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ウルガゾンテは大陸の北西の端にある辺境の王国だ。東は隣国と接し、北には針葉樹の深い森が広がっている。森をぬけた北にあるのは、永遠にとけない凍土の荒野だ。さらに北には氷雪の地があると言われているが、たしかめた者はいない。
西から南にかけては海に面している。ウルガゾンテの西岸では、あちこちに石を円錐状に積みあげたものが見られ、そこからは流氷が浮かぶ青灰色の海が茫漠と広がっているさまが見えた。ウルガゾンテ西岸は大陸の西端であり、その大陸しか知らない多くの人々にとっては世界の最果てでもあった。
気候が寒冷で土地がやせているために作物はあまりとれない。国土は西方諸国のなかでもっとも広いが、飢饉が多く貧しかった。
長い冬は暗い夜と雪に閉ざされた。逆に夏は白夜が訪れたが、太陽の光はほのかで、日中に空を見あげてもまぶしいということはなかった。
その夏の空をあおいで、トゥーレは大きく息を吸った。
澄みきった青だ。はるかに高いところを鳥が飛んでいる。じっと見ていると、自分も玻璃のように透明になる気がした。爽やかな風が喉をとおるのも心地よかったが、涼やかな空気は空腹感を増して、トゥーレを現実に引き戻した。
トゥーレがいるのは、王都トリスケルの貧民街だった。粗末な小屋のあいだを豚や野良犬が走りまわっている。トゥーレは小さくため息をつくと、町の広場にむかって丘を登りはじめた。夏の日差しをあびていても、裸足の足裏に石畳は冷たかった。
トゥーレはトリスケルで生きる宿なしのひとりだ。宿なしたちのあいだでは『赤毛のトゥーレ』または『赤毛のチビ』でとおっている。その名のとおり、ややくせのある髪は薄汚れていてもなお目の覚めるようなあざやかな赤だった。
チビと呼ばれているが、背はそれほど低くない。ただ肩幅が狭く、痩せた背を丸めてうつむいているために実際より小柄な印象を与えた。赤毛の者によくあるように肌は青白いほど白く、よけいに貧弱に感じられる。トゥーレは十五歳だったが、皆からはもっと年少だと思われていた。トゥーレ自身がそれを訂正することはない。そしてトゥーレの本当の年齢を知る者はすべていなくなっていたので、誤解が正されることはなかった。
あまり喋らず、話すときも声はかぼそい。それでも言葉が聞きとりにくいと言うことはなかった。発音が明瞭なせいだろう。むしろ言葉を選びながら、ゆっくりと話すトゥーレの言葉は、いつまでも耳に残った。
雪もよいの空のような淡い灰色の瞳は、滅多に感情をあらわにしない。静謐な瞳は、宿なしらしからぬ思慮深さのあらわれとも、逆にいかにも宿なしらしい諦念のあらわれとも、どちらとも見てとれた。
トゥーレは坂の途中で立ちどまる。あまり空腹を気にしないよう努めているが、体は正直だ。ここ数日ろくに食べていないせいで、力が入らなかった。
(……とにかく、広場まで行こう)
貧しい国だが、王都には天然の良港があり、大陸を横断する大街道もかろうじてトリスケルまではとおっていて、商業はそれなりに発達している。乞食や宿なしが生きていける程度にはゆたかだった。町の広場ではときおり貧者にパンや粥がほどこされることもあった。
もしかすると今日あたり、食べ物にありつけるかもしれない。でなくとも、広場は人が集まる場所だ。市が立てば金が動き品物であふれるし、吟遊詩人は諸国の情勢や噂話を教えてくれる。パンや粥が配られなくても、なにか日雇いの仕事があるかもしれない。
トゥーレはふたたび丘の上を目指して歩きだした。
ウルガゾンテの王都トリスケルは、正三角形状に並ぶ三つの丘からなる都市だ。
三つの丘はそれぞれ高い城壁でかこまれており、ひとつの丘には神殿と広場を中心に、商人や職人などの庶民が暮らしていた。もうひとつの丘には水堀と堅牢な城壁に守られた王城があり、王をはじめ貴族や兵士が集まっている。
