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トゥーレはそのまま部屋に残された。アシュリンからなるべく遠く離れた隅に立ったところで、蒼い衣の吟遊詩人が入ってきた。
トゥーレが残っているのを見ると、詩人はにこりと笑った。
「——さて、最後の志願者だな。私はキーンだ」
詩人は優雅に膝を折った。
「私は吟遊詩人です。名前はありませんので、どうぞお好きにお呼びください」
「なるほど、名無しの吟遊詩人か。創世神話にでてくる詩人にあやかったのだな」
キーンも品良く笑った。
「ではさっそく知恵試しをしよう——なんでもよい、私たちに問題をだしてみなさい」
この問題に詩人はなんと答えるだろう。いや、詩人はどんな問いをなげかけてくるのかと、トゥーレは息をつめて待った。
詩人は驚いた様子も見せず、まず軽やかな声をたてて笑った。
「吟遊詩人が語る物語は、つねに謎であり、聞き手への問いでございますわ」
そう言って、ゆたかな胸に手をあてた。
「なぜなら物語の背後には、つねにその何倍もの長さの、語られぬ物語が存在しているからです。そして言葉にされた物語さえ、たしかなものではありません。登場人物はすべて物語の聞き手自身の影にほかならず、心おどらせる冒険も、聞き手がたどる人生以上のものではないからです。それがたとえ太古の伝説だとしても、聞き手にとっては未来の予言となるでしょう」
この台詞には、トゥーレもイースも、キーンまでも呆気にとられた。
イースが苦笑した。
「なるほど。詩人の戯れ言だ」
「おおせのとおり。そして戯れ言の背後には、真実が隠れていると思し召しますよう」
詩人はしれっと言い返すと、抱えていた弦楽器を鳴らした。
「いまだ王冠をかぶらぬ王に、神々と、最初に王冠をいただいた英雄の物語を語ってさしあげましょう——」
——はるかな昔、世界は混沌としていた。
あるとき力ある精霊が万物に名前をつけようと思いたった。その精霊はまず、みずからを含む高貴で明澄な精霊を神と名づけ、世界の統治者とした。
それから神はあらゆるものに名前をつけ、支配下におさめていった。
ある神は、数をかぞえはじめた。しかし数は無限にあるので、いつまでたっても数え終わることができなくなった。間断なく数を刻む神は、そのまま時の神となる。
時の神は今も数をかぞえているはずだ。これからもかぞえつづけることだろう。数をかぞえ終わる瞬間は、けっしてやってこない。数は無限だからだ。
ゆえに神々は、永遠にすべての数を把握できず、支配することもできない。証明された数学の定理を覆すこともない。時間を逆戻りすることもできない——。
トゥーレもよく知る、創世の神話だった。
永遠に数をかぞえ続けるなど、たしかに神にしかできない御業だ。はてしない無限の彼方まで続く数を神のまなざしが追いかける、そのさまをトゥーレは想像した。永遠を見つめ続けながら、神はなにを思うのだろう。
人間には、けっして無限を手にすることはできない。しかし無限を考えることはできる。かつて、素数が無限にあることを証明した人間がいた。神もその証明には、頭をたれて従うしかない。美しい数や図形には、神々も人間も等しく魅了されるのだ。
トゥーレはいつしか夢見心地で、詩人の表情ゆたかな声を聞いていた。
「神々は、あるとき突然この世界を去りました。創世の奇跡が薄れた世界にいられなくなったとも、自身の永遠の生に絶望したとも、あるいは人間が強くなりすぎたせいだとも、さまざまに言われております。伝説では、神々はこの世界から去るとき、ひとりの英雄に神々の宝を託しました。世界の運命をも変えうる、大いなる力を持つ至宝です。英雄はその至宝の力で大陸を平定し、人間による最初の王国をたて、王となりました。それがフィリグラーナ王国です」
詩人が奏でる荘厳な調べが、軽やかで優雅なものに変化した。
