。
「ただあのときは食べるのを拒否して五日くらいたってから、俺もけっこう朦朧としていてさ。無理に食べさせようとした奴ともみ合いになって、わざとじゃなかったんだけど、食べ物を地面に落としてしまったんだ。そうしたら『いい加減にしろ』って、あのときはじめて殴られて——」
マグメルはため息をついた。
「それまでも、俺が食わなかった分は奴らが食っていたんだ。……で、そのときも、俺が地面に落とした食べ物を奴らは拾って、丁寧に土を払って、大事に食べてた」
その声の調子に、トゥーレは思わずマグメルを見た。マグメルは神妙な表情で、もういちどため息をついていた。
「……それから、食べるのを拒否しなくなったの?」
「うん。とりあえず奴らのことは大嫌いだし、反抗は続けようと思ったけど、でも地面に落とした食べ物を誰かに食わせるなんてしたいわけじゃない。食べ物を粗末にするのはよくないことだ」
「そうだよ! 食べ物があるなら大切に食べなきゃ。反抗するのはまたべつの話だよ」
つい力説すると、マグメルは笑った。
「だよね」
素直な、子供のような笑顔だった。
マグメルはたしかにひねくれている。それも筋金入りだ。
だが彼なりにきちんと筋をとおすし、充分に信頼できる人物なのだと思った。
マグメルは腕を組んだ。
「さてと。迷宮管理者の情報はまたあとで探すとして、とりあえずトリスケルの迷宮を見てみたいな。結界があるからたいしたことはわからないだろうけど、実際に建物を見て感触をつかんでおきたいから。必要なら、見取り図……っていうか、地図をつくることも考えなきゃいけないし」
「じゃあ俺が案内するよ。城門の鍵は俺が持ってるから」
「頼むよ」
マグメルは微笑んだ。
「列柱の迷宮か。楽しみだな」