3
二日後、トゥーレと詩人は町の丘をでて、王城のある丘にむかった。
王城は、もとはトリスケル一帯を守るための城塞だ。本来は戦のための砦なので、華やかな趣はない。殺風景なほど無骨な石造りの城である。
トゥーレは王城の丘をのぼる道の途中で、丘の周囲を見わたした。
目に入ったのはやわらかな色の海と空だ。そして丘の反対側に目を転じると、収穫間近の広大な田園が見えた。
遠くまでつづくなだらかな丘陵は、低い石垣で、編み目のようにくぎられている。収穫間近の麦がそよいで、風が今どこを走っているのかを教えてくれた。
トリスケルは常春の都と呼ばれていた。実際には冬に雪がつもったし、凍える日も多かったが、それでもウルガゾンテのような寒冷な国としては、格段におだやかな気候に恵まれていた。
ウルガゾンテの土地は痩せており、耕作に適した土地はほとんどなかったが、トリスケルの周囲だけはどんな作物もよく育った。トリスケルの城塞も、このゆたかな収穫を守ることを第一の目的として建てられたのだ。
トリスケルの春は神々の祝福であり、北の奇跡とも言われていた。
「きれいね」
詩人がつぶやいた。トゥーレも同じ思いだった。
それでも、その風景はトゥーレにとって、どこか他人行儀な気がした。トゥーレはトリスケル以外の地方の貧しさを知っていた。
そこかしこで岩肌があらわになった山々、強い風が吹きすさぶ荒野、泥炭地——ウルガゾンテのほとんどは、そんな土地だ。誰もが貧しく、いつも飢えている。
それらの風景を、トゥーレは静かな心で思いだした。
「……昔、神々がこの世界にいたころ、神々は聖地に住んでいらしたんだってね」
トゥーレは詩人に話しかけるともなくつぶやいた。
神々の聖地は、ウルガゾンテからはるかに遠い東の地にあったという。気候はのどかで水清く、大地は肥沃だった。火と戦の神の働きにより、魔妖からも守られていた。
神々や力ある精霊は、数百年もの昔にこの世界を去った。神々の聖地跡には今、人間の国が建てられている。事実上の大陸の宗主国である、フィリグラーナだ。神々がいた時代そのまま、現在もあたたかい気候とゆたかな実りに恵まれている。
ウルガゾンテの地方で生まれ育ったトゥーレには、トリスケルの春の祝福でも充分にすばらしいと思える。それでもそれは一都市とその周辺だけの奇跡であり、大国フィリグラーナ全土にあふれるゆたかさとはくらべものにならない。
これが世界の最果てに在るということなのかと、トゥーレは思った。
「ウルガゾンテは聖地からいちばん遠くにあったから、神様もここまでおいでになることは滅多になかったろうね。当時は危険な古代獣とか、魔妖もたくさんいたんだろうな」
ウルガゾンテの国祖も、邪悪な竜を倒した英雄だと、伝説にはある。その武勇をもって、神々にこの土地の統治権を託されたというのだ。
神々や古代の生き物は、どこに行ってしまったのだろう。そんなことを考えていると、詩人の笑う声がした。
「たしかに聖地は清浄で安全な場所だったでしょうね。でも魔妖がまぎれこむことだってあったし、聖地の外で暮らす神々や精霊も多かったのよ。竜をはじめとする古代の獣も、獰猛なものばかりではなくて知恵のあるものもいたし」
トゥーレはふりかえって詩人を見た。
詩人はトゥーレを見ておらず、かわりに淡い色の空を心地よさそうに見あげていた。
「外に興味を持って、危険をものともせず聖地をでた冒険者の神話や物語はたくさんあるわ。私はそういう物語が大好き。安全に守られて不自由もない場所をあえてでていくことこそ、物語の序章なのよ、トゥーレ」
トゥーレも詩人につられて空を見る。冷たく澄んだ青い色だけが、目に映った。
空の高い場所を吹く風は、氷の浮かぶ海をこえて、さらに西へいくのだろう。あるいは氷に閉ざされた凍土の、さらに北へ。
もしあの風に自分の魂をのせることができれば、水平線や地平線の彼方のさらに先を知ることもできるのだ。トゥーレはそんなことを想像した。
「……いい話を聞かせてくれてありがとう、詩人」
きちんと目をあわせて言うと、詩人は笑った。
「まあ、トゥーレ。こんなの、歌でも物語でもないのに」