「フィリグラーナには多くの神々の遺物が残っていますが、英雄に託された至宝を超えるものはありません。王都の地下迷宮に封じられている至宝、それこそがフィリグラーナ王国の権標です。その圧倒的な力が古き王国に並ぶものなき権威を与え、事実上の大陸の宗主国としているのです。神々が去りしのち、大陸にはあまたの国が建てられましたが、いずれもフィリグラーナにならって、支配者はまず神々の遺物を権標として奉じ、それを守るための迷宮を建てました。王が正当な支配者であることを示すために」
そこで詩人は、はるか彼方を見はるかすかのように、首をめぐらせた。
「北の地ティンブクトゥには大地と知恵の神の迷宮神殿があり、その威光をもってティンブクトゥはフィリグラーナに次ぐ大国とみなされています。南海のアラニビカ島にある鳥の塔は、神ではなく風の精霊をまつったもので、したがってアラニビカ島は王国ではなく公国とされています。そしてここ辺境の王国ウルガゾンテでは——」
詩人はめぐらせた視線をイースのところでとめた。
「王都トリスケルの三つの丘のひとつに、列柱の迷宮が建てられています。そこに封じられた神々の遺物の姿はわかりませんが、それこそがトリスケルの野に常春の祝福を与えているのだと伝えられています」
「その真偽を知っていたら、俺はすでに王になっている」
イースは感情もなく言い捨てた。
「戯れ言ついでに、トリスケルの迷宮についても歌ってみてはどうだ。お前なら、迷宮の最奥がどうなっているかも知っていそうだ」
「歌うことはできますわ。ですが私の口をとおして世にでるものはあくまで物語。真実ではございません。それを真実とするのは聞き手のあなた様です、イース様」
イースは閉口して肩を落とした。
「まったく、口の減らない女だな」
「商売道具ですからなくなっては困ります」
イースは笑った。苦笑ではなかった。
「俺の名前に様をつける必要はない。敬語も不要だ」
「——イース。これでいいかしら?」
無言のまま、イースはただ笑みを深めた。トゥーレとキーンは顔を見あわせる。
イースは足を組みかえた。アシュリンが邪魔そうに長い足をよけた。
「キーン。こいつは知恵者としてどうだ」
「え? あ、いや。そうですな」
突然呼びかけられたキーンは、取りつくろうように咳ばらいをした。
「吟遊詩人としては、歌声も楽器の技量も神話の知識も、群を抜いていることは疑いございません。また、歌もひとつの知恵のありようでしょう。……しかし、私たちがさしあたって必要としている知恵ではなさようです。なにより彼女は、あなたの家臣になるつもりはなさそうですし」
「そうだな。だが知恵には違いないのだから、役立つこともあるだろう」
イースは詩人にむかって言った。
「それに吟遊詩人は歓待しておくものだ。まだ旅にでないのなら、トリスケルの城に滞在すればいい」
「嬉しいわ。まだまだここで楽しいことが起こりそうなんですもの」
詩人はそう言って、笑顔をトゥーレにむけた。
イースが手を叩く。すぐに緑の服を着た男が入ってきた。
「こいつはトリスケル城の執事だ。城での生活のこまかなことはそいつに説明してもらえ。必要なものがあれば頼むといい。それから——」
ちらりと、大狼を見おろした。アシュリンは応じるように立ちあがり、トゥーレと詩人を見くらべてちぎれんばかりに尾をふった。
「アシュリンだが……ふたりともこいつに好かれたようだから問題はないだろう。だが念のため、アシュリンには人間の食べ物を与えるな。腹が減っているときは近づかないよう注意しろ。なにか食べているときは、絶対にちょっかいだすな。それから、じゃれついてくるかもしれないが、追われても逃げるな。どうせ追いつかれる。あとは——」
このときトゥーレは、一瞬だけ、本当に一瞬だけだが、イースに仕えると決めたことを後悔した。