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祝福の地 簒奪者と列柱の迷宮  作者: 西東行
第3章 トゥーレ
17/20

(寒い——)

 刺すような冷たさが、肌を覆っている。寒いというよりも、痛いほどだ。

 トゥーレの意識は、いつのまにか二年前の飢饉の年に戻っていた。

 もともとウルガゾンテは数年にいちど、国のどこかで飢饉が起きた。アルティマを襲った飢饉も、そのひとつにすぎなかった。

 あの年は、日に日に食べ物の値段が上がり、市場から食べ物が減っていった。トゥーレの家ではなんとか金をかき集め、それでも足りなくなれば父の蔵書を売って金を作り、食べる物を買った。

 だがやがて、市場から食べ物が消えた。そうして、長い飢えがはじまった。

 母は父に、家を捨ててトリスケルに逃げようとうったえた。たとえ浮浪者になっても飢え死にするよりましではないかと。

 けれど父は、それだけはできないと言いはった。

「土地を捨てて浮浪者になれば、領主様の庇護が受けられなくなる。そうなれば奴隷狩りにあっても、誰も助けてくれないよ。泣き寝入りするしかないんだ。たしかに数年がんばれば、新しい土地で領民として認められることもできるさ。だがそのあいだに、トゥーレやエリスは年頃になるだろう。きれいな子たちだから、奴隷商人にねらわれるに違いない。あの子たちにもしものことがあったらどうするんだ」

 父はためらう母の手を取った。

「大丈夫、この年だけの我慢だ。この飢饉はウルガゾンテ全土で起こってるんじゃない。ほかの土地には食糧があるんだよ。領主様が余所から食糧を買ってくだされば……領民に食糧庫から少しでも放出してくだされば……せめて貸付でも。そうしたら——」

 けれど父の希望はいつまでたってもかなえられず、わずかな食べ物のたくわえはたちまち底が尽きた。残った書物から羊皮紙や表紙の皮がはがされ、庭の木々からも樹皮や芽がむしられた。

(——寒い)

 飢えと寒さばかりでなく、将来への不安や心細さが身にしみた。

 妹のエリスが病にかかり、衰弱した。食べさせてやるパンも肉もなく、医者を呼ぶ金もなかった。トゥーレと母は、妹をはさみこむようにして抱きあい、待った。

 なにを待っていたのか、今思い返してもわからない。なすすべもなく、ただ時が移るのを待っていたように思う。

 そのとき、父が戸口に立った。

 たくましかった父は見る影もなくやせ細っていたが、目だけは見たこともないほど異様に光っていた。

「……食べ物をさがしてくる」

 父が、宙にむかってつぶやいた。

「でもあなた——アルティマのどこに食べ物があるというの」

「さがしてくる。すぐ戻ってくるよ」

 父はどこかたゆたうようにそう言って、おぼつかない足取りで外にでていった。

 トゥーレと母は不安で、強く抱きあった。あいだにはさまれた妹の体は、ぞっとするほど冷たかった。

 しばらくして、家の外で騒ぎが起きた。

「——盗人だ」

「領主様のお邸に——」

「馬鹿な奴だ——犬に——」

 途切れ途切れに聞こえてきた言葉を、トゥーレはよく覚えていない。母がべつの言葉をずっとつぶやいていたからだ。

「……トゥーレ。お父さんは逃げたの。この土地から、私たちをおいて逃げたのよ。きっとそうだわ。逃げたの」

「うん」

 父は逃げた。もうこの土地にはいない。どこかほかの土地にいる。トゥーレも心のなかでそうくりかえした。

「お父さんを恨んじゃだめよ、トゥーレ。誰のことも、恨むのはやめましょう。こんなひどい年なんだもの。しかたないわ」

「うん、お母さん」

 トゥーレと母は、外が完全に静まるまでずっと抱きあっていた。

 そして父は、二度と帰ってこなかった。どこかの男たちが数人やってきて家の扉を叩いたが、トゥーレも母も応対しなかった。彼らも無理におしいってはこなかった。

(お父さんは逃げた)

 数日後、今度は妹のエリスが帰らぬ人となった。意識が混濁したまま、眠るように死んだことが、せめてもの慰めだったろうか。

 だが、母は慰められなかった。

 トゥーレと母はふたりで、妹を埋めるための穴を手で掘った。小さな穴だったが、終わったときには母は疲れはて、魂まですりへったようにそのまますわりこんでしまった。そうして、黙っていつまでも、穴の底を見つめていた。

 母の心も地の底に落ちたのだ。二度と浮かびあがってこられないだろう。母の魂はこれから妹とともにこの穴に葬られる。トゥーレはそんなことを感じた。

「……ごめんなさい、トゥーレ」

 ようやくうつろな目を上げ、母は言った。

「私、もうだめだわ。……弱いお母さんで、ごめんなさいね」

 トゥーレは首をふった。どうして母を責められるだろう。こんなひどい年なのだから。

「お母さんはなにも悪くない。弱くもない。しかたないだけだよ」

 母は声もなく泣きだした。

「——トゥーレ。愛してるわ」

「私も。お母さん」

 翌日、母も死んだ。トゥーレはまだ土をかけていなかった妹の墓穴を掘り広げ、母を妹と一緒に埋めた。

 それからトゥーレは故郷をでて、王都を目指した。

 父の言うとおり、アルティマの飢饉はひどかったが、ほかの土地には食べ物があり、トゥーレはときおり死にかけながらも、物乞いをしてなんとか旅を続けることができた。

 トゥーレはどこまでも続く荒野の道を歩き続けた。足下には小さな紫色の花が咲いていた。空は高く、風がはるか彼方から吹きわたっていた。

 やがてトゥーレは荒野の果てに海を見た。

 海は空と同じあえかな青灰色で、ところどころに白い氷塊がうかんでいた。空と海との見分けのつかない茫漠とした空間からは、冷たい風が吹きよせていた。

 この大地の果てにあって、空はなお澄んで高く、海はかぎりなく広い。そして荒涼とした大地は、圧倒的なまでに力強かった。

 原初の野生を残す風景を見てトゥーレが感じたのは、深い愛情と、畏敬の念だった。

 神々すら未踏の地。その風景は、しかし同時に美しかった。人をよせつけぬ苛酷な土地は、無垢でもあり、高雅であるとすら感じられた。泥炭の香りは豊饒そのものだった。

 たとえ神々に祝福されない無慈悲な土地だとしても。

(きれい)

 これがウルガゾンテ。トゥーレの国なのだ。

 トゥーレはふたたび歩きだした。そのまま海沿いに南下し、王都トリスケルにたどりついた。



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