それからふたりは、ふたたび城の丘にむかって歩きはじめた。
城のいちばん外側には高い壁が築かれていて、門塔には門衛が控えている。彼らはトゥーレたちに気づくと、威嚇するように槍をかまえなおした。
「なんだ、お前ら。物乞いか」
「違う。知恵試しにきたんだよ」
トゥーレが言い返すと、門衛たちはあらためてトゥーレと詩人を見つめ、それから顔を見合わせて苦笑した。
「物乞いだな」
トゥーレは言いかえさず、ただ唇をかんだ。せっかく詩人のおかげで軽くなっていた気分も、みじめにしぼんでしまった。
うつむくと、すり切れた衣服と汚れた裸足が見えた。せめてと顔や手足は洗っていたのだが、靴を履かずにここまで歩いてきたせいで足は汚れていた。
(やっぱり、だめだった)
予想できたことなので、それほど失望はない。嘲笑されたのは悲しかったが、自分が宿なしであることはまぎれもない事実だ。むしろ、自分のような者がよく城に行こうと思いあがったものだと、今さらながら呆れる。
トゥーレは城から立ち去ろうと、背をむけかけた。
その腕を、詩人がつかんでとめた。
「我こそと思う者は、誰でもいいんじゃなかったの?」
トゥーレをはなさずに、門衛たちを見すえて言った。
「なんだと?」
「衣装比べではないんでしょう。話も聞かずに身なりだけで相手を見下すだなんて、愚の骨頂だわ」
だが門衛たちは、かえって息巻いてきた。
「ふざけるな! 物乞いには違いないんだろう。さっさと丘の麓に帰れ!」
そうどなるや、門衛は槍の石突きで詩人を突きとばそうとした。
「詩人!」
トゥーレは咄嗟にとびだして、詩人をかばった。詩人がトゥーレを引きもどす間もなく、石突きがまともに肩にあたり、トゥーレはよろめいてしまう。詩人はあわててトゥーレを支えた。
「なにをするの、無礼なことを言ったのは私よ! この子はなにもしていないじゃない」
詩人が一喝する。人が変わったように鋭く厳しい声に、門衛たちはわずかにたじろいだが、たちまちのうちに怒鳴り返してきた。
「黙れ! さっさと行かないと、今度は刃のほうで突くぞ!」
くるりと槍を返す。トゥーレは詩人の衣を引いて逃げようとしたが、詩人はトゥーレをかばったまま、びくとも動かなかった。
「詩人! だめだよ、やめて!」
そのときだ。
「——やめろ。なにをしている」
言葉とともに、巨大な白い狼がトゥーレと門衛たちのあいだにわって入った。そのためトゥーレは、この白狼が言葉を喋ったのかと錯覚した。
あまり物事に動じないトゥーレだが、さすがにこの狼には仰天し、肝を冷やす。もともとウルガゾンテの狼は大きいが、この狼はそれよりもさらに大きい。北の地に生息しているという大狼だろう。トゥーレなど一口で頭から食べられてしまいそうだ。
門衛たちもおそれて後じさっていた。
「あら!」
詩人だけは大狼を見て目元を和らげた。大狼も太い尾をふって、詩人に歩みよる。大きな体なのに、足取りは子犬のように軽やかだった。
「自分が守るべき民に武器をふりあげるとはなにごとだ」
先と同じ声は、前にいる狼の口からではなく、門衛たちの背後から聞こえてきた。
トゥーレが見やった先には、長身の男が立っていた。歳のころは二十代後半ほどだろうか。大狼と同じ、冴えた銀色の髪が肩にかかっている。少し長めの前髪のあいだからのぞく瞳は暗い青だった。
顔立ちは整っていたが、眉目秀麗と言うには雰囲気が不穏すぎる。静かな立ち姿だが、そこには危険な力が秘められていると感じられた。
トゥーレは氷山を思いだした。海に浮かぶ氷山は、海面に見えているのはほんの一角で、実は海中にはその何倍もの氷塊が隠れているのだという。それを知らずに氷山に迂闊に近づけば、海面下の氷山に衝突し、船は大破してしまうそうだ。
男の冷然として硬質な雰囲気は、まさに氷のようだとトゥーレは思った。
丈夫で動きやすそうな皮の服を身につけ、腰には実用的な長剣を下げている。先だっての戦に雇われた傭兵だろうかとトゥーレは見当をつけた。
「これは、イース様!」
門衛は、あわてて銀髪の男に対してかしこまった。
(……イース?)
トゥーレは目をみはった。
それはトリスケル城の新しい主の名前ではなかったか。
「俺の名前で、我こそと思う者は誰でも名のりあげろと布告をしたんだ。お前たちは俺をほら吹きにするつもりか」
「め、めっそうもありません!」
(じゃあ、この人が新しいウルガゾンテの国王——?)
イースは腕を組んで、大狼と戯れている詩人を見ていた。詩人は手を伸ばし、白い毛皮に手を埋めるようにして大狼の頭をなでている。こねまわしている、と言ったほうがいいくらいの手つきだったが、大狼は嫌がりもせず、おとなしく詩人に頭をあずけていた。だが大狼の頭は、詩人の倍ほどもある。詩人が食べられるのではないかと、見ているほうは肝が冷えた。
ふいに大狼がトゥーレに視線を移し、ひときわ大きく尾をふった。
トゥーレは硬直した。逃げなければと思うが、体がすくんで動けない。
大狼は、トゥーレが逃げないと見て、さらに高速で尾をふった。首にまわされた詩人の腕をほどいて、トゥーレに歩みよろうとする。
「よせ、アシュリン。こっちにこい」
イースが大狼を呼んだ。アシュリンと呼ばれた大狼はしぶしぶ従い、イースの足下に戻る。イースは大狼の額をおさえつけるようになで、それからトゥーレを見やった。
「お前たち、知恵試しにきたのか?」
トゥーレはなんとか頭を縦にふった。
「ずいぶん痩せているな。名は?」
「ア、アルティマのトゥーレ」
「……アルティマか」
イースはほんのわずか、眉根をよせた。
「で、そっちの女は?」
詩人は泰然と微笑んだ。
「私には、名前はございませんわ」
「ないだと?」
イースが聞き返す。
詩人の緑の瞳のなかで、金色の粒が木漏れ日のようにちらちらと光った。
「ご存じでしょうか。神々が万物に名前をつけるとき、名づけられることを拒んだ精霊がいました。神はその願いを受けいれましたが、精霊はなににも属することができなくなりました。そして夜でも昼でもない蒼い衣をまとい、放浪者となったのです。それが『蒼い衣の吟遊詩人』——私です。ですから私には名前も、故郷もありません」
「そう言えば部族の古老にそんな物語を聞かされたことがあるな」
イースはうなずいたが、門衛は声を荒らげた。
「ふざけるな! 神話だろうがなんだろうが、イース様がお尋ねなのだから答えるんだ」
居丈高に言って前にでようとする。トゥーレはあわてて詩人をかばおうと前にでたが、門衛が手をだす前にそれをイースがとめた。
「かまうな。詩人は戯れ言をつむぐのが仕事だ」
「ですが、名のらぬような怪しい者を城に入れるなど危険です」
「名のったところで危険な奴は危険だ。それに神々も、こいつが名無しであることを許したんだろう。べつに神々にならうつもりはないが、奴らより不寛容だとは思われたくない」
なにやら不遜なことを言うと、詩人を見やった。
「……とは言え、呼び名がないのは不便だな。用があるときはなんと呼べばいい?」
詩人は笑った。
「もしほかに名無しの詩人がいないなら、『詩人』だけで充分かと」
「それもそうだ」
イースはうなずき、トゥーレと詩人にむかってあごをしゃくった。
「ではトゥーレ、詩人。こっちだ。ついてこい」
イースが歩きだすと、すぐさま大狼のアシュリンが彼を追いかけた。トゥーレと詩人も急いであとを追って、門塔をくぐった。
第一の門を入ると、岩だらけの斜面をのぼった先に、第二の門と城壁がそびえていた。第一の門と第二の門のあいだは急な階段でつながっている。
イースも大狼も、歩くのがはやい。トゥーレと詩人はときに小走りになりながら、遅れないように階段をのぼっていった。
トゥーレはイースの広い背中を見あげた。イースは一見無造作に、だが足音をいっさい立てずに歩いている。狩人か、傭兵のような足さばきだ。鋭利な雰囲気といい、イースは王には見えない。
少しばかり怖かったが、話しかけてみることにした。
「あの……国王陛下——」
「まだ陛下じゃない。俺のことは、ただのイースでいい」
イースはふりかえりもせずに答えた。
「……でも、イース様がウルガゾンテの新しい国王になるんですよね?」
「戴冠式をすればな。だが俺はまだウルガゾンテの国王じゃない」
たしかに戴冠式の話を聞いたことはなかった。正式に新しい王が即位すれば、民にもなにか祝儀があるはずだから、宿なしたちも気にかけているのだ。
「戴冠式はいつですか?」
「さあな。そいつは俺も知らないんだ」
なにがおかしいのか、イースは笑ったようだ。肩が小さくゆれる。だが笑ったはずなのに、トゥーレはなぜか萎縮するような心地を味わった。
「それより、なにか聞きたいことでもあるんじゃないのか」
「……はい。あの、この大狼はイース様が飼われているんですか?」
「飼っているんじゃない。弟みたいなものだ。母狼が死んだから、俺が育てた」
イースは手をのばし、アシュリンの額をかいた。アシュリンは気持ちよさそうに耳を寝かせて、イースにすりよった。
「アシュリンが怖いか、トゥーレ?」
「少し」
正直に答えると、イースはトゥーレを肩越しに見やって、また笑った。横顔だけとは言え表情が見えているせいか、先刻よりもずっとあたたかみのある笑みに感じられた。
「だがこいつはお前を気に入ったようだぞ」
それは餌としてですかと問い返しそうになったが、トゥーレは自粛した。
「気に入られてよかったわね、トゥーレ」
詩人も笑って言った。ふたりの言葉を肯定するように、アシュリンもふりかえり、尾をふる。複雑な気分で黙っていると、トゥーレの表情になにを見たのか、イースは声をたてて笑った。
門塔をくぐりぬけると、広い郭にでた。住居らしき建物や倉庫が建ちならび、大勢の人の姿が見える。獣の匂いがするということは、厩舎や家畜小屋もあるのだろう。
「大角鹿がいるわ! すてき、本物が見られるなんて!」
詩人が嬉しそうな声をあげた。見ると、巨大な鹿が十数頭、庭の一隅につながれている。目は柔和だったが、馬よりもひとまわり大きな体はそれだけで威圧感があった。
なによりも目を引いたのは、頭から生えている巨大な枝角だった。
「まるで木みたいな角だ……」
トゥーレは感嘆してつぶやいた。
「そうね。大狼と同じく、太古の生き物の血を引く古い獣の一種よ。年経て精霊となった大角鹿の角には、若葉がのびたり花が咲いたりするのですって」
「——それ、本当の話?」
「どうかしら。でもそういうこともありそうな、堂々とした角よね」
イースは腕を組み、大角鹿を見あげた。
「ノズの民の多くは、この大角鹿を飼って暮らしているんだ。北じゃ、農業はあまりできないからな。毛皮で服や靴をつくり、敷物もつくる。肉を食べ乳を飲み、糞は燃料にする。荷を牽かせるし、馬のように背中にも乗るぞ。もっともこいつらだけじゃ生きていけないから、森で狩猟もするが」
「ここにつれてきてるってことは、戦にも使ったんですか?」
大角鹿が群れをなして走ってきたら、あの角だけでも充分威嚇になりそうだ。ただ目がとても優しそうなので、戦にだすのは少し可哀想な気もした。
「戦には、あまりむいていない」
イースはわずかに眉をひそめ、認めた。
「だが北の地では馬よりもよほど役に立つ。寒さに強いし力もある上に、食べ物は苔でいいからな」
三人で大角鹿を見物していると、荷物を肩に担いだ男がとおりかかった。
「お、イース。キーン殿が探していたぞ」
トゥーレが思わず目をむいたほど、気軽な口調だった。イースと似た革の服を身につけ、剣を下げているところから察するに、同じノズの民かもしれない。イースも気安そうに、片手をあげて応えていた。
「ああ。今行くところだ」
「それと北の納屋だけどな、今日やっと修理が終わったから、いつでも使えるぞ」
「ありがたい」
イースは短く答え、トゥーレたちはその場をはなれた。
だがそのあとも、イースは何度も話しかけられた。
「ご老体が探してたぞ、イース。居館に戻ってやれよ」
「わかってる」
「イース! キーン殿がお前を探して——」
「ああ」
次第に増えてくる人々のあいだを抜けて、さらにすすむと大きな建物が見えてきた。四隅に塔をそなえたどっしりした建物で、見るからに壁が厚そうだ。窓は少なく、小さい。両翼には城壁がのびている。
ここがトリスケル場の居館だった。
なかに入ると大広間があった。外から見たとおり窓が少なく、薄暗かったが、高い明かり窓から柱のように光がさしこんでいる。そのせいで、広間はよけいにがらんとして見えた。部屋のおくには幅の広い暖炉がそなえつけてあった。
広間には三十人ほどの人間がすでに集まっていた。そのほとんどは長衣を着こんだ気むずかしそうな男たちだ。ほかには代筆屋らしき者、神官なども見受けられる。
宿なしのトゥーレと吟遊詩人だけが、明らかに異質だった。だが大狼のアシュリンが皆の注目を一身にあびているおかげで、悪目立ちすることはなかった。
広間の隣にはまたべつの部屋があるらしく、暖炉の脇に小さな出入り口があり、紋様を織りだした厚い緞帳でしきられていた。緞帳のむこうに人がいる気配はあったが、厚い布が音を消しているのか、どのような人物が何人いるかはわからない。
見ていると、緞帳をかきわけて老人が顔をだした。長い白髪を丁寧にくしけずった、賢人めいた老人だ。彼はイースを見つけると白い眉をあげた。
「イース殿! そちらにおられたのですか? ずいぶん探しましたよ。はやく、こちらへ」
「ああ。待たせたな」
あの老人がキーンだと、トゥーレは思った。
そのとき、イースがいきなりトゥーレの手になにかを落としてよこした。
「食え」
「え」
なにかと見ると、よく熟した林檎の実だった。
「あの」
「あとでな」
イースはそう言うと、アシュリンと一緒に隣の部屋に入っていった。
イースが入ると緞帳が完全におろされ、かわりに緑の服を着た男がすすみでた。
「——トリスケルの城主イースの名において、ただいまより知恵試しを行う。知恵者と認めた者には、城主より役目を与え、城内に部屋を与えるとする。名を呼ばれた者から順にこちらの部屋に入れ。ほかの者はここで待機せよ。なにか用があれば、扉のところに立っている衛士に声をかけるがよい」
皆が落ち着きをなくした。緑の服の男は部屋の空気に頓着せず、言葉を継いだ。
「ではまず、テルツァのリーマ。こちらへ」
うながされて、赤褐色の長衣の男があわてて緞帳をあげ、部屋に入っていった。
残された者たちは所在なげに部屋のあちこちに散り、遠まきに緞帳に注目していた。
「ひとりずつか。時間がかかりそうだね」
「そうね。まあ、気楽に待ちましょう」
詩人は部屋の片隅に行くと床に腰を下ろし、弦楽器を小さくつまびきはじめる。ほかの誰もが緊張しているのに、彼女だけは自然にくつろいでいた。トゥーレもほかにすることがないので、詩人のそばにすわりこんだ。
イースにもらった林檎を見おろす。両の手にどっしりと重く、よく色づいておいしそうだった。
(俺が飢えているように見えたのかな)
部屋には飾り棚があり、銀食器や美しく盛られた果物が飾ってある。この林檎もそこから取ってきたものだろう。
トゥーレは自分が食べるより先に、詩人に林檎をさしだした。
「食べる?」
詩人は嬉しげに笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも今は楽器を弾きたいからいらないわ。あなたがぜんぶ食べて」
トゥーレは安心して林檎を一口かじった。とたん、しゃきっと小気味いい歯触りがして、同時に甘酸っぱい果汁が口のなかに広がった。
家を失ってから、こんなにおいしい林檎を食べたことはない。トゥーレは大切に大切に一口ずつかみしめた。
ところが、トゥーレが林檎を半分も食べ終わらないうちに、先の赤褐色の長衣の男が両脇から衛士にはさまれて、緞帳のむこうからでてきた。
男は、これ以上ないほど面食らった様子だった。目も口もぽかんと開け、なにが起こったかまったく理解できていないように見えた。男はそのまま、ひきずられるように外につれだされていく。もちろん、緞帳のむこうでなにがあったのか尋ねることは誰にもできなかった。
待っていた者たちも、そろって困惑して顔を見あわせる。
「なんだ? いったいどんな問題をだされたんだ?」
「ずいぶんはやかったじゃないか。問題を解く時間はまともにもらえないのか?」
皆の不安を立ちきるように衛士が戻ってきた。皆の顔も見ずに緞帳のなかに入ると、入れかわってまた緑の服の男がすすみでた。
「では次! シリウスのパセット、こちらへ」
まだ若い男が、不安そうな面持ちで隣部屋にむかった。
トゥーレと詩人は顔をよせあった。
「……なんだろう。ものすごくはやかったけど、どんな難問がだされたのかな?」
「見当もつかないわ。でも今の人はすごくびっくりしていたわよね」
詩人の瞳のなかで、斑がちらりと光った。
「なにかわからないけど、驚かせてくれそうじゃない。おもしろそう。なにが起こってるか知りたいわ! はやく呼ばれないかしら」
詩人は本当に楽しそうに笑った。トゥーレもついつられてしまう。
だが一緒に笑いながらも、トゥーレは頭の片隅で冷静に考えていた。
(てっきり、大勢で一緒に知恵試しをするものだと思っていたんだけどな)
皆で同じことをして、はやさやできばえを競うと予想していたのだ。が、どうやら違うらしい。
(皆で一緒にはできない問題なのかな。だとすると、どんな問題だろう?)
ひとつの物差しではかるような知恵を求めているのではないということだろうか。
トゥーレが残り少なくなった林檎をかじっていると、ふたり目の男が衛士にはさまれて外にでてきた。
知恵試しが行われている部屋でいったいなにが起きているのか、なんとかうかがおうと皆が男に注目する。だが逆に男のほうこそ、自分の身になにが起こったのか問いたげな表情で皆を見わたしていた。
そしてこの男も、なすすべもなく衛士に運ばれていった。
待たされていた者たちは言葉をなくし、顔を青くする。詩人だけが涼しい顔で楽器をつま弾いていたが、それをうるさいと怒る者さえいなかった。
「さて、次の者は——」
緑の服を着た男が場の空気をものともせず、声をあげた。
トゥーレは林檎を食べつくすと、詩人に体をよせ、小さな声で問うた。
「ね、詩人。たとえば吟遊詩人が語る物語には、どんな知恵試しがあるだろう」
問題にさっぱり見当がつかないので、そんなことを尋ねてみた。詩人は手をとめる。
「……そうねえ……偽物のなかから本物を探しだしたり、王様の失せ物を探しだしたりって物語が多いかしら。解いた者はたくさんの褒美をもらって、幸せに暮らしましたって締め方が受けがいいわね。ああ、それから」
詩人はそこで不気味な和音を響かせ、芝居がかったふうに声を低くふるわせた。
「精霊や怪物に謎をだされた場合は、解かないと殺されることもあるわ……」
「少なくとも今日の知恵試しは、解けなくても殺されることはないみたいだけどね」
茶化す詩人を、トゥーレは淡々と受けながした。
部屋にいた者は次々に部屋に入っていき、追いだされていく。緞帳のむこうにとどまる者はいない。
とうとう、残るのはトゥーレと詩人だけになった。
「——では次! アルティマのトゥーレ。入れ」
呼ばれて、トゥーレは立ちあがった。詩人が笑って送りだしてくれた。
「がんばって」
緞帳はみっちりと織りこまれた重いものだった。寒さをさえぎるためか、内側にも薄い帳がおろされている。トゥーレは布をかきわけて部屋に足を踏みいれた。
思ったよりも大きな部屋だ。だが窓が小さい上に、蝋燭もなかった。暗さに目を慣れさせるため、トゥーレは目を細めた。
正面奥に木彫りの大きな椅子があり、イースが腰をおろしている。先刻会ったことなど忘れたかのように、無表情にこちらを見つめていた。
イースの横にもうひとつ椅子がおかれ、白髪の老人がすわっていた。
部屋にはほかに衛士がふたりと、緑色の服を着た男がいる。
もうひとり、正確にはもう一頭、白い狼のアシュリンがイースの足下に寝そべっていた。アシュリンはトゥーレを見ると顔をあげ、立ちあがろうとした。
「アシュリン。寝てろ」
イースがすかさずアシュリンを踏みつけて、立ちあがるのを阻止した。狼は仕方なくあごを前肢のあいだにうずめたが、尾をこっそりとふってトゥーレを見つめている。トゥーレはアシュリンと目をあわせずにすむよう、つとめて正面のイースと老人だけを見た。
老人はトゥーレに笑いかけた。おだやかなまなざしだった。
「これはまた、若い志願者ですな」
ウルガゾンテではあまり聞かない、洗練された大陸共通語の発音だ。彫りの深い顔からは年齢のせいだけではない威厳が感じられる。だが物腰は控えめで、声には親しみがこもっていた。
「私はキーンと申す者。見てのとおりの老いぼれだが、城主にお仕えしている。今回の知恵試しの発案者だ」
「アルティマのトゥーレと申します、キーン様」
頭をさげると、キーンは満足げにうなずいた。
「さて、トゥーレ。さっそく、そなたの知恵を見せてもらうとしよう。——なんでもよい、私たちに問題をだしてみなさい」