残る三つめの丘には、ウルガゾンテの権標である神々の遺物を封じた迷宮があった。迷宮の丘に続く道はなく、住んでいる者もいない。迷宮を管理する者だけが、出入りを許されている。
トリスケルにはトゥーレのようにいずれの丘にも属さない者もいた。貧民や宿なしたちは城壁の外、三つの丘にかこまれた低地に掘っ立て小屋を建て、風雨をしのいでいたのだ。
この春、戦があった。王城の丘は敵に攻めこまれ、壊されたり燃やされたり、殺されたりとおおいに混乱したようだが、町のある丘やその麓はあまり被害を受けなかった。もちろん皆無ではなかったが、混乱は少ない。敵が略奪を行わなかったからだ。
トリスケルの町の民は、むしろ新しく城主になった征服者を歓迎していた。どのみち顔も知らない王だったのだ。民にとって大切なことは不安なく食べて寝て子供を育てることであり、税さえ安くしてくれるなら、支配者の名前や血筋などどうでもよかった。
城の壊れた箇所を修復するため、トリスケルの町には工人の出入りが目立つようになった。隊商が街道をやってきて、市場に商人も戻った。泣き悲しんでいる者もいたが、町には活気が戻っている。宿なしたちも食べ物にありつく機会が増えて、戦の前より景気がよくなったくらいだ。
いつまでもこの状態が続けばありがたいが、呑気にそんなことを信じるほどトゥーレも世間知らずではない。もともと宿なしたちは、戦や飢饉の情報に敏感だ。内乱の起こったこの国を狙って周辺の国々が動いているという噂が、はやくも流れていた。
広場につくと、兵士を中心にして人垣ができていた。
今日は粥を配るかわりに、なにやら布告をしているようだ。話の内容は聞こえないが、人々は顔を見あわせ、なにやら興奮していると見えた。
気になったが、トゥーレは人混みにまじらず、遠巻きのまま人が少なくなるのを待った。トゥーレのような汚れた宿なしが近づくと、いやがる住民も多いからだ。彼らからは仕事や残飯をもらうことがあるので、面倒は起こしたくない。
周辺には、トゥーレのほかにも広場を遠くから見守っている宿なしたちがいた。
そのなかに、顔見知りの吟遊詩人が立ちまじっていることに、トゥーレは気づいた。
どれほど遠い異国からやってきたのか、いつも身にまとっている旅人の衣は宵のような蒼だったが、裾は泥が染みついてすっかり変色していた。相方にしているのも、ウルガゾンテでは見かけない、竿の長いほっそりした弦楽器だ。祝儀にもらった腕輪や指輪をいくつも重ね、あまった装飾品は飾り紐にからませて腰にまきつけていたが、それらもまた、見慣れない意匠のものばかりだった。
だが、詩人がいったいどこの国の生まれなのか、トゥーレは聞いたことがなかった。そもそも自分の名前さえ口にしたことがないのだ。少し、変わり者の詩人だった。
なにより風変わりなのは、この吟遊詩人が女ということだった。
女の歌い手もいないわけではない。が、たいてい旅芸人の一座のひとりだったり、貴族や大商人の庇護を受けていたり、あるいは遊女を兼ねていることが多かった。男でも奴隷狩りや盗賊をおそれて一人旅は避けるというのに、女の身で放浪する者は稀だ。
だがこの女詩人は、ずっとひとりで旅をしてきたという。少なくとも、去年の秋にトリスケルへやってきたときはひとりだった。
それでも、たしかに変わり者ではあったけれど、詩人はきわだって美しい声をしていた。歌うと場の空気が一変し、ものの色やかたち、小さな動きのひとつひとつまでがあざやかにきわだつようだった。
神話を吟じれば広場は厳粛な空気につつまれ、陽気な歌をうたえば皆が笑って手拍子を打った。詩人の古びた楽器も、ありとあらゆる音をつむぎだして歌に深みを加えた。
しかも詩人は、並はずれて多くの歌や物語を知っていた。毎夜どこかで物語を語っていたが、同じ話を二度したことはないと、そんな噂もあった。ウルガゾンテが一年の半分近くを雪と氷に閉ざされ、また夜もほとんど明けないことを考えれば、それは驚くべきことだった。軽妙な笑咄、痛快な冒険物語、詩趣あふれる異国の歌などなど、誰も知らない物語をつぎつぎに語り歌い、ウルガゾンテの長い冬の夜を多いに楽しませ、にぎわわせてくれた。
つまるところ、吟遊詩人として声と技量がたしかであれば、多少変わり者であっても、誰もなにも問題にしないのだ。トゥーレは少しだけ気にしていたが、それは名も故郷もない詩人のありようが、自分の境遇と似ていると思えたからだった。
詩人は、春になって雪がとければ、ふたたび旅にでるつもりでいたようだ。だが戦のせいで、春先から街道は危険になっていた。最近はそれもようやく落ちついてきたので、詩人もそろそろトリスケルをでていくかもしれない。
トゥーレは詩人の横顔を見つめた。長い栗色の髪に編みこんだ色とりどりの飾り紐が、祭の長旗のようになびいている。と、じっと見つめていたからだろうか、詩人も顔をあげ、トゥーレに気づいた。目があうと詩人はにこりと笑ってくれた。詩人の緑色の瞳には琥珀色の斑が入っていて、陽に透けた木々の枝葉のあいだで、光の粒がきらりと光ったようにも見えた。
そのとき、兵士たちの布告が終わった。兵士たちが帰り支度をはじめ、集まっていた町の人たちも散っていく。
兵士たちのいた場所には、布告に立ちあえなかった者のために、その内容を書いた高札が建てられた。
町の人々と入れかわるように、トゥーレたち宿なしは広場の中央に歩みよる。
高札には装飾のない文字で、簡潔な文章が書かれていた。
「なんのお触れだ? まさかまた戦じゃないだろうな」
「それはないだろう。商人どもが動きだしてないからな」
「新しい王様が決まったから、なにかお祝いでもするんじゃないか」
「そういや、まだ戴冠式をしてなかったよな」
「祝儀で食い物をふるまってくれるとか、銀貨を配ってくれたらいいんだがな」
推測ではない。皆、口々に願望を口にしているだけだ。そのあいだ、トゥーレは高札を見つめていた。
「トゥーレ。あなた、たしか字が読めたわよね?」
蒼い衣の吟遊詩人が話しかけてきた。トゥーレはほんの少しためらい、答えた。
「うん……少しだけ」
「なにが書いてあるか教えてくれないかしら。私、字が読めないの」
「俺が?」
見わたすと、ほかにもトゥーレを期待をこめて見る者がいる。トゥーレは黙ってうなずくと、ふたたび高札を見あげた。
「えっと……このたび、トリスケルの城主となった……イースの名において……トリスケルの民に告ぐ……あたらしい国を作るため——」
たどたどしく読みあげていった。
実のところ、トゥーレは文字を読むばかりでなく、書くことも得意だった。もっと古風で文法の複雑な文章でも、よどみなく読める自信がある。
だが、あまり読み書きに達者だと思われては、宿なしのあいだでは目立ちすぎてしまう。それを避けるために、トゥーレはわざと間をおいて読んだ。
「…………ん?」
トゥーレはわざとではなく言葉をきり、首をかしげた。
「どうしたんだ、トゥーレ。なにが書いてあるんだ?」
トゥーレは皆にふりかえった。
「……明後日、知恵試しをするって。我こそはと思う者は誰でも、登城して知恵を示せって、書いてる。知恵者と認められた者は、お城で雇ってもらえるそうだよ」
「——知恵試し?」
宿なしたちはいっせいに肩を落とし、うめいた。
「なんだよ。字すら読めない俺たちには関係ない話だったな」
「やれやれ。今日は広場に来たのも無駄足だったか」
「はやいところ戴冠式をやって、祝儀を配ってほしいよ」
皆、高札への興味を失ったらしい。背をむけて去っていく。
高札の前に残ったのはトゥーレと、蒼い衣の吟遊詩人だけだった。詩人は広場に残って歌でもうたうつもりなのかもしれない。
トゥーレはもういちど高札を見あげた。
知恵試し。知恵者と認められれば、城にて役目を与えるとある。忠誠を誓うなら身分や年齢、生国などは問わないとも書いてあった。
(イース——)
それが新しい城主の名前だった。
トリスケルにやってくる前は、王都からはるか北にあるノズの地の、豪族の若長だったという。
ノズの民は広大な北の大森林で、放牧と狩猟を生業にして生きている。特に彼らがとった毛皮は高級品で、そのまま税として徴収され、貴族や王に富をもたらした。けれどノズの民は高い税を取られ、貧しい暮らしを強いられていたそうだ。
去年の夏、イースは森に部族ごとに散在していた民をまとめて、北の地の領主を倒した。そして雪がとけるや、今度は王都トリスケルに攻めいってきたのだ。
辺境国とはいえ仮にも王都である。守備はかたい。城内には水がわいているし、食糧の備蓄も、少なくとも王や兵士たちの分は充分にあった。籠城すれば時間が味方になるはずだった。
だがイースはあらかじめ、トリスケルの貴族のひとりと密約を結んでいたらしい。噂では貴族の弱みを握り、脅かしていたともいう。真偽はともかく、誰かが王城の城門のひとつを開け、イースたちを城塞の内に招き入れたことはたしかだった。そしてイースたちは、それこそ半日もたたないうちに王城を攻めおとしてしまった。
町の民やトゥーレたち宿なしが理不尽な暴力にあうことはなかったし、財産を奪われることもなかった。戦のあと、壊れた城壁や橋などは迅速に修理された。市場の商品は種類も量も豊富になり、広場でのお喋りは声高になって、笑いも増えている。
イースたちを褒めたたえる声は聞かない。が、愚痴も聞かなかった。これはイースが余所者であることを考えると、彼の統治がかなりいいということの証ではないかとトゥーレは思う。
なにより、イースは前王と違って吝嗇家ではなかった。城の食糧庫から頻繁に貧者に粥を恵んでくれるのは、トゥーレたち宿なしにとってたいへんありがたいことだ。
そこまで考えたところで腹がなり、トゥーレは自分が空腹であったことを思いだした。
(今日の食べ物は、またどこかに探しに行かなくちゃダメだな)
トゥーレは盗みをしない。食べ物は溝さらいをしたり道路を掃除したりして、その日食べる分をまかなっていた。
トゥーレはへこんだ腹を見おろし、それからまた高札を見あげた。
知恵試し。
どんな知恵を、どう試されるのだろう。
自信と言うほどではないが、トゥーレはそれなりに知識があると自負していたし、考えてなにかを解くことも好きだった。問題を解いて城で仕事をもらえるなら、願ってもないことだ。
だが、と思いなおす。知恵試し以前に、自分のような薄汚れた宿なしが城に入れてもらえるだろうか。どうせ教養のある金持ちや貴族の子弟ばかりが集まるのではないか。
それに自分はまだ子供だ。たとえ知恵を認められたとしても、城の役目を与えてもらえないかもしれない。
消極的なことばかりをとりとめなく考えたが、最後にはひとつの言葉にたどりついた。
(知恵試し——)
解いてみたい。解けなくても、せめて問題を知りたいと思った。
なおも逡巡したのち、トゥーレは決心した。
だめでもともとだ。城に知恵試しに行こう。役目をもらえなくても、それまでのこと。失うものはない。丘の麓に戻ってまた溝さらいをするだけだ。
そうと決めれば、気分はすっきりした。
もうここに用はない。広場をでようと踵を返そうとしたそのとき、蒼い衣の吟遊詩人と目があった。
彼女はずっとトゥーレを見ていたらしい。親しげに微笑んだ。
「知恵試しに行くのね、トゥーレ」
「え……」
「ずっと高札を見て、考えてたもの。行くんでしょう?」
トゥーレはためらい、小さくうなずいた。身の程知らずと笑われるかと思ったが、詩人はうっとりと眼を細めた。
「王様が知恵試しをするなんて、素敵よね。まるで物語みたいだわ」
詩人は両手を広げ、楽しそうに笑った。
「私も一緒に行くわ、トゥーレ。どんな知恵試しか、ぜひとも見せてもらわなくちゃ